年表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 05:02 UTC 版)
年表(ねんぴょう、英: timeline タイムライン)は、(歴史上の)出来事を年の順(「年月日」の順、「日付」の順)に記載した表のこと[1]。
注釈
- ^ それに対して、まだ起きていないこと、未来の予定などを日付順に記載した表は、(日本語の場合は)「予定表」や「スケジュール表」などと呼ぶ傾向がある。英語では、過去のことを扱う場合でも、未来のことを扱う場合でも、ともかく、時(time)が、線(line)的に並んでいれば、おかまいなしに「timeline」と呼ぶ傾向が、近年強まっている。実は日本語の「年表」という用語にも、「過去でなければならない」という意味の漢字や語根は含まれていない。ただ(時を表すための字である)「年」と(表形式だという意味の字)「表」の組み合わせである。
- ^ 本当は「歴史」と言っても、音楽史もあれば、科学史もあるし、庶民の(権力闘争とは縁遠い)普通の生活の歴史などもあるのだが、なぜか「歴史」と言うと、なぜか「権力史」になりがちで、政治権力や権力者のことばかりに焦点を当てて他を無視しがちである。たとえば100万人で構成された古代国家があった場合でも、権力者やその取り巻きになっているのはわずか数千人程度で、残りの大多数は権力とはほぼ無縁の、平凡な人々である。ごく一部の例外的な人間の権力闘争にばかり焦点が当てられ、残りの大多数の人々の生活や人生の実態に関する記述がないがしろにされてしまっている。このあたりの問題点は、アカデミックな世界でも、ここ数十年、頻繁に指摘されるようになってきている。
出典
年表(祭日の変遷など)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 14:45 UTC 版)
1030年 - 源頼義は下総の乱を鎮定のため懐島郷(鶴嶺八幡宮のある場所)に源氏の守護神石清水八幡宮を勧請して戦勝祈願をする。(別に宇佐八幡宮勧請説もある)。 1191年 - 鶴嶺八幡大菩薩の隣りに伊予の三島の神を祀る佐塚明神社が建立される。 1281年 - 蒙古退散の祈祷をし、6月閏30日の晦日に勝利したのを記念して「晦日祭」を始め、これが八幡宮と佐塚明神の例祭となった、と現在の鶴嶺八幡宮は説明している。民俗学者の永田衡吉は水無月の祓と考察している。鶴嶺八幡宮の説明は1876年以前には6月29日に行われていたという史実と合わない。(1876年の項参照) 1838年または1840年 - 寒川神社の御輿の紛失事件。 1841年 - この年に幕府の昌平黌地理局の編纂した「新編相模国風土記稿」に佐塚明神が6月29日に浜で禊(みそぎ)を行っているという記述がある。 1841年 - 南湖の御旅所神主の鈴木家は指貫風の烏帽子の着用を許可される。 1868年 - 太政官達は権現、天王、八幡大菩薩などの仏教的神号を禁じた。「佐塚明神」は「佐塚大神」(さづかのおおかみ)、「鶴嶺八幡大菩薩」は「鶴嶺八幡」となる。 1871年 - 太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」が制定された。 1873年 - 前々年の太政官布告によって村社となった鶴嶺八幡宮は、国幣中社となった寒川神社の摂社となる。 1876年 - 旧暦の6月29日に行われていた「みそぎ」の神事を新暦の7月15日とし、名称も「浜降祭」へと変更。県令野村靖宛の申請書には農繁期を避ける旨が記されている。この年まで寒川神社は6月30日、鶴嶺八幡宮(佐塚大神)は6月29日に浜降祭を行っていた。 1877年 - 鶴嶺八幡宮は寒川神社の摂社から解放され、浜降祭を単独で行うようになる。(場所は同一か不明) 1878年 - 浜降祭参加記録2社。寒川神社と鶴嶺八幡宮のみか不明。これ以前の参加社数記録無し。 1879年 - 浜降祭参加記録5社。 1881年 - 浜降祭参加記録8社。 1883年 - 浜降祭参加記録6社。 1899年 - 南湖の海岸沿いに大きな結核療養所の南湖院ができる。神道には「病原菌」という概念はなく、「ケガレ」として認識されているので、付近で「ミソギ」が行われた可能性は低い。後年に「ミソギ」の場所がもし移動したとしてもこの付近は避けられた筈である。 1901年 - 不景気のため浜降祭中止。 1904年 - 浜降祭は奉幣のみ行った。 1906年12月 - 内務省は神社合祀令によって一村一社運動を起こし、明治末から大正初期にかけていわゆる神社整理を推進する。少なくともこの時期までに佐塚大神(旧、佐塚大明神)は鶴嶺八幡宮(旧、鶴嶺八幡大菩薩)に合祀され、旧佐塚大明神の浜降りの行事は鶴嶺八幡の主催となる。その時期は1873年(前記当該年参照)かそれ以前である可能性もある。 1915年 - 浜降祭参加記録11社。 1923年 - 鶴嶺八幡宮は改めて浜降祭に再参加するようになる。 1923年9月1日 - 関東大震災で土地が隆起し、柳島は島でなくなる。相模川の河口は一つになり、「相模川河口」の概念が変わる。寒川神社がかつて「みそぎ」を行っていたと推定されている「相模川河口」の概念はこれにより曖昧となる。近接して「中島」という地名もあり、複数回の過去の大地震による「河口」の概念の改変の可能性が認められる。また「千ノ川」は河口を失い、今の浜見平団地付近は沼地と化した。このため「ミソギ」の場所が移動したとしてもこの付近は避けられた可能性が高い。なお、千ノ川は再整備されて現在では相模川河口付近で相模川に合流するように作られている。 1959年 - 浜降祭参加記録23社。 1960年 - 浜降祭参加記録26社。 1965年 - 浜降祭参加記録13社。 1997年 - 祭日を海の日(当時は7月20日)に変更。寒川神社においては以後も旧祭日であった7月15日に浜降古式祭が行われている。 2004年 - 祝日の改正に伴って海の日が7月の第3月曜日に変更されたため、神事も7月第3月曜日へ変更する。 2016年 - 浜降祭参加記録34社 2020年 - 開催が予定されていた東京オリンピック・パラリンピック競技大会の期間と重なるため6月14日日曜日に日程を変更して開催する予定だったが、新型コロナウイルス感染症拡大に伴う緊急事態宣言発令をうけて中止となった。
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年表(日本仕様)
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2021年10月14日 日本時間の午前1時30分より、レクサスのYouTube公式チャンネルにてワールドプレミア。同時に、レクサス公式サイト上でも概要が発表された。 2022年1月12日 日本仕様車が初のフルモデルチェンジを発表し、同日より発売された。 プラットフォームにレクサスで初となるGA-Fプラットフォームが採用され、ラダーフレーム構造を刷新。溶接技術の最新化によりフレームが軽量且つ高剛性化された。ボディは高張力鋼板の採用範囲の拡大やボンネット・ルーフ・ドアパネルをアルミニウム化(ルーフのアルミニウム化はレクサスで初)。さらにはパワートレーンの搭載位置を後方に70mm・下方に28mm移動したことで、3代目に比べて約200kgの大幅な軽量化と低重心化、前後重量配分の改善が図られた。 パワートレインはエンジンの排気量を3.5Lにダウンサイジングしつつ、ターボ化したことで出力・トルクともに向上されたV35A-FTS型へ換装。トランスミッションは10速化によりギアステップのクロス化や全体のギアレンジのワイドレシオ化を実現し、発進時を除くほぼ全域でロックアップを作動する「Direct Shift-10AT」へ変更された。 パワーステアリングは油圧式からモーターと減速機を用いた電動タイプへ変更され、ブレーキペダルの操作量をセンサーで検出して最適な制動力を油圧ブレーキにより創出する電子制御ブレーキシステムが採用された。 フロントデザインは7組のフローティングバーで立体形状をつくり、フレームレス化された新たなスピンドルグリルが採用され、ヘッドランプはL字形状のクリアランスランプ(デイタイムランニングランプ機能付)を立体形状にするとともに、インナーレンズを二重化してそれぞれに異なる段差が設けられた。リアデザインは2代目NXで導入された「L E X U S」のバラ文字ロゴとなり、リアコンビネーションランプのテールランプはL字形状と一文字を組み合わせたデザインとなった。 タイヤ・アルミホイールはレクサスで最大径となる22インチが新たに設定され、アルミホイールはブラックと切削光輝を組み合わせたデザインとなっている。 レクサスで初となる指紋認証スタートスイッチが採用され、スマートキーを携帯してブレーキを踏みながらスタートスイッチ中央の指紋センサーにタッチすることで車両に登録された指紋情報と照合を行い、指紋情報が一致しなければエンジンが始動しない機構となっている。 ラインナップは標準仕様となるLX600を軸に、後席空間の拡充と寛ぎに重点が置かれた4人仕様の"EXECUTIVE"、フロント・センター・リアの3つのディファレンシャルロックを装備し、扁平率が高い18インチタイヤを採用。ホイールをマットグレー塗装、ホイールアーチモールをブラック塗装、フロントグリルを黒光輝塗装とした専用デザインを採用した"OFFROAD"が設定された。
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年表(2009年まで)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 08:24 UTC 版)
1945年 - 創業 1950年 - 岡山市上内町31番地に山尾被服工業株式会社設立。 1957年 - 東洋レーヨン(現・東レ)の指定工場になる。 1969年 - 「ボブソン」(BOBSON) のブランド名を商標出願 1970年 - ジーンズの製造販売開始。 1971年 - 「ボブソン」ブランド誕生。 1973年 - 株式会社ボブソンに社名変更。 1980年 - 本社社屋完成。 1995年 - 藍星牛仔服装(上海)有限公司設立による上海工場稼動。 2003年 - ISO9001認証取得。 2008年 - 親会社(いわゆる持株会社)の有限会社ヤマオ興産(1988年設立)と合併。ヤマオ興産を存続会社とし、株式会社ボブソンに社名変更。
