編年
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編年(へんねん、英: Chronology:クロノロジー)とは、歴史学においては、過去の出来事を年代順に並べた年表、または年代記のこと[1]。考古学においては、考古資料を文様・形態・機能の変化などによって時間的な経過を示す型式に配列し、これらと遺跡を覆っている土層との関係において得られた時間的変遷をいう[2]。遺構及び遺物の前後関係や年代を配列すること、またはその配列自体を指す語として使われる[要出典]。また、災害対応において状況や活動などを時系列に沿って記録することを指す。
また、絵画や人物の歴史的な年代、年譜についても使用される[要出典]。
考古学における「編年」
編年には、2つの事物を比較して旧新を決めるだけの相対編年と、1つの事物の年代を予め決定して指標とする絶対編年がある。土器は考古学の絶対編年によく利用されている。
通常は遺丘などのように層位的な前後関係がある場合は、その層位に共伴する土器などの遺物群が年代決定、編年の基礎資料となる。しかし、層位が把握できない日本の遺跡の場合は、遺構の切り合い(A遺構をB遺構が破壊している状況は、BはAより新しいなど)関係によって、年代の前後関係をとらえる場合が多い。また、他の遺跡にも切り合いによる前後関係が見られる場合は、遺跡間ごとに年代の網目が構成されていき、より正確な年代的配列(=編年)をつくることができる。往々にして土器や陶磁器には、年代による口縁部などの器の特徴的な部分の変化や器形そのものの変化、器の大きさや整形技法、施文技法の変化、文様自体の変化があるのでその形式的、様式的変化を追うことで遺物の年代が決まる。年代が決まった遺物と同時に共伴すると目される遺物があればその遺物の年代、若しくは遺構の年代を決定できることになる。
また、年輪年代法に使用できる木材片、建物跡に伴う遺物や墓などの遺構に伴って年代が書かれたり刻まれたりした土器、陶磁器、記念碑などの紀年銘資料(マヤの墓の壁画に描かれた長期暦も含む)とそれに共伴する一括の遺物、年代の分かっている火山灰層などの前後若しくはその層の中に遺物が含まれていると年代を決める定点(編年の定点とか編年基準資料)となることがある。旧石器捏造事件は、火山灰層の知識を半ば悪用した行為であった。なお、年代が刻まれていても廃棄された板碑や古銭などの移動されている資料は、紀年銘があっても編年の基準、定点になり得ないので注意が必要である。
絶対編年は、年代の配列決定に欠かせないが、従来は手法が確立されておらず曖昧であった。近年は科学的手法により遺物の絶対年代測定が行われ、これをもとに編年が行われる例がある。
災害におけるクロノロジー
災害対応において、情報、出来事、顛末などを継時的に記録すること[4]、災害時の状況、活動内容などを時系列に沿って記録した情報またはその手法のこと[5]。
災害医療や対策本部運営におけるクロノロジーは、時刻・発信元・受信元・内容などの項目に沿って、各種情報、指示、決定事項を時刻とともに記録する経時活動記録である[6][7]。
厚生労働省の手引きでは、本部に入った情報をまず一次記録としてクロノロジーへ記載し、その後に組織図、主要連絡先、プライオリティリスト、地図などの二次記録へ処理することで、本部全体の状況を可視化する運用が示されている[6]。また、本部運営では、クロノロジーへの記録を蓄積するだけではなく、それを踏まえて現状分析と活動方針の策定を繰り返すことが想定されている[6]。会議やミーティングは、その時点までの記録を前提として報告、連携、判断を進める場として位置づけられており、クロノロジーは単なる備忘ではなく、情報共有と意思決定を支える基盤記録として機能する[6]。
このような記録は、災害対応中の情報共有だけでなく、対応後の振り返りや教訓化にも用いられる[7]。令和元年台風第19号時の福島県DMAT活動を対象とした研究では、クロノロジーに記録された言葉の頻度や推移を分析することで、超急性期には医療機関対応、急性期には避難所支援、亜急性期にはロジスティックス業務へと活動の重点が移る様子が読み取れるとされた[7]。このため、災害時のクロノロジーは単なる時系列メモではなく、情報の集約、判断過程の履歴化、事後評価の基盤を兼ねる記録手法として用いられている[6][7]。
