編制経緯
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「第五艦隊 (日本海軍)」の記事における「編制経緯」の解説
1938年(昭和13年)6月頃、「昭和十三年度帝国海軍作戦計画」の計画立案にあたり軍令部事務当局は日本陸軍と折衝をおこない、従来の対一国作戦主義を転回し、複数国との同時開戦・戦争遂行という作戦方針に到った。大本営海軍部/軍令部(当時の軍令部総長伏見宮博恭王、次長古賀峯一、第一部長近藤信竹、第一課長草鹿龍之介)も同意した。支那事変(日中戦争)が長期化するなか、昭和天皇は同年9月6日に昭和十三年度帝国海軍作戦計画を裁可した。本計画において、日本海軍は日本列島東方海面の作戦に従事する「第五艦隊」を編制することに決した。アメリカ海軍がアリューシャン群島方面で基地建設をすすめ、また同方面での演習をおこなっていることも影響している。対米作戦における第五艦隊の作戦要領は、以下のとおり。 第一段作戦一 本邦付近特ニ本邦東方海面ニ於ケル敵情偵察ニ任ズルト共ニ 敵ノ機動部隊ニ対シ警戒シ之ヲ捕捉撃滅ス 二 小笠原群島方面ノ防備ニ任ジ 第四艦隊横須賀鎮守府部隊及大湊要港部部隊ト協同シテ 敵ノ東洋ニ至ル交通路ヲ扼止ス 第二段作戦南方諸島以北本邦東方海面ニ在リテ 要地ノ防備敵情偵察触接及敵勢ノ減殺ニ任ジ 聯合艦隊主力ノ作戦ニ策応ス 1939年(昭和14年)4月より、軍令部は支那方面艦隊を縮小する方向で研究をすすめた。まず第四艦隊と第五艦隊を支那方面艦隊からのぞいて独立艦隊とし、適宜訓練に従事させる方針であった。同年11月15日の艦隊再編で、第四艦隊は予定どおり独立艦隊となったが(前述)、第五艦隊の新編と独立は見送られた。
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編制経緯
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「第十一航空艦隊 (日本海軍)」の記事における「編制経緯」の解説
太平洋戦争前の日本海軍の陸上基地航空兵力は、年度戦時編制において各艦隊もしくは各鎮守府や要港部に所属していた。1938年(昭和13年)9月6日に裁可された昭和十三年度帝国海軍作戦計画では、日本列島東方海面を担当する第五艦隊が新編されると共に、東正面に配備される陸上攻撃機と飛行艇部隊を連合艦隊司令長官が直率することになった。これが基地航空艦隊編成の萌芽とされる。その後、統一指揮や訓練の整合などの観点から、基地航空部隊をまとめた「艦隊」の必要性が説かれるようになり、従来の艦隊令が改正されて「航空艦隊」編制の運びとなった。 1940年(昭和15年)11月5日に裁可された昭和十六年度帝国海軍作戦計画において、日本海軍は母艦航空艦隊(第一航空艦隊)と基地航空部隊(第十一航空艦隊)を編制することになった。1941年(昭和16年)1月15日、連合艦隊に付属していた第一連合航空隊(1CSf)、第二連合航空隊(2CSf)、第四連合航空隊(4CSf)がおのおのその数字の上に「二十」が加えられ航空戦隊と改称され、これらを統合して第十一航空艦隊が新編された。司令長官は片桐英吉中将であった。 第十一航空艦隊の新編により基地航空部隊の指揮系統は整理され、大規模航空作戦を実施可能とした。すなわち基地航空部隊の戦略的用法に道を開いたものである。基地航空部隊を統一指揮することにより、その移動力と長大な攻撃距離を利用し、適時所要方面に大兵力を集中できるばかりでなく、広正面の統制ある飛行哨戒を実施できるなどの利点があり、また艦隊の編成により、管理、教育訓練、補給などの能率、航空艦隊の独立による基地航空部隊の士気高揚の効果もあった。
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編制経緯
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「第四艦隊 (日本海軍)」の記事における「編制経緯」の解説
支那事変勃発と共に国際情勢は緊迫した。支那方面の増強を企図して、日本海軍は臨時部隊だった第四艦隊を常設艦隊とする。2代目の第四艦隊は、1937年(昭和12年)10月20日に編制された。司令長官は豊田副武中将であった。2代目第四艦隊は上海に常駐する第三艦隊(司令長官長谷川清中将、旗艦「出雲」)を支援するために編制され、この第三・第四艦隊を統率するべく、連合艦隊に匹敵する大艦隊として支那方面艦隊(略字CSF)が編制された。第三艦隊司令長官が支那方面艦隊司令長官を兼務した。 第四艦隊(旗艦「足柄」)は青島に駐留する欧米の艦艇を牽制するとともに、黄海・東シナ海の哨戒や監視任務、日本陸軍輸送船団の護衛を担当した。11月上旬、日本陸軍(柳川兵団、柳川平助陸軍中将)と共に杭州湾上陸作戦を実施した。続いて北支方面の封鎖任務を第二艦隊(司令長官吉田善吾中将)より引き継いだ。 1938年(昭和13年)1月7日、無政府状態に陥っていた青島市の治安維持を目的として、青島占領作戦を開始する。同作戦は「B作戦」と命名され、第四水雷戦隊や第四航空戦隊(龍驤、能登呂、衣笠丸、弥生、如月)を主戦力とする「B部隊」(指揮官豊田副武第四艦隊司令長官)が編成された。1月8日にB部隊は出撃し、10日に青島を占領した。だが遅れて青島市に日本陸軍第2軍(軍司令官西尾寿造陸軍大将、参謀長鈴木率道陸軍少将)隷下の第五師団(司令官板垣征四郎陸軍中将)が到着すると、問題が生じた。海軍と陸軍間では、一時険悪な空気が流れたという。同年2月1日、支那方面艦隊隷下に第五艦隊が新編され、B作戦部隊は編制を解かれ、第四艦隊は北支部隊となった。同月初旬からは芝罘占領のため、豊田長官の下令によりC部隊(指揮官鋤柄玉造第三潜水戦隊司令官、旗艦「球磨」)が編成された。芝罘占領や周辺の匪賊鎮圧をおこない、2月19日にC部隊の名称は廃止された。3月上旬には威海衛の治安維持を目的にE部隊が編成された。
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