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年表(2009年から2012年まで)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 08:24 UTC 版)
「ボブソン」の記事における「年表(2009年から2012年まで)」の解説
2009年8月11日 - マイルストーンターンアラウンドマネジメントの出資により、株式会社ボブソン(新ボブソン)が設立される。 2009年11月 - 旧ボブソンから、新ボブソンへ事業譲渡。 2011年5月2日 - 新ボブソンが、東京地裁へ民事再生法の適用を申請。負債総額は2010年2月期末で7億3400万円。 2012年4月26日 - 新ボブソンが、東京地裁より再生手続き廃止決定を受ける。負債は2011年2月28日時点で約10億7400万円。 2012年6月1日 - 新ボブソンが、東京地裁より破産手続開始決定を受ける。
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年表(2012年から)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 08:24 UTC 版)
※便宜上、「山尾被服工業→ボブソン→ピーチフォート」の2009年以降の沿革についても記す。 2010年 - 株式会社ボブソンが株式会社ピーチフォートに社名変更。 2012年4月5日 - 株式会社ボブソンホールディングスが設立される。 2012年11月 - ボブソンホールディングスが、3代目ボブソン社からボブソンブランドを買い戻した。11月21日発表。買収金額等は不明。
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年表(日本)
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1951-1966年の看護倫理に関する教育内容は、「ナイチンゲール誓詞」などの倫理規定のほか、看護師にとっての礼儀・作法、心構え、守秘義務、対人関係など、戦前の流れを引き継ぎ美徳中心であった。 1967年、指定規則の改正により、人類愛、使命感、奉仕などの精神性への偏重が見られた「看護倫理」という科目自体が削除された。 1988年になって、日本看護師協会の「看護師の倫理規定」が策定・公表。 1989年に指定規則が改正されたが、これによって、看護倫理に関する記述は指定規則から全く無くなった。看護判断能力、ケア管理能力、教育指導能力といった看護能力の強化にウェイトが置かれるようになったこと、従来の博愛精神や医師への服従という教育内容に対する批判が高まったことなどが影響している。 1996年の指定規則の改正でも、看護倫理に関して独立した科目は設けられていない。看護倫理教育の重要性には触れたものの抽象的なものにとどまった。 2001年、初めてプライバシーや秘密の保持に関する保助看法上の規定が法律第 87 号で第 42 条の 2 として追加された。 2002年になって、初めて、文科省看護基礎教育の在り方に関する検討会報告「大学における看護実践能力の育成の充実に向けて」(文部科学省, 2002)の中で、人間尊重・擁護の方法について「看護職者は、対象者が治療及びケアを受ける過程で遭遇する具体的な場面で、常に、その人の尊厳と権利を擁護する立場で行動できることが不可欠である」との記載がされた。また、その教育方法についても「学生自身がその意味に深い関心を持ち、看護職者が対象者の権利擁護者として機能することの意義を追求できるよう、具体的な看護事象を用いた演習を組むなど、学生同士の討論や患者などの対象者などから学ぶ方法を採用することが大切である」とされている。さらに、人間尊重について「対象者の立場に立つこと、個人の文化背景・価値・信条の理解、意思決定に必要な情報の提供、自己決定権、人間としての尊厳・人権尊重、インフォームド・コンセントの実践と支援、プライバシーの保護と個人情報の取り扱い、セカンドオピニオンの意義などについて」と具体的に言及した。
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年表(近現代)
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ウィキソースに城南町を廃し、熊本市に編入する件の原文があります。 1955年(昭和30年)3月1日 - 杉上村・隈庄町・豊田村が新設合併し町制施行。城南町が発足。 1967年(昭和42年)4月1日 - 下益城中学校と豊田中学校が統合、城南町立下益城城南中学校が発足 1968年(昭和43年)11月 - 御領貝塚、国の史跡に指定 1972年(昭和47年)7月 - 昭和47年7月豪雨により、黒橋貝塚が発見される 1972年(昭和47年)9月 - 杉上東西小学校の統合議決される 1975年(昭和50年)10月 - 名誉町民第1号に上塚周平が選ばれる 1976年(昭和51年)12月 - 塚原古墳群、国の史跡に指定 1977年(昭和52年)3月 - 名誉町民に上塚司・林田正治が選ばれる 1980年(昭和55年)8月 - 阿高・黒橋貝塚が国の史跡に指定 1982年(昭和57年)5月 - 熊本県民天文台が完成 1983年(昭和58年)11月 - 城南町歴史民俗資料館がオープン 1986年(昭和61年)10月 - 城南橋の開通式 1988年(昭和63年)3月 - 鰐瀬(わにぜ)バイパスが開通 1989年(平成元年)9月 - 名誉町民に小林久雄が選ばれる 1991年(平成3年)3月1日 - 下益城郡富合町と境界変更 1991年(平成3年)3月 - 城南バイパス開通 1993年(平成5年)4月 - 熊本松橋線、国道昇格(266号) 1993年(平成5年)9月 - アイシン九州操業開始 1994年(平成6年)4月1日 - 上益城郡甲佐町と境界変更 1995年(平成7年)3月 - 国道266号蓍町(めどまち)橋が開通 1997年(平成9年)4月 - 火の君総合文化センターがオープン 1999年(平成11年)6月 - 宇城北部広域農道(ウキウキロード)が開通 1999年(平成11年)10月22日 - 天皇・皇后が身体障害者療護施設くまむた荘を訪問 2000年(平成12年) - 名誉町民に東家嘉幸が選ばれる 2002年(平成14年) - 熊本県民天文台で1996年1月に発見された小惑星が、城南と名付けられる 2008年(平成20年)7月 - ブラジル移民100周年記念式典が火の君総合文化センターで開催 2010年(平成22年)3月23日 - 熊本市に編入と同時に城南町は合併特例区になった
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年表(南平岸時代)
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「北海道テレビ放送」の記事における「年表(南平岸時代)」の解説
1967年(昭和42年)12月1日 - 創立。 1968年(昭和43年)5月20日 - 第1回株主総会を開催。代表取締役社長に岩澤靖が就任。 9月30日 - 南平岸社屋完成。 10月5日 - 東京支社を築地の清華ビルに開設。 10月7日 - 免許交付。このときは、教育・教養番組30%以上の条件付きであった。 11月3日 - アナログテレビ(コールサイン:JOHH-TV)本放送開始。本放送開始時の送信所は札幌送信所のみ。 12月15日 - 小樽中継局を開局。初の中継局であり、アナログ放送はVHF。 12月24日 - 旭川送信所を開局。 12月26日 - 札幌送信所で放送事故発生。5時間停波した。 1969年(昭和44年)2月3日 - オープニング・クロージング放送開始。 4月1日 - 関西支社を中之島の朝日新聞ビルに開設。 5月26日 - 札幌送信所で放送事故発生。15時間34分停波した。 11月26日 - 網走送信所を開局。 11月27日 - 帯広送信所を開局。 11月28日 - 釧路送信所を開局。 12月1日 - 室蘭送信所を開局。 12月2日 - 函館送信所を開局。 1970年(昭和45年)1月1日 - ANN発足と同時に加盟。全国ニュースが『ANNニュース』表記となる。 1971年(昭和46年)10月15日 - カラーフィルム現像所が完成。自社制作『二ュースロータリー』は、12月1日からカラー放送を実施。 11月16日 - ポールタウンに「HTBコーナーu」を開設。 1973年(昭和48年)FMラジオ放送の免許を申請。 1976年(昭和51年)10月1日、旭川支社を開設。 1977年(昭和52年)道内民放初となる、ENGシステムを導入。 釧路支社を開設。 1979年(昭和54年)8月1日 - マスコットキャラクター『くん太』使用開始。 函館支社を開設。 1980年(昭和55年)新館落成。第1スタジオ・新マスター運用開始。 1981年(昭和56年)3月11日 - 岩澤の株投資の失敗により、親会社の札幌トヨペットが経営破綻し、経営危機に陥る。19日、岩澤靖は辞職。29日、小林幸雄が社長に就任。 1983年(昭和58年)11月3日 - 音声多重放送開始(札幌地区のみ)。 1989年(平成元年)SNGシステム導入。 1997年(平成9年)11月6日- 道内民放初の字幕放送の開始。 12月1日 - マスコットキャラクター『onちゃん』使用開始。 1998年(平成10年)1月16日 - 日本初となる、地域データ放送「CLARK on ADAMS」開始。 1999年(平成11年)マスター更新(NEC製。2005年内にアナログ放送の送出機能をそのまま残して地上デジタル放送対応に改修)。 2001年(平成13年)3月3日 - CREATIVE OFFICE CUEとの共同制作映画「man-hole」(鈴井貴之監督、安田顕主演)が公開。 2006年(平成18年)1月1日 - ロゴを現行のものに変更。 6月1日 - 札幌地区で地上デジタル放送開始。 2007年(平成19年)10月1日 - 函館・旭川・室蘭・帯広・釧路・網走地区で地上デジタル放送開始。 2008年(平成20年)6月2日 - 地上デジタル放送画面に、局ロゴのウォーターマーク表示を開始。 2011年(平成23年)7月24日 - 地上デジタル放送への完全移行により、アナログ放送を終了。 2018年(平成30年)9月6日 - 北海道胆振東部地震発生、地震発生直後より自家発電での放送に切り替わったが一時的に停波する放送事故が発生。 9月14日 - 南平岸社屋および業務センターの業務を終了・閉館。 9月17日 - 2時25分(16日深夜)から放送された特別クロージングを以って、南平岸社屋からの放送を終了。
