編勅から勅令格式へ(宋代)
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「中国法制史」の記事における「編勅から勅令格式へ(宋代)」の解説
960年に建国された宋は、後周に形成された刑統・令・編勅・式からなる法体系を受け継ぎ、建国4年目の963年(建隆4年)に『宋刑統』と『新編勅』を編纂した。979年(太平興国4年)には中国を統一し、その後10年ごとに編勅が編纂された。『宋刑統』は、開元25年の律と律疏を主体とし、編勅により修正補充されつつ、刑罰基本法典として活用された。開元25年の律と律疏を主体とする『天聖令』は唐令の要素と、編勅のなかの非刑罰法の要素の一部を継続したものである。 その一方で、式の再編纂は、着手されないまま放棄された。北宋中期、唐末五代の混乱後の国政の建て直しが切実になっており、神宗は王安石を宰相として新法と呼ばれる大規模な行財政改革を実施した。この改革のために「新法」と呼ばれる様々な施策が採られた。 「新法」とは、具体的には『周礼』に説かれる一国万民の政治理念すなわち万民を斉しく天子の公民とする斉民思想に基づく、均輸法・市易法・募役法・農田水利法などの経済政策や、科挙改革、学校制度の整備などの施策である。このとき、膨大な分量を占めるようになってきた編勅を再編成した『元豊勅令格式』が編纂された。 神宗の没後、北宋末に至るまで、王安石の改革を肯定する新法党と、これを否定する旧法党との間の党争が生じた。しかし新法の産物である「勅令格式」と連称される法典の形式は定着し、南宋末までほぼ10年ごとに編纂された。 「勅」は唐律と同じ規定形式をもつ刑罰法典で、刑罰基本法典の刑統を修正補充する刑罰副次法典に位置付けられる。 「令」も唐令と同じ規定形式をもつ刑罰法典だが、『天聖令』および唐式と、編勅から非刑罰規定を分化した「附令勅」が融合したもので、基本法典としての性格を失った。 「格」は別表集のような法典であり、 「式」は書式・様式集のような法典であった。 非刑罰法の領域では基本法典と副次法典の区別が失われ、融合されたうえで、令・格・式に整理された。 金の侵攻により宋はいったん滅び、江南に南宋として存続した。 南宋では、刑罰副次法典としての勅をさらに修正補充する再副次法典である『隋勅申明』が登場する。勅令格式と『隋勅申明』の検索を容易にするために、これらの条項を分野別に配列し直した「条法事類」という法典も作られた。
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