年表
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年表(ねんぴょう、英: timeline タイムライン)は、(歴史上の)出来事を年の順(「年月日」の順、「日付」の順)に記載した表のこと[1]。
注釈
- ^ それに対して、まだ起きていないこと、未来の予定などを日付順に記載した表は、(日本語の場合は)「予定表」や「スケジュール表」などと呼ぶ傾向がある。英語では、過去のことを扱う場合でも、未来のことを扱う場合でも、ともかく、時(time)が、線(line)的に並んでいれば、おかまいなしに「timeline」と呼ぶ傾向が、近年強まっている。実は日本語の「年表」という用語にも、「過去でなければならない」という意味の漢字や語根は含まれていない。ただ(時を表すための字である)「年」と(表形式だという意味の字)「表」の組み合わせである。
- ^ 本当は「歴史」と言っても、音楽史もあれば、科学史もあるし、庶民の(権力闘争とは縁遠い)普通の生活の歴史などもあるのだが、なぜか「歴史」と言うと、なぜか「権力史」になりがちで、政治権力や権力者のことばかりに焦点を当てて他を無視しがちである。たとえば100万人で構成された古代国家があった場合でも、権力者やその取り巻きになっているのはわずか数千人程度で、残りの大多数は権力とはほぼ無縁の、平凡な人々である。ごく一部の例外的な人間の権力闘争にばかり焦点が当てられ、残りの大多数の人々の生活や人生の実態に関する記述がないがしろにされてしまっている。このあたりの問題点は、アカデミックな世界でも、ここ数十年、頻繁に指摘されるようになってきている。
出典
年表(祭日の変遷など)
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1030年 - 源頼義は下総の乱を鎮定のため懐島郷(鶴嶺八幡宮のある場所)に源氏の守護神石清水八幡宮を勧請して戦勝祈願をする。(別に宇佐八幡宮勧請説もある)。 1191年 - 鶴嶺八幡大菩薩の隣りに伊予の三島の神を祀る佐塚明神社が建立される。 1281年 - 蒙古退散の祈祷をし、6月閏30日の晦日に勝利したのを記念して「晦日祭」を始め、これが八幡宮と佐塚明神の例祭となった、と現在の鶴嶺八幡宮は説明している。民俗学者の永田衡吉は水無月の祓と考察している。鶴嶺八幡宮の説明は1876年以前には6月29日に行われていたという史実と合わない。(1876年の項参照) 1838年または1840年 - 寒川神社の御輿の紛失事件。 1841年 - この年に幕府の昌平黌地理局の編纂した「新編相模国風土記稿」に佐塚明神が6月29日に浜で禊(みそぎ)を行っているという記述がある。 1841年 - 南湖の御旅所神主の鈴木家は指貫風の烏帽子の着用を許可される。 1868年 - 太政官達は権現、天王、八幡大菩薩などの仏教的神号を禁じた。「佐塚明神」は「佐塚大神」(さづかのおおかみ)、「鶴嶺八幡大菩薩」は「鶴嶺八幡」となる。 1871年 - 太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」が制定された。 1873年 - 前々年の太政官布告によって村社となった鶴嶺八幡宮は、国幣中社となった寒川神社の摂社となる。 1876年 - 旧暦の6月29日に行われていた「みそぎ」の神事を新暦の7月15日とし、名称も「浜降祭」へと変更。県令野村靖宛の申請書には農繁期を避ける旨が記されている。この年まで寒川神社は6月30日、鶴嶺八幡宮(佐塚大神)は6月29日に浜降祭を行っていた。 1877年 - 鶴嶺八幡宮は寒川神社の摂社から解放され、浜降祭を単独で行うようになる。(場所は同一か不明) 1878年 - 浜降祭参加記録2社。寒川神社と鶴嶺八幡宮のみか不明。これ以前の参加社数記録無し。 1879年 - 浜降祭参加記録5社。 1881年 - 浜降祭参加記録8社。 1883年 - 浜降祭参加記録6社。 1899年 - 南湖の海岸沿いに大きな結核療養所の南湖院ができる。神道には「病原菌」という概念はなく、「ケガレ」として認識されているので、付近で「ミソギ」が行われた可能性は低い。後年に「ミソギ」の場所がもし移動したとしてもこの付近は避けられた筈である。 1901年 - 不景気のため浜降祭中止。 1904年 - 浜降祭は奉幣のみ行った。 1906年12月 - 内務省は神社合祀令によって一村一社運動を起こし、明治末から大正初期にかけていわゆる神社整理を推進する。少なくともこの時期までに佐塚大神(旧、佐塚大明神)は鶴嶺八幡宮(旧、鶴嶺八幡大菩薩)に合祀され、旧佐塚大明神の浜降りの行事は鶴嶺八幡の主催となる。その時期は1873年(前記当該年参照)かそれ以前である可能性もある。 1915年 - 浜降祭参加記録11社。 1923年 - 鶴嶺八幡宮は改めて浜降祭に再参加するようになる。 1923年9月1日 - 関東大震災で土地が隆起し、柳島は島でなくなる。相模川の河口は一つになり、「相模川河口」の概念が変わる。寒川神社がかつて「みそぎ」を行っていたと推定されている「相模川河口」の概念はこれにより曖昧となる。近接して「中島」という地名もあり、複数回の過去の大地震による「河口」の概念の改変の可能性が認められる。また「千ノ川」は河口を失い、今の浜見平団地付近は沼地と化した。このため「ミソギ」の場所が移動したとしてもこの付近は避けられた可能性が高い。なお、千ノ川は再整備されて現在では相模川河口付近で相模川に合流するように作られている。 1959年 - 浜降祭参加記録23社。 1960年 - 浜降祭参加記録26社。 1965年 - 浜降祭参加記録13社。 1997年 - 祭日を海の日(当時は7月20日)に変更。寒川神社においては以後も旧祭日であった7月15日に浜降古式祭が行われている。 2004年 - 祝日の改正に伴って海の日が7月の第3月曜日に変更されたため、神事も7月第3月曜日へ変更する。 2016年 - 浜降祭参加記録34社 2020年 - 開催が予定されていた東京オリンピック・パラリンピック競技大会の期間と重なるため6月14日日曜日に日程を変更して開催する予定だったが、新型コロナウイルス感染症拡大に伴う緊急事態宣言発令をうけて中止となった。
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