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年表(さっぽろ創世スクエア時代)
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「北海道テレビ放送」の記事における「年表(さっぽろ創世スクエア時代)」の解説
2018年(平成30年)9月17日 - 5時49分『創世スクエア移転初放送!新たな歴史をここから』より新社屋からの放送を開始(翌18日未明(17日深夜)の1:20に放送を終了)。特別オープニング終了後、5時50分の『グッド!モーニング・ANNニュース』(テレビ朝日からの同時ネット)から新社屋からの番組放送を開始。 9月18日 - HTB本社、系列子会社のエイチ・ティー・ビー・プロモーション、エイチ・ティー・ビー映像、ディ・キャストがさっぽろ創世スクエア(札幌市中央区北1条西1丁目6番地)に移転し、業務を開始。5:20からのオープニングは『新社屋移転記念オープニング スペシャルゲストTEAM NACSが特別参戦!』としてTEAM NACSが出演した。 11月3日 - 開局50周年。 2019年(平成31年/令和元年)1月12日 - 『FFFFF』の放送で同じ映像を2度流してしまう放送事故が発生した。 2月18日 - 現社屋に移転したことに伴い、南平岸旧社屋の売却を発表。 2021年(令和3年)1月29日 - 南平岸旧社屋を土屋ホールディングスのグループ企業である土屋ホーム不動産に売却することが発表された。建物は解体され、社屋跡地(7961.48平方メートル)は戸建分譲用地として、隣接する駐車場(2074平方メートル)はマンション開発用地として利用される。
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年表(1933年まで)
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1748年 ウィリアム・カレン(Dr. William Cullen; 英国スコットランド グラスゴー大学)がエーテル気化熱を発見。 1803年 豪農トマス・ムーア(Thomas Moore 米国メリーランド州)が「氷を利用して冷蔵する道具」を作成し、これを「refrigerator(冷蔵庫)」と名づけた。Frigerareとはラテン語でcoolという意味で、re frigeratorはto coolである。電気冷蔵庫が一般化して以降、それらが新たに「refrigerator」と呼ばれ、旧来のrefrigeratorには「icebox(アイスボックス)」の名が与えられた(=レトロニム)。 1805年 オリバー・エバンス(Oliver Evans 米国ペンシルベニア州) 吸収型冷却法を提唱(気化した硫化酸を水で吸収する方式)。設計方法のみで製作はされなかった。 1820年 マイケル・ファラデー(英国ロンドン) 液化アンモニアによる冷却を発見 1834年 ジェイコブ・パーキンス(Jacob Perkins 米国の発明家) エーテルを使用した製氷機。圧縮型で米国初の特許。 1848/1849/1855 ジョン・ゴーリエ(John Gorrie 米国フロリダ州) 医者であったゴーリエは、マラリア患者のために使う氷を作ろうと、ファラデーの実験を基に圧縮型冷蔵システムを考案し、オリバー・エバンスの設計を基にした冷蔵庫を開発。エーテルを使用し車輪蒸気エンジンや風車で駆動させた。彼は現在使用されている製氷トレーも考え出した。 1850年 エドモン・カレー(Edmond Carré フランス) 水と硫酸を使用した吸収型冷蔵庫を開発。 1852年 ウィリアム・トムソンとジェームズ・プレスコット(William Thomson & James Prescott) 冷却が圧力差の比率を増加させる。 1856年 アレクサンダー・トワイニング(Alexander C. Twinning 米国) 米国初の冷蔵庫の商用化(とされている)。 1856年 ジェームス・ハリソン(James Harrison オーストラリア) ゴーリエとトワイニングの冷蔵庫を研究し、圧縮型エーテル冷蔵庫を開発。世界初の実用的な冷蔵庫といわれる。ビール業界および食肉加工業界に利用された。 1859年 フェルディナン・カレー(Ferdinand Carré フランス エドモンの弟) アンモニアと水を使用した吸収型冷蔵庫を開発。 米国では、南北戦争(1861-65年)により北側から氷が届かなくなったため、冷蔵庫は南部側で商業的な成功を見た。 1866年 ケモジン(chemogene、エーテルとナフサの混合物)が冷媒として特許取得。 1867年 サザーランド(J.B. Sutherland 米国ミシガン州デトロイト)の冷蔵列車が特許取得。 1870年 米国ニューヨーク、ブルックリンのS. Liebmann’s Sons Brewing Companyで熱吸収型冷却冷蔵庫が使用される。商用の冷蔵施設はビール工場で最初に使われだし、1891年までに全てのブルワリーで冷蔵施設が装備された。 1873年 アンモニアが冷媒として初めて使用される。 1875年 硫化ダイオキサイドとメチルエーテル。 1876年 カール・フォン・リンデ(Carl von Linde(ドイツ語版)(英語版) ドイツ ミュンヘン) アンモニアを冷媒に使用し、1877年に特許取得。 1878年 メチルクロライドを冷媒に使用。 1911年 米国GE社(米国インディアナ州フォートウェイン)最初の家庭用冷蔵庫、2台がフォートウェインにて製造された。これはフランスの僧侶Abbe Audiffrenの発明を用いたもの。これは最初の電気冷蔵庫らしきものである。 1913年 フレッド W ウルフ ジュニア(Fred W. Wolf Jr 米国シカゴ)最初のアメリカ製冷蔵庫DOMELRE (DOMestic ELectric REfrigerator)。商業的には成功しなかった。 1915年 アルフレッド・メロウェス (Alfred Mellowes) 最初の家庭用一体型冷蔵庫をつくる。キャビネット下部にコンプレッサーを装備。翌年Guardian Frigerator社を興して生産・販売したが、手作りで生産台数は2年間で40台程だといわれている。1918年、ゼネラルモーターズ (GM) 創業者ウィリアム・デュラントが(GMでは誰も賛成しなかったため)個人として会社を買った。後にGM傘下に組み入れられた。名称もフリッジデール社 (Frigidaire Company) と変更。さらに、数年後DOMELREの権利も取得し、これが米国での大量生産につながっていく。 1916年 エドモンドJコープランド、アーノルド H. グロスはthe Electro-Automatic Refrigerating Companyを設立し、2か月後ケルビネーターに社名変更の後、ほどなくして現在の冷蔵庫と同じ冷却方式である「phase change heat pump」を採用。しかし、筐体としてはまだリモートタイプと呼ばれる保冷庫部と冷却装置が別々に分かれているもので、原理的には従来の氷箱を冷却装置で置き換えたようなものだった。 1918年 ケルビネーター社がバイメタル式サーモスタット付冷蔵庫を発表。初期の家庭用冷蔵庫は壁に埋め込む金庫のようなもので、騒音が大きかった。 1922年 バルザー・フォン・プラテンとカール・ミュンター(スウェーデン)吸収式冷蔵庫。 1923年 フリッジデール社が世界初の一体型を発表。 1923年 三井物産(日本) 米国から初輸入。 1925年 エレクトロラックス社(スウェーデン)バルザー・フォン・プラテンとカール・ミュンターの特許を取得し世界最初の吸収式冷蔵庫を発表。 1926年 エレクトロラックス社(スウェーデン) 米国で特許取得。 1926年 ウィリス・キャリア(Willis Carrier 米国) 遠心コンプレッサー方式 メチルクロライドを置き換える。 1927年 日立製作所(日本)電気冷蔵庫の試作に成功。 1927年 GE社(米国) 圧縮機を上に置くモニタートップ型。一般に広く使われた初の冷蔵庫で、100万台以上を生産した。二酸化硫黄を使用。 1927年 エレクトロラックス社(スウェーデン) 米国で米国向けの生産開始。 1928年 三井物産が米国GE社製モータートップ型を輸入、東京電気を介して量販。 1930年 ゼネラル・モーターズの研究所でトマス・ミジリーが安定した不燃冷媒クロロフルオロカーボン (CFC) を発見。「フレオン」と名づけ商品化された(日本ではダイキン工業がフロンと名づけたもの)。 1930年代 フラットトップ型に移行 静音化が図られる・。 1930年 芝浦製作所(日本、現・東芝)の1号機(SS-1200) GE製モータートップ型のコピー。 1933年 芝浦製作所(日本)「電気冷蔵器」と名づけ、本格的に発売開始。
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年表(長寿記録)
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「ヘンリー・アリンガム」の記事における「年表(長寿記録)」の解説
1996年6月6日 - 100歳の誕生日。 2003年7月20日 - ジャック・デイビスの死去により存命中の男性のうちイギリス最高齢となる。 2006年6月6日 - 110歳の誕生日。 2006年11月10日 - フランスのモーリス・フロケの死去により存命男性のうちヨーロッパ最高齢となる。 2007年2月13日 - アイダ・メイソンの死去に伴い、イギリスで男女合わせて2番目の長寿となる。 2007年11月1日 - 1993年に111歳146日で死去したジョージ・アイブスを抜いてイギリス軍関係者で最高齢の人物となる。 2008年3月13日 - 1968年に111歳280日で死去したジョン・モーズリー・ターナーを抜いて男性でイングランド史上最高齢となる。 2009年3月29日 - 1990年に112歳295日で死去したウェールズのジョン・エバンスを抜いて男性でイギリス史上最高齢となる。 2009年6月6日 - イギリス人男性として初めて113歳の誕生日を迎える。 2009年6月19日 - 日本(宮崎県)の田鍋友時の死去により世界最高齢の男性となる。 2009年7月18日 - 113歳42日で死去。ヨーロッパの男性では2004年に114歳81日で死去したスペインのホアン・リウダベッツに次ぎ史上二番目に長生きした。