脚注
- ^ 『クロノロジー』 - コトバンク
- ^ 『編年』 - コトバンク
- ^ 大阪府立近つ飛鳥博物館 2006 pp.10-16
- ^ 東北大学病院災害対策マニュアル3版、平成28年、p.49,51
- ^ 「「クロノロジー」型災害情報共有システムの開発と中部国際空港での適用」第20回空港技術報告会、2019年、日本ユニシス、国土交通省
- ^ a b c d e “健康危機対策本部運営の手引き” (PDF). 厚生労働省. 2026年3月17日閲覧。
- ^ a b c d 田代, 雅実、島田, 二郎、稲葉, 洋平「経時活動記録のテキストマイニングによる解析—令和元年台風19号における福島県の医療活動より—」『日本災害医学会雑誌』第29巻第1号、2024年4月13日、54-60頁、doi:10.51028/jjdisatmed.29.1_54。
参考文献
- 『年代のものさし-陶邑の須恵器-』 大阪府立近つ飛鳥博物館 2006年
関連項目
外部リンク
編年
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「シン・シャル・イシュクン」の記事における「編年」の解説
アッシリアの壮烈な滅亡の結果として、アッシリア王アッシュルバニパルが死去する数年前から前612年のニネヴェの陥落までの時代は、明らかに残存史料が不足している。『アッシュルバニパルの年代記』はその治世を復元するための一級の史料であるが、前636年までの情報しかない。アッシュルバニパルの治世最後の年として前627年がしばしば採用されるが、これはハッラーンで発見された1世紀近く後の新バビロニア王ナボニドゥスの母が作らせた碑文に依っている。アッシュルバニパルが生きて統治をしていたことを示す最後の同時代史料はニップル市で作成された前631年の契約書である。証明された彼の後継者たちの治世期間と合致させるため、大半の学者は前631年にアッシュルバニパルが死亡したか退位した、あるいは追放されたという見解に同意している。そして前631年の死亡・退位・追放という3つの可能性のうち、死亡したとする見解が最も受け入れられている。もしアッシュルバニパルの治世を前627年まで延ばした場合、後継者であるアッシュル・エティル・イラニとシン・シャル・イシュクンによる碑文がバビロン市に数年分あることが説明不可能となる。バビロン市は前626年に新バビロニア王ナボポラッサルに占領されており、以後、アッシリア王が碑文を残すことはできなかった。そして、バビロン市はその後、二度とアッシリアの手に戻ることはなかった。 アッシュルバニパルは早くも前660年には後継者を定め、王太子(恐らくアッシュル・エティル・イラニ)を指名する文書を書き残した。アッシュルバニパルの治世の早い段階で1人、または2人の王子が生まれていた。この年長の王子たちが恐らくアッシュル・エティル・イラニとシン・シャル・イシュクンである。アッシュル・エティル・イラニは前631年にアッシュルバニパルから王位を継承し、前627年に死亡した。シン・シャル・イシュクンがアッシュル・エティル・イラニと王位を争ったという想像が頻繁に行われるが、これを裏付ける史料は何もない。 シン・シャル・イシュクンはかつて誤ってエサルハドン2世と呼ばれたことがあった。これはシン・シャル・イシュクンの祖父エサルハドンの娘シェルア・エテラトの書いた手紙から来ていた。編年と各人物の関係は不確かであり、シェルア・エテラトは有名なエサルハドンの娘とするには年齢が若すぎると考えられていた。アッシリア学者たちは19世紀末にはエサルハドン2世という王が存在したという説を捨て去っていたが、時にシン・シャル・イシュクンを指してエサルハドン2世という名前が用いられることがある。
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