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年表(明治以降)
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1889年(明治22年)10月1日 - 町村制の施行により、刈谷村の区域をもって碧海郡刈谷町が発足。 1906年(明治39年)5月1日 - 碧海郡刈谷町、逢妻村、小山村、重原村、元刈谷村が合併し、改めて刈谷町が発足。 1950年(昭和25年)4月1日 - 市制施行して刈谷市が発足。 1955年(昭和30年)4月1日 - 碧海郡依佐美村の大部分と富士松村を編入。 1994年(平成6年) - 米軍に接収されていた依佐美送信所(無線塔)が日本に返還される。 1998年(平成10年) - 長野県下伊那郡下條村に刈谷市民休暇村サンモリーユ下條を開設。 郡明治22年以前明治22年10月1日明治23年 - 明治45年大正元年 - 大正15年昭和元年 - 昭和64年平成元年 - 現在碧海郡 刈谷村 刈谷町 刈谷町 明治39年5月1日合併 刈谷町 刈谷町 昭和25年4月1日市制 刈谷市 刈谷市 元刈谷村 元刈谷村 元刈谷村 小山村 小山村 小山村 高津波村 逢妻村 逢妻村 熊村 下重原村 下重原村 明治24年8月14日分立 重原村 半城土村 明治24年8月14日分立 半高村 明治39年5月1日合併 依佐美村(一部) 依佐美村(一部) 依佐美村(一部) 昭和30年4月1日刈谷市に編入 高須村 小垣江村 小垣江村 小垣江村 小垣江村 犬ヶ坪村 野田村(一部) 野田村(一部) 野田村(一部) 西境村 境村 境村 明治39年5月1日合併 富士松村 富士松村 富士松村 井ヶ谷村 東境村 明治24年8月14日分立 東境村 泉田村 逢見村 逢見村 逢見村 今岡村 今川村 一ツ木村 一ツ木村 一ツ木村 築地村
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年表(1990年代後半以降)
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「CD不況」の記事における「年表(1990年代後半以降)」の解説
1998年日本国内での音楽CDの生産金額が8cm・12cmの合計で約5879億円(レコードやカセットテープを含めると約6075億円)、CD生産枚数が4億5717万枚とそれぞれ過去最高を記録する(翌年より、シングル・アルバム別では前年比で上回る年もあるが、CD全体の生産金額・枚数は一貫して減少を続ける)。また、ミリオンセラーの数についてもシングル20作・アルバム28作の計48作となり、過去最多を記録。 1999年ゼロ・コーポレーション(日本内外の個性派アーティストを多数紹介していた)が事業解散。 ファイル共有サービスのナップスターが登場。2001年頃にかけて米国で流行するも、著作権問題で全米レコード協会から訴訟を受け、2001年7月にサービスを停止する。 この年以降、音楽CDの生産金額・生産枚数が減少傾向に転じ、CDバブルが崩壊する。 2000年バンダイ・ミュージックエンタテインメント(『アポロン音楽工業』を源流とする中堅メーカー。徳永英明らが在籍していた。後のランティス→バンダイナムコアーツ→バンダイナムコミュージックライブ)が解散。 Amazon.co.jpが日本での営業開始。中古CDの取扱で国内トップクラスのポータルサイトとなる。中古購入が便利になることが、新品CD売上に及ぼす影響は様々である。 日本の国民的バンド サザンオールスターズの「TSUNAMI」が293万枚を売上、当時最も日本で売上枚数の多いシングルCD作品となる。 2001年12月 - フォーライフが特別清算を実施、会社自体はフォーライフミュージックエンタテイメントに承継。 2002年3月 - エイベックスが、日本で初めてコピーコントロールCDを導入する。 2003年4月 - AppleがiTunes Storeをアメリカ合衆国などで開始。日本では2005年よりサービス開始。 同年は日本の国民的アイドルグループSMAPの「世界に一つだけの花」が257万枚を売上。日本で21世紀初のダブルミリオンセラーとなった。 2004年11月 - 日本KDDIが携帯電話向けの音楽配信サービスである着うたフルを開始する(曲の一部を配信する着うたは2002年12月に先行開始したものの、スマートフォン向けの音楽配信サービスが台頭後は急速に低迷し結果的に2016年12月を以ってサービス終了)。 ソニー・ミュージックエンタテインメントの米国法人とBMGが合併。世界最大級の音楽ソフト企業同士の合併であった。 2005年3月 - 株式会社丸井が、ヴァージン・メガストアーズ・ジャパンの全株式を株式会社カルチュア・コンビニエンス・クラブ傘下の株式会社TSUTAYA STORESホールディングスに売却。株式会社カルチュア・コンビニエンス・クラブの子会社となる。 12月 - 動画共有サイトのYouTubeが公式にサービスを開始。 iTunes Music Storeが、日本での本格サービスを開始し、開始4日間で100万ダウンロード達成。 著作権法の改正により、日本のアーティストのいわゆる逆輸入CDが事実上輸入禁止になる。 この年は日本国内でのアルバムの前年比での売上は減ったが、枚数は増加した。 2006年6月 - 日本はこの月までにすべてのレコード会社がコピーコントロールCDでの販売を終了した。 8月 - 米タワーレコードが2度目の破産。発祥の地・米国では店舗が事実上消滅。 12月 - 東芝が東芝EMIの株式を英EMIに売却、音楽・映像分野から撤退。社名は翌年6月30日より「EMIミュージック・ジャパン」に変更(2013年4月にユニバーサル ミュージック合同会社に吸収され法人消滅)。 日本はこの年はシングルの前年比での売上・枚数とも増加した。 2007年7月 - 女子十二楽坊の日本盤作品をリリースしていたミューチャー・コミュニケーションズが倒産。 2008年10月 - 音楽ストリーミングサービスのSpotifyがスウェーデンでサービスを開始。 12月 - 日本でKDDIが一部のau携帯電話専用の着うたフルの上位版サービスにして高音質音楽配信サービスである着うたフルプラスを開始する。 この年の日本の年間シングル売上首位は嵐の『truth/風の向こうへ』であったが、売上件数として65万枚に満たず、平成及び21世紀更に2000年代での最少記録となった。その他方で、フル配信のミリオン作品は多数誕生し、本年発表分では青山テルマ『そばにいるね』がフル配信300万DLを達成したのをはじめ、GReeeeNの『キセキ』、また前年発売の『愛唄』と、200万DL超の作品も存在する。 2009年1月 - ヴァージン・メガストアが日本国内の全店舗を閉店(一部TSUTAYAに業務転換し継続)。 10月 - サウンドホリック(ヘヴィメタル/ハードロック専門レーベル)が代表者の死去により解散。 2010年9月 - HMVジャパンが渋谷店閉店。 この年、日本のCD年間売上トップ10のうち6作品が嵐のシングル、4作品がAKB48のシングルとなり、2組でトップ10が占められる。以降、2019年まで10年連続でAKB48のシングルがCD年間売上1位となる。 2011年3月 - 石丸電気イシマルソフト本店(秋葉原)が閉店。 7月 - Spotifyが米国国内でサービスを開始。 8月 - WAVEが自己破産申請の準備に入り、事実上の倒産。 この年の3月に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。同震災は、第二次世界大戦後、日本の史上最悪な規模の自然災害となり、それが生んだ従来以上の自粛ムードによって、音楽業界にも大きな打撃を与え、その期間は長期に及んだ。 2012年音楽ディストリビューションサービスのTuneCore Japanが日本国内でサービスを開始。 4月 - ソニー・ミュージックエンタテインメントの傘下会社であるキューンレコードが、社名(レーベル名)を「キューンミュージック」(後のソニー・ミュージックレーベルズのブランド)に変更。 2013年1月 - HMVが経営破綻。 4月 - ユニバーサル ミュージック合同会社とEMIミュージック・ジャパンが統合し、新生「ユニバーサル ミュージック合同会社」としてスタート。 2014年この年以降、ストリーミング方式による定額制の音楽配信が、各国で順次スタート。ダウンロード販売や、フィジカルのCD販売においても、大きな影響を与える。 国際レコード産業連盟(IFPI)の調査で、この年の全世界におけるCD、レコード等のパッケージ売上高が音楽配信の売上高を下回る。 2015年5月 - AWAが日本国内でサービスを開始。サイバーエージェントとエイベックス・デジタルの共同出資。 6月 - Apple Musicが日本を含む世界100カ国以上でサービスを開始。 6月 - LINE MUSICが日本国内でサービスを開始。 9月 - Google Play Musicが日本国内でサービスを開始。(2020年末をもって、YouTube Musicに移行) 2016年9月 - Spotifyが日本国内でサービスを開始。当初は招待制で、同年11月に一般公開された。 12月 - SMAP解散騒動によるファンらの購買運動により「世界に一つだけの花」の売上が300万枚に達し、21世紀初のトリプルミリオンセラーとなり、歴代の記録の面でも、サザンオールスターズ「TSUNAMI」の売上を抜いた。 2017年宇多田ヒカル、DREAMS COME TRUEなどのアーティストの楽曲がサブスクリプション解禁(定額ストリーミングサービスで配信開始)。 11月 - Amazon Musicのサブスクリプションサービス「Music Unlimited」が日本国内でサービスを開始。 2018年椎名林檎、松任谷由実、Mr.Childrenなどのアーティストの楽曲がサブスクリプション解禁。 11月 - YouTube Musicが日本国内でサービスを開始。 2019年嵐、安室奈美恵、サザンオールスターズ、BUMP OF CHICKEN、星野源などのアーティストの楽曲がサブスクリプション解禁。 5月 - 株式会社ジャニーズ・エンタテイメントが株式会社ジェイ・ストームに統合され、同社の社内レーベルとなる。 12月 - 同年の「ユーキャン新語・流行語大賞」に「サブスク(サブスクリプション)」がノミネートされる。 米国におけるレコード流通に途絶の危機。Direct Shot Distributing社による流通の寡占により、中小の店舗に流通が滞る事態が多発している。 米国の音楽売上におけるストリーミングサービスが占める割合が全体の80%に達する。CDなどの物理メディア、ダウンロード販売はともに1割未満となった。 2020年aiko、久保田利伸、RADWIMPS、米津玄師などのアーティストの楽曲がサブスクリプション解禁。 新型コロナウィルスの猛威により、実演家の多くが発表の場を失い、活動継続の危機に瀕する事態となった。また米国では、感染拡大を懸念してCDショップの営業停止が相次いだため、2020年上半期のCDの売上が30年ぶりにアナログレコードのそれを下回った。 12月 - YOASOBIが第71回NHK紅白歌合戦に出場。メジャーレーベル所属であるが、出場当時は配信シングルのみのリリースで、CDは未発売であった。 2021年B'zの楽曲がサブスクリプション解禁。
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年表(主な五相会議)
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1933年10月3日 - 初の五相会議が開催される。 1936年8月7日 - 大陸・南方への進出と軍備充実を定めた「国策の基準」を決定した。 1936年8月11日 - 「第二次北支処理要綱」を決定した。(北支民衆本位の分治政治・防共親日満地帯の確立により、国防資源の獲得・交通施設の拡充、また蘇国の侵寇に備え、日満支三国提携共助実現の基礎にする事を、北支処理の主眼とする) 1937年7月11日 - 陸相の、「威力の顕示」による「支那側の謝罪及保障確保」を理由とした内地三個師団派兵等の提案が合意された。盧溝橋事件参照。 1938年6月10日(閣議) - 五相会議を正式な国策協議機関とする。 1938年7月 - 防共協定強化問題に関し、ドイツと対ソ軍事同盟締結の方針を決定した。 1938年12月6日 - 「猶太人対策要綱」を決定した。河豚計画参照。 1939年1月23日 - 三国同盟案に関して、日独伊の相互武力援助はソ連のみを対象とし、第三国は状況によって対象にするという妥協方針を決定した。 1939年3月22日 - 「独伊両国が英米と開戦した場合、日本は原則として支持するが、現在および近い将来に参戦することは難しい」という結論を出した。 1941年10月12日 - 近衛首相、豊田外相、東条陸相、及川海相、鈴木企画院総裁は戦争の是非について会談、陸相は支那からの撤兵に強く反対した。
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年表(独立の歴史)
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1875年(明治8年)4月15日、神道事務局が開局する。 1876年(明治9年)10月23日:神道事務局から黒住派、神道修成派の別派特立。神道修成派は、大講義であった新田邦光が富士信仰、御岳信仰の行者を結集した修成講社にはじまり、行者の低俗視から圧迫を受けたため独立を願い出ていた。 1882年(明治15年)5月15日:神道事務局から神宮派、大社派、扶桑派、実行派、大成派、神習派の別派特立。この時点で国家神道と教派神道が明確に区別される。 1882年9月28日:神道事務局から御嶽派の独立。 1882年10月5日:これまで派名で独立していたが、分派ではないとしてそれぞれ教団となる。 1884年(明治17年)8月11日、太政官布達により、12年間続いた教導職は廃止された。 1884年(明治17年)10月:神道事務局は有栖川宮総裁のもとで旧淀藩主稲葉正邦を管長として教派神道の形態を整える。 1886年(明治19年)1月:神官・神職以外の旧教導職が集まり、神道事務局は神道教規を制定し神道本局(のちの神道大教)と改め独立した。神道本局の正式な教派名は神道だが、一般用語の神道と紛らわしいので、事務局があった場所が神道本局であるために神道本局と呼ばれることが多い。 1894年(明治27年)10月:御嶽教から神理教が独立。神道本局から禊教が独立する。 1899年(明治32年)神宮教は伊勢神宮から生まれていた一教団であったために国家神道の確立と共に、国家事業である神宮大麻の頒布を任されていることへの批判もあり解散する。このときまでは神宮教も明確に教派の一つであった。 1900年(明治33年):神道本局から金光教が独立。 1908年(明治41年):神道本局から天理教が独立。このとき天理教の教師数が21000人ほどであったため、神道本局の教師数が30000人ほどから9000人ほどにまで激減した。 1912年(明治45年)2月25日、華族会館にて三教会同として、教派神道13名、仏教51名、キリスト教7名の代表が集った。金光教や天理教は明治政府の弾圧により、神道的に教義を整え教派神道に合流している。 このようにある教団の中により小さな宗教組織が内包されていたのは、宗教団体法という制度があったからである。宗教団体法では、宗教団体として登記するためのハードルが高いため、小規模な組織は大きな組織に形式上属していることが必要とされた。敗戦後の宗教法人法では、宗教法人になることが以前より容易になったので、より小さな宗教団体の離脱が多くなる。
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年表(沿革)
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「民族衣裳文化普及協会」の記事における「年表(沿革)」の解説
1977年(昭和52年) - 文部大臣の認可を受けて、財団法人「民族衣裳文化普及協会」を設立。 1978年(昭和53年) - 機関紙「きものと生活文化」第1号を発行 1979年(昭和54年) - 三笠宮妃百合子殿下(三笠宮崇仁親王妃)を名誉総裁として推載 1980年(昭和55年) - 日本オランダ文化交流展(ライデン民族博物館)に派遣 1981年(昭和56年) - 駐日アメリカ大使マンスフィールド夫人を招き文化講座「江戸の里神楽」開催 1983年(昭和58年) - 無料公開講座「女性文化大学」を東京・名古屋にて初公開 1985年(昭和60年) - 国際科学技術博覧会にて「時代祭=着物今昔」開催 1986年(昭和61年) - 文化庁主催第1回国民文化祭の生活文化フェスティバル・民族衣裳部門を東京にて共催 1987年(昭和62年) - オーストラリア・クインズランドジャパンフェスティバル'87「祭」にて「きものショー」開催 1989年(平成元年) - 会報「きもの文化」発行開始。(年2回発行) 1993年(平成5年) - 多摩東京移管100周年を記念して「女性文化大学」を国営昭和記念公園にて開催 1994年(平成6年) - トルコ共和国「イスタンブール・ジャパンフェスティバル'94」に参加 2001年(平成13年) - 名古屋能楽堂にて「女性文化講座」悠久の宴・千年の恋を実施 2002年(平成14年) - ハワイ大学セミナーをハワイ島ヒロで開催し、日本文化集中講座を実施 2003年(平成15年) - イリノイ大学とシカゴ美術館に招かれ夫々王朝装束を中心に「きものショー」開催 2005年(平成17年) - 2005年日本国際博覧会(愛・地球博、愛知)へ参加協力 2006年(平成18年) - イタリア・ミラノ「きものイベントツアー」ワークショップを開催 2008年(平成20年) - フランス・パリにて源氏物語千年紀記念「十二単きものショー」開催 2009年(平成21年) - 「ゆかたキレイコンテスト'09」を東京・浅草花やしきで開催
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年表(エフビズおよびご当地Biz)
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「富士市産業支援センター」の記事における「年表(エフビズおよびご当地Biz)」の解説
2008年 8月:f-Biz(えふビズ)「富士市産業支援センター」@静岡県富士市(人口26万人)を開設。オープン月の相談件数は123件。 2009年 4月:「富士市発!ドリームキッチン・プロジェクト」開始。 10月:S-Biz(えすビズ)「すがも事業創造センター」@東京都豊島区(人口29万人)を開設。 2010年 4月:としまビジネスサポートセンター@東京都豊島区(人口29万人)を支援。 7月:K-Biz(けービズ)「くしろ起業サポート相談会」@北海道釧路市(人口17万人)を支援。 月間約140件以上寄せられる相談に対し、新商品開発や新分野進出、販路開拓など個々の課題に即したサポートを実施。特別展示「f-Bizキャリア博」を開催。 2011年 6月:M-Biz(えむビズ)「牧之原市産業応援チーム」@静岡県牧之原市(人口4.4万人)を支援。 7月:T-Biz(てぃービズ)「てぃーだビジネスサポート」@沖縄県浦添市(人口11万人)を支援。 2012年 6月:A-Biz(えービズ)「熱海市チャレンジ応援センター」@静岡県熱海市(人口3.6万人)を開設。 2013年 7月:起業家を育む都市型インキュベート施設「富士市産業支援センターf-Biz egg(エフビズエッグ)」開設。 10月:OKa-Biz(おかビズ)「岡崎ビジネスサポートセンター」@愛知県岡崎市(人口38万人)を開設。 2014年 4月:松坂屋富士ギフトショップにf-Bizのコーナーが誕生 4月:練馬区ビジネスサポートセンター@東京都練馬区(人口73万人)を支援。 5月:Ryu-Biz(りゅうビズ)「琉球銀行コンサルティング営業部」を支援。 2015年 4月:Ama-Biz(あまビズ)「天草市起業創業中小企業支援センター」@熊本県天草市(人口7.9万人)を開設。 8月:各分野の第一線で活躍する女性たちによる支援チーム「f-Biz女性企業家応援事業」を結成。 2016年 6月:富士市アンテナショップ「富士の市」(東京都港区赤坂2-5-8 赤坂258ビル1F Mail Boxes Etc.(MBE)溜池山王店内)を民間運営の支援会社が開設。 7月:Seki-Biz(せきビズ)「関市ビジネスサポートセンター」@岐阜県関市(人口8.7万人)を開設。 7月:Suso-Biz(すそビズ)「裾野市産業支援センター」@静岡県裾野市(人口5.2万人)を開設。 7月:Sima-Biz(しまビズ)「新上五島町産業サポートセンター」@長崎県南松浦郡新上五島町(人口1.8万人)を開設。 8月:起業支援内容をメニュー化したスタンプラリー形式でわかりやすい「ステップシート」を導入。 12月:Fuku-Biz(ふくビズ)「福山ビジネスサポートセンター」@広島県福山市(人口46万人)を開設。 2017年 1月:ひむか-Biz(ひむかビズ)「日向市産業支援センター」@宮崎県日向市(人口6.1万人)を開設。 2月:D-Biz(ディービズ)「大東ビジネス創造センター」@大阪府大東市(人口12万人)を開設。 3月:N-Biz(エヌビズ)「直鞍ビジネス支援センター」@福岡県直方市(人口5.6万人)を開設。 6月:来場相談、過去最高に 昨年度の運営実績に。来場相談件数は4,389件(前年度比4.4%増)創業の実現件数も最多の50件を記録。目的別では、販路拡大(2,732件)が6割を超えて最多。創業808件▽事業全般340件▽新製品開発250件の順。 7月:O-Biz(オービズ)「大村市産業支援センター」@長崎県大村市(人口9.3万人)を開設。 8月:全国Biz自治体交流大会「Biz版 地方創生会議@静岡県富士市ロゼシアター」開催。 8月:Iki-Biz(イキビズ)「壱岐しごとサポートセンター」@長崎県壱岐市(人口2.6万人)を開設。 9月:全国各地から特選「第1回ビズフェア」開催。 11月:らづ-Biz「木更津市産業・創業支援センター」@千葉県木更津市(人口13万人)を支援(開設は2015年10月)。 11月:全国各地から特選「第2回ビズフェア」開催。 12月:おおなんBiz(おおなんビズ)「邑南町しごとづくりセンター」@島根県邑智郡邑南町(人口1.0万人)を開設。 2018年 1月:ドッコイセ!-Biz(どっこいせビズ)「福知山産業支援センター」@京都府福知山市(人口7.8万人)を開設。 6月:「釧路市ビジネスサポートセンター・センター長」@北海道釧路市(人口17万人)を開設。 6月:Gaki-Biz(がきビス)「大垣ビジネスサポートセンター」@岐阜県大垣市(人口15万人)を開設。 7月:Hitoyoshi-Biz(ひとよしビズ)「人吉起業創業・中小企業支援センター」@熊本県人吉市(人口3.3万人)を開設。
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年表(明治以降)
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1868年(明治元年)6月 - 「福生村」全村が韮山県、「熊川村」の一部が同県、一部が品川県となる。 1869年(明治2年)4月 - 熊川村が全村、品川県となる。 1873年(明治6年) - 森田浪吉が、森田製糸所を熊川村で創業する(現東京都では初めての製糸所)。 1875年(明治8年)6月 - 熊川村、福生村、川崎村(現羽村市)、羽村(同)、五ノ神村(同)が合併して、「多摩村」となる。 1878年(明治11年)7月 - 郡区町村編制法が制定、11月に西多摩郡の管轄になる。 1879年(明治12年)2月 - 田村半十郎、神奈川県議会議員に当選。村議会開設。 1884年(明治17年)7月 - 「川崎村外四ヶ村」の連合村となる。8月 - 「西多摩困民党」の動きが周辺各村で起こる。 1887年(明治20年) - 石川弥八郎(千代蔵)、ビールの製造に着手。 1888年(明治21年)7月 - 現福生市域と、現羽村市域の対立が激しく、同連合村解体。 1889年(明治22年)4月 - 「福生村熊川村組合」が発足。 1893年(明治26年)4月 - 東京府神奈川県境域変更法により、福生、熊川ともに、東京府に移管。 1894年(明治27年)11月 - 青梅鉄道、青梅 - 立川間開通。 1909年(明治42年)3月 - 福生小学校、現在地(福生第一小学校)にできる。 1915年(大正4年) - 福生村の一部に電灯がつく。 1922年(大正11年)3月 - 福生村、熊川村の人口が、合わせて5,000人を超える。 1923年(大正12年)4月 - 郡制廃止により、三多摩の各郡役所廃止。青梅鉄道、電化。 1925年(大正14年)4月 - 五日市鉄道開通。 1928年(昭和3年)6月 - 3代続いた森田製糸所、終焉(多摩製糸と改称)。 1929年(昭和4年)11月 - 片倉製糸、多摩製糸を買収。 1931年(昭和6年)5月- 五日市線熊川駅開設。12月 - 八高線開通で、東福生駅開設。 1932年(昭和7年)11月 - 福生村で税金滞納をめぐって村役場と村民対立。 1936年(昭和11年) - 陸軍航空立川支廠(熊川倉庫)できる。 1940年(昭和15年)4月 - 多摩飛行場(福生飛行場)できる。8月 - 福生村に憲兵分遺隊新設。11月10日 - 福生村、熊川村が合併し、町制を施行。「東京府西多摩郡福生町」となる。 1942年(昭和17年)10月 - 陸軍航空審査部が新設される。 1943年(昭和18年)7月 - 都制が施行され、「東京都西多摩郡福生町」となる。8月 - 片倉製糸、多摩航機製作所と改称し軍需産業に転換。 1944年(昭和19年)3月 - 人口、1万人を超える。7月 - 牛浜駅、開設。 1945年(昭和20年)- B29の爆撃により、4月と8月に熊川で死者4名発生。8月15日 - 日本がポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争終結。9月 - 米軍第1騎兵師団、福生飛行場(横田基地)に進駐。 1946年(昭和21年) - 多摩航機製作所、自転車の生産開始(後に片倉自転車に改称)。 1947年(昭和22年)4月 - 初の公選で、岸徳次町長誕生。11月 -福生第一小学校で学校給食開始。 1948年(昭和23年)1月 - 町自治体警察署設置。 1950年(昭和25年)10月 - 国勢調査戸数2920戸、人口14,669人。 1951年(昭和26年)7月 - 福生七夕まつり始まる。12月 - 福生駅東口、開設。 1954年(昭和29年)8月 - 簡易水道各戸給水開始。 1958年(昭和33年)9月 - 福生郵便局新局舎完成(現在地)。福生電報電話局開設(福生郵便局より分離)。 1961年(昭和36年)3月 - 青梅線、拝島 - 福生間複線化。牛浜駅、青梅線最初の橋上駅舎となる。 1963年(昭和38年)10月 - 熊川団地、入居開始。 1967年(昭和42年)2月 - 加美平団地、入居開始。 1968年(昭和43年)5月 - 西武拝島線開通。 1969年(昭和44年)3月 - 福生地区消防組合(福生、羽村、瑞穂)設立。 1970年(昭和45年)7月1日 - 3万人市制特例法により、人口38,749人、世帯11,631戸をもって市制を施行し、「東京都福生市」となる。 1974年(昭和49年)4月 - 福生団地、入居開始。 1978年(昭和53年)6月 - 市内一部地域で下水道使用開始。 1983年(昭和58年)9月 - 市の人口、5万人を突破。 1986年(昭和61年)10月 - 公共下水道(汚水)完成。11月 - 福生駅橋上駅舎、自由通路完成。 1987年(昭和62年)5月15日 - 防災行政無線が開局される。 1989年(平成元年) - 片倉自転車、八王子に移転(後に合併、廃業)。 1991年(平成3年)11月 - 市の人口、6万人を達成 2004年(平成16年)4月 - 福生第一中学校でランチルームを設置しカフェテリア方式による給食を開始。(2006年までに全中学校で実施) 2007年(平成19年)3月 - 東福生駅の橋上駅舎と階段に屋根が設置される。 2008年(平成20年)3月 - 2棟のタワーとそれを結ぶフォーラム、その上の丘の広場からなる、延べ床面積10,228.77m2の市役所新庁舎完成。(設計、山本理顕設計工場) 2010年(平成22年)3月 - 昭島市側の工事が終わり、拝島駅の橋上駅舎化がすべて完成する。 2013年(平成25年)4月 - 牛浜駅橋上駅舎建て替え工事が竣工する。 2017年(平成29年)9月 - 防災食育センター開設。中学校でも小学校と同様の学校給食を開始。避難所・備蓄・応急給食といった防災機能も併せ持つ。 ※参考資料 - 1997年、福生市教育委員会、同郷土資料室編集発行、「写真でたどる福生の百年」。1994年、福生市史編さん委員会編、福生市発行、「福生市史、上・下巻」。多摩川流域リバーミュージアム。他。
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年表(未来)
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「トランクス (ドラゴンボール)」の記事における「年表(未来)」の解説
エイジ766 - 誕生。間もなく孫悟空が心臓病で他界。その半年後、他の戦士と同様にベジータが人造人間との戦いで死亡し、母子家庭になる。 エイジ779(13歳) - 悟飯に弟子入り。原作では、トランクスはすでに超サイヤ人に覚醒している。 エイジ780(14歳) - 悟飯との修行の最中に出現した人造人間と戦おうとするが、戦士全滅を防ごうとした悟飯に気絶させられ戦いには不参加。その戦いで悟飯は死亡し、アニメではそれをきっかけに超サイヤ人に覚醒した。 エイジ784 - (17歳) - 修行で自信をつけ人造人間に挑むが、返り討ちにあう。アニメスペシャルでは序盤は善戦するも、体力が落ちてくると一方的な展開となり、痛めつけられて重傷を負い、結局敗北する。そのことで過去へ行くことを決意し、回復後に悟空に特効薬を渡すべくエイジ764に旅立つ。出発前、タイムマシンに「Hope(希望)」と書いた。過去でフリーザ親子を倒した後、その時代の悟空に人造人間の存在と自身の正体を教え心臓病の特効薬を渡して未来世界へ帰る。 エイジ785(18歳) - その数ヵ月後、再びタイムマシンに乗りエイジ767の5月12日へ行く。ところが、自身が介入したため孫悟空が病気に侵されるタイミングや、16号・19号およびドクター・ゲロが自らを改造した20号といった、トランクス自身の知らない別の人造人間の登場など、時間のあらゆる部分でズレが生じたことに困惑(この時ピッコロの口からトランクスの正体を全員が知ることになる)。さらには父ベジータの独断専行を止めようとするも、プライドの塊であるベジータが聞く耳を持つはずも無く却下され続ける。その後も、ベジータのピンチに助太刀するも人造人間たちには力及ばず、結局18号に敗れる。悟空たちに協力する中、精神と時の部屋で修行を行い戦闘力を上げるも、パワーに頼った変身をしたために完全体となったセルに敵わず、欠点を指摘され戦意を喪失。アニメでは最終変身前の戦闘が大幅に追加され、セルからは「ベジータ以上の強さ」と評価された。セルゲームに向けて再び精神と時の部屋での修行を行い、セルゲームではセルに「セルジュニアと互角の戦い」と評価される戦いを繰り広げた。悟空とセルの試合においては「消耗したセルを全員で攻撃して倒そう」と提案し、ベジータから「サイヤ人の誇り」がないことや悟空の戦いを穢すことを叱られた。自爆から復活した後のセルに瞬間移動からの不意打ちによる指先からのビームで体を貫かれて殺されるも、ドラゴンボールの力で生き返る。その過去での戦いが終わった翌日、未来世界へ戻り人造人間17号と18号を破壊。 エイジ788(22歳) - 人造人間17号と18号の破壊から3年後、過去へ向かおうとしていたセルを倒し、未来世界を平和に導く。
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年表(現代)
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「トランクス (ドラゴンボール)」の記事における「年表(現代)」の解説
エイジ766 - 誕生。 エイジ774(8歳) - 特に理由もなく、超サイヤ人に覚醒。 第25回天下一武道会に出場し、少年の部で優勝。アトラクションとしてミスター・サタンと対戦し、場外負けにする。悟天と共にマイティマスクに扮して、大人の部にも出場。バトルロイヤル決勝戦で18号の攻撃で正体が公になったため、2人1役を演じていたというルール違反により反則負けとなり、悟天と共に逃げ出す。 ビーデルから魔人ブウの話を聞かされて戦いの場に向かい、ベジータの動きを封じて攻撃するブウを蹴り飛ばす。自爆を決意したベジータに初めて抱きしめられた後、気絶させられて、そのまま避難させられる。 悟天とのフュージョンでゴテンクスとなり、ブウと戦うが、吸収される。悟空とベジータに救出されるも、地球消滅と共に死亡するが、新ナメック星のドラゴンボールで生き返る。 エイジ776(10歳) - ミスター・サタンのホテル落成記念式典に参加。悟天とフュージョンして地球に襲来した合体アカに対抗した。 エイジ784(18歳) - 第28回天下一武道会に参加。
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年表(明治以後)
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明治2年(1869年)9月、開拓使の松本判官が属僚とともに移住民130人を率いて来住し、開拓使役所を根室に置く。和田地区が根室開拓使役所の管轄となる。 1880年(明治13年) - 戸長役場が置かれる。 1892年(明治25年) - 清隆寺開く。 1931年 (昭和6年)8月24日 - リンドバーグ夫妻が北太平洋を飛行機で横断し根室に到着した。 1957年(昭和32年)8月1日 - 根室郡根室町・和田村が新設合併し、根室市が発足。 1959年(昭和34年)4月1日 - 花咲郡歯舞村を編入する。 1968年(昭和43年) - 開基100年記念事業を実施する。
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年表(日本)
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1890年頃、繊維産業で女性が雇用されるようになり、工場労働者の約9割が女性であった。 1901年、百貨店である三井呉服店(現:三越)が、3人の女性正社員を採用した。日比翁助は「結婚までの腰掛け」ではなく本格採用した理由として、徴兵制度があった日本軍では、3年間の兵役義務がある男性より、仕事内容をじっくり教える事が出来て、例え妊娠・出産で半年間休んでも、6回までなら男性と同じである「極めて合理的な判断」だった。 1911年、工場法公布。 1914年 - 1918年、第一次世界大戦。 1916年、工場法施行。 1916年、和文タイプライターの急速な普及に伴い、タッチタイピングに従事する女性(「タイピスト」)が増加した。当時の働く女性は「職業婦人」と呼称された。 1920年代、世界経済の好調を背景に、女性の社会進出が進んだ。モダンガールの時代。 1923年、工場法改正。11時間労働。 1925年、『女工哀史』(改造社)。当時の工場での過酷な女性労働を描いた細井和喜蔵著のルポルタージュ。 1929年、工場法改正。児童、女子労働者の深夜業禁止。 1929年、上野松坂屋にてエレベーターガールが登場。それまでは男性がエレベーターを運転していた。 1931年 - 1945年、十五年戦争の時代。戦時体制で工場労働者の処遇改善は後回しにされた。 1947年、労働基準法の制定。男子労働者への保護規制を導入。女子保護規定も他の先進国と同等になった。8時間労働。 1953年、労働省が『働く女性の実情』を公表。以後現在に至るまで毎年公表を続ける。 1954年 - 1975年、「青森 - 上野」間で、夜行の集団就職列車が運行された。 1972年、「勤労婦人福祉法」が施行。 1985年、女子差別撤廃条約を日本が批准。 1985年、男女雇用機会均等法成立(施行1986年)。実効性が不十分で、コース別採用などの新たな問題も生まれた。 1993年、パートタイム労働法成立、同年施行。 1997年、改正男女雇用機会均等法成立(施行1999年)。男女平等を推進するため、労働基準法から女子保護規定が撤廃された。 1999年、改正労働基準法の施行により、女性の深夜労働の制限が撤廃。代わって育児介護休業法に育児・介護を行う労働者への配慮規定の制度が追加された。 2006年、改正男女雇用機会均等法成立(施行2007年)。
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年表(近現代)
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1871年8月29日(新暦) - 廃藩置県に伴い現在の鹿屋市全域が鹿児島県に属す。 1871年12月25日(新暦) - 廃藩置県後の府県合併に伴い都城県に属す。 1873年1月15日 - 都城県の廃止(初代宮崎県の設置)に伴い鹿児島県に属す。 1874年 - 鹿屋・高隈・大姶良・古江の各郵便局が業務開始。 1888年 - 肝属郡と南大隅郡の役所が垂水郷から鹿屋郷に移転。鹿屋が大隅の中心となるきっかけとなる。 1889年4月1日 - 町村制度施行により、現在の市域に相当する以下の村々が発足。西串良村(串良郷を東西に分割)を除いて藩政時代からの「郷(外城)」を引き継ぐかたちとなった。肝属郡鹿屋村・花岡村・大姶良村・高隈村・西串良村・姶良村・百引村 東囎唹郡市成村 1896年4月1日 - 郡区画改正に伴い、東囎唹郡市成村から囎唹郡市成村となる。 1897年2月 - 電信業務を開始。 1900年 - 鹿児島県農学校(現在の県立鹿屋農業高校)が鹿屋村に移転。 1901年 - 西原競馬場を開設。 1902年10月 - 電報・電話の業務を開始。 1912年12月31日 - 鹿屋村が町制施行、鹿屋町となる。 1915年7月11日 - 南隅軽便鉄道(1916年に大隅鉄道と改称、後の国鉄古江線→大隅線)のうち、高須 - 鹿屋間が開通。当時の鹿屋駅は向江町に設置されていた。 1916年4月 - 鹿屋町役場(後の初代鹿屋市庁舎)を現在の鹿児島銀行鹿屋支店の位置に設置。 1920年12月23日 - 大隅鉄道のうち、鹿屋 - 高山間が開通。 1921年8月11日 - 大隅鉄道のうち、高山 - 串良間が開通。 1923年 - 旧制中学校の県立鹿屋中学校(現在の県立鹿屋高校)が開校。 1923年12月19日 - 大隅鉄道のうち、高須 - 古江間が開通。 1929年2月 - 競馬場を札元に移転。 1932年5月15日 - 西串良村が改称・町制施行により串良町となる。 1933年2月16日 - 鹿屋町が町章(当時は「町マーク」と呼称)を選定。現在も鹿屋市章として使用されている。 1935年6月1日 - 大隅鉄道が国有化される。 1935年10月 - 古江線のうち志布志 - 東串良間が開通。星塚敬愛園が開園。 1936年4月 - 鹿屋海軍航空隊が開隊される。 1936年10月23日 - 古江東線の東串良 - 串良間が開通し、鹿屋 - 志布志間が開通。志布志線経由で宮崎方面へ鉄道のみで向かうことができるようになる。 1938年10月10日 - 古江線の改軌工事が完了。鹿屋駅が共栄町(現在の鹿屋市役所の位置)に移転する。 1938年10月15日 - 台風襲来による大水害が発生。肝属川下流を中心に甚大な被害を受ける。 1941年5月27日 - 鹿屋町・花岡村・大姶良村が新設合併・市制施行により鹿屋市となる(初代)。 1942年5月 - 鹿屋市立図書館を当時の市役所内に開設。 1944年 - 鹿屋市立鹿屋工業学校(現在の県立鹿屋工業高校)を設置。 1945年9月 - 第二次世界大戦の終戦に伴い連合国軍が高須海岸(厳密には1km北の金浜海岸)から上陸。 1947年8月 - 向江町に市立図書館を開設。 1947年10月15日 - 姶良村が改称・町制施行により吾平町となる。 1948年3月 - 鹿屋警察署の前身となる自治体警察の鹿屋市警察が発足。 1949年6月 - 昭和天皇が鹿屋市内へ行幸される。 1949年12月 - 鹿屋競馬場で市営競馬を実施。 1950年2月 - 大字を廃止し、「町」を設置。一例として「鹿屋市大字中名→鹿屋市北田町」となる。 1951年12月 - 現在のかのやイベント広場のある地点(鹿屋郷の地頭仮屋跡地)に2代目(1代前)の市役所庁舎が完成。 1955年1月20日 - 高隈村が鹿屋市に編入合併。 1956年4月1日 - 百引村・市成村が新設合併・町制施行により輝北町(所属郡は囎唹郡)となる。 1958年1月20日 - 垂水町新城の根木原・桜町地域を鹿屋市に編入。 1958年4月 - 市立鹿屋女子高校を設置。 1958年8月12日 - 北田交差点に鹿児島県では2番目、鹿屋市内では初の信号機を設置。 1959年11月 - 財政再建団体の指定を外れる。 1960年11月10日 - テレビ放送開始(鹿屋中継局の開局)。 1961年4月13日 - 古江線が垂水市海潟まで開通。 1963年 - 鹿屋競馬場を廃止。 1963年8月 - 祇園祭(鹿屋夏祭り)に「ばか踊り」が登場。30数年に渡り親しまれる。 1967年2月 - 当時の鹿屋市の花を「カンナ」、木を「クスノキ」と制定する。 1967年3月 - 高隈ダムが完成。 1972年4月1日 - 北田交差点が鹿児島県内では初のスクランブル交差点となる(現在は一般的な交差点)。 1972年5月 - 鹿屋市旗を制定。2006年以降の鹿屋市にも引き継がれている。 1972年9月9日 - 大隅線が全線開通。 1976年6月 - 集中豪雨により鹿屋市中心部が冠水。 1977年3月 - 鹿屋市文化会館が完成。中央公園内に小動物園が完成。 1978年4月 - 市立鹿屋看護専門学校を設置。 1981年5月 - 鹿屋市立図書館と視聴覚センターを現在地に設置。 1981年10月1日 - 鹿屋体育大学が開学(開校は1984年4月)。 1986年9月9日 - 国立大隅少年自然の家が開所。 1987年3月 - 国鉄大隅線が廃線。 1991年5月7日 - 旧鹿屋駅のあった地点に市役所本庁舎を移転。同月27日に市制施行50周年を迎える。 1992年3月25日 - 国道220号鹿屋バイパスが全線開通。 1993年3月 - 霧島ヶ丘公園内に『かのやバラ園』を開園。 1993年7月 - 鹿屋航空基地史料館を開設。 1995年4月 - 水道事業を串良町と共同で実施(鹿屋串良水道企業団の業務を開始、鹿屋市上下水道部の前身)。 1996年6月 - 肝属川の水量を分担させる役割を担う『鹿屋分水路』が完成。 2003年11月 - バラの品種のひとつとして『プリンセスかのや』の名称が採用される。 2006年1月1日 - 鹿屋市・輝北町・串良町・吾平町が新設合併し、鹿屋市となる(2代目)。旧輝北町・串良町・吾平町は地域自治区として設置された。 2006年4月25日 - かのやバラ園の規模を大幅に拡大させて開園。 2007年4月1日 - リナシティかのや(鹿屋市市民交流センター)を開設。 2010年1月1日 - 地域自治区としての輝北町・串良町・吾平町を廃止。旧3町の大字を「(地域自治区)○○町(大字)○○」から「(大字)○○町○○」扱いに変更。 2014年12月21日 - 東九州自動車道鹿屋串良JCTおよび大隅縦貫道(串良鹿屋道路)が開通。
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年表(日本仕様)
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2015年8月20日 同日、日本市場への導入を発表。(9月14日発売) 2度目のマイナーチェンジの実施に併せ、レクサスSUVラインアップのフラッグシップモデルとして日本でも発売することとなった。日本仕様は、V型8気筒5.7Lエンジンを搭載する「LX570」のみの設定。 エクステリアは、レクサスを象徴するスピンドルグリルに加え、三連フルLEDヘッドランプ(ロー・ハイビーム)を採用するなど、最新のレクサス車に通ずる意匠とした。また、ターンシグナルが流れるように点灯し、右左折時の注意喚起を高めると共に先進性を演出する「LEDシーケンシャルターンシグナルランプ」をレクサスでは初採用。また、タイヤ/ホイールは、285/50R20 112Hタイヤ&20インチアルミホイール (切削光輝)を標準装備とし、275/50R21 110Hタイヤ&21インチアルミホイール (切削光輝)をメーカーオプションで用意した。 インテリアは、金属、革、本木目と異なる素材のコントラストを際立たせる意匠としたほか、水平基調のインストルメントパネルにより、車両の姿勢状態を容易に把握できるなど、本格SUVとしての基本性能も確保している。 エンジンは、V型8気筒5.7L「3UR-FE」型を搭載。トランミッションはスーパーインテリジェント8速オートマチック(8 Super ECT)を組み合わせている。 CUSTOMIZEモード搭載の「ドライブモードセレクト」をレクサスとして初採用。CUSTOMIZEモード選択時には、パワートレイン、シャシー、空調の各制御の組み合わせを自由に選択でき、よりドライバーの嗜好に応じた走行モードを実現する。 ドライブモードセレクトスイッチに対応し、様々な状況下で車高調整を自動制御する「4-Wheel AHC」&「AVS」を搭載。「4-Wheel AHC」は、レクサス初採用となる「乗降モード」使用時には、エンジンを切ると車高を下げ、乗降性に配慮。また、走行状態に応じて減衰力を自動制御する「AVS」は、車体のあおりを制御し、乗り心地と操縦安定性を両立させている。 オフロード走行をサポートする機能として、アクセルやブレーキ操作することなくステアリング操作のみで極低速走行が可能な「クロールコントロール」や、トラクションやブレーキを最適制御しAWD性能を高める「マルチテレインセレクト」を採用した。また、車両周囲の状況確認を4つのカメラでサポートする「マルチテレインモニター」を設定。ドライバーの死角になりやすい車両周囲6エリアの路面状況が確認でき、オフロードのみならずオンロードにおいても、狭い道での走行や路肩への幅寄せをサポート。さらに、オフロード走行時の車両下の状態やタイヤ位置の確認が可能となるアンダーフロアビューもレクサスとして初採用した。 安全装備では、予防安全パッケージ「Lexus Safety System +」を、日本で販売するレクサス車では初採用。プリクラッシュセーフティシステム(歩行者検知機能付衝突回避支援タイプ)、車線逸脱の可能性を運転者に知らせるレーンディパーチャーアラート[LDA](ステアリング制御機能付)、先行車や対向車を遮光し、ハイビームを照射するアダプティブハイビームシステム[AHS]、高速道路で先行車との車間距離を適切に保ちながら追従走行ができるレーダークルーズコントロール(全車速追従機能付)をパッケージ化し、安全運転支援の強化を図った。 また、ドアミラーでは確認しにくい隣接する車線の後側方エリアに存在る車両に加え、隣接する車線の最大約60m後方までモニターし急接近する車両の検知も可能なブラインドスポットモニター[BSM]、駐車場での後退時に左右後方から接近してくる車両をBSMのレーダーにより検知し、ドライバーに注意喚起するリヤクロストラフィックアラート[RCTA]、ブレーキ時にタイヤロックを防ぐABS機能に加え、オフロードにおいても制動性能を確保するマルチテレインABS(電子制動力配分制御付)&ブレーキアシストなども標準装備とした。 「レクサス クライメイト コンシェルジュ」では、オートエアコン、ステアリングヒーター、運転席・助手席・セカンドシートのシートヒーター・シートベンチレーションの各機能を一括して連動・作動させるクライメイトコンシェルジュスイッチを世界初搭載(2015年8月時点)。さらに、助手席とセカンドシートにおいては、着座乗員の有無を検知し、各機能を自動的に作動または停止させることが可能とした。 レクサス初採用となる「VICS WIDE」対応により、渋滞情報の精度を高めるなど利便性を向上させた新型ナビゲーションシステムに、12.3インチワイドディスプレイを採用。また、リヤシートエンターテインメントシステムをメーカーオプション設定とし、高精細11.6インチディスプレイをフロントシートのシートバックに2台設置した。 ボディカラーは、「ホワイトパールクリスタルシャイン」、「マーキュリーグレーマイカ」、「「ソニックチタニウム」、「ブラック」、「スターライトブラックガラスフレーク」、「スリークエクリュメタリック」、「ディープブルーマイカ」の全7色を設定。 インテリアカラーは、「アイボリー」、「ブラック」、「サンフレアブラウン」、「メローホワイト」、「ガーネット」の5色を設定。シートマテリアルは「セミアリニン本革」のみとなる。また、オーナメントパネルは、「ウォールナット(ダークブラウン」を標準設定としたほか、「縞杢(アガチス/ダークブラウン)」をメーカーオプションで用意した。 2017年8月3日 一部改良。 従来から設定されている3列シート・7人乗り仕様に加え、新たに「2列シート・5人乗り仕様」を新設定した。 ボディカラーは「ホワイトパールクリスタルシャイン」に替わり「ソニッククォーツ」を設定し全7色としたほか、18インチと21インチのアルミホイールの意匠を変更した。 装備面ではトレーラーなどを牽引するトレーラーヒッチを装着するためのヒッチメンバー、ドアミラー足元照明、「ナノイー」などを標準装備した。 2018年8月23日 特別仕様車「Black Sequence」を設定。 「Black Sequence」は、2018年3月末時点においてレクサスブランドの日本国内累計販売台数が50万台を達成したことを記念した特別仕様車。 エクステリアでは、スピンドルグリル(専用ブラック塗装)&フレーム(専用漆黒メッキ)、リヤランプガーニッシュ (専用漆黒メッキ)、ライセンスガーニッシュ (専用カラード) &バックドアガーニッシュ (専用漆黒メッキ)、三眼フルLEDヘッドランプ (ロー・ハイビーム) / LEDフロントフォグランプ&LEDコーナリングランプ(専用クリアブラック)、LEDリヤコンビネーションランプ (テール・ストップ)(専用クリアブラック)を採用。また、オート電動格納式ドアミラーをブラック塗装に変更したほか、ベースモデルではメーカーオプション設定となる275/50R21タイヤ&21インチアルミホイール (切削光輝)を特別装備とした。 ボディカラーは「ソニッククォーツ」、「「ブラック」、「スターライトブラックガラスフレーク」の3色を設定。 インテリアでは、ルーフとピラーの色をブラックに変更。また、セミアニリン本革シートとドアトリムに専用ダイヤモンドステッチを施したほか、オーナメントパネルに、専用縞杢[ブラック]を採用した。また、その他の特別装備として、「LX」の文字を投影するドアカーテシランプを標準装備とした。 2015年改良型 リア 2015年改良型 インテリア この項目では色を扱っています。閲覧環境によっては、色が適切に表示されていない場合があります。
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