第五艦隊 (日本海軍)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 第五艦隊 (日本海軍)の意味・解説 

第五艦隊 (日本海軍)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/20 07:26 UTC 版)

第五艦隊(だいごかんたい)は、大日本帝国海軍に存在した艦隊。最初の第五艦隊は支那事変時の1938年(昭和13年)2月1日に新編され支那方面艦隊に所属して華南方面に進出したが[1]1939年(昭和14年)11月15日付で「第二遣支艦隊」に改称された[2]

二代目の第五艦隊は、1941年(昭和16年)7月25日に日本列島東方海面の哨戒、ソビエト連邦への警戒、アリューシャン列島方面作戦を目的に新編された[3]太平洋戦争勃発後、軍隊区分としては北方部隊となった[4]。麾下部隊が西太平洋の哨戒を実施、ドーリットル空襲では特設監視艇第16任務部隊を発見した[5]。1942年(昭和17年)5月以降のアリューシャン方面の戦いでは[6]アッツ島キスカ島に関わる作戦や海戦に参加する[7]1943年(昭和18年)7月のキスカ島撤退作戦後、8月5日付で新編された北東方面艦隊の隷下となる[8]。引き続き、千島列島北海道周辺の輸送作戦や哨戒任務、警戒任務に従事した。

1944年(昭和19年)6月、サイパンの戦いで逆上陸をおこなうため、北東方面から日本列島に呼び戻される[9]。8月1日、兵力区分において第二遊撃部隊となり[注 1]小沢機動部隊の固有兵力になった[11][12]。 10月中旬の台湾沖航空戦[13]誤報にともなう残敵掃討のため日本本土から出撃した[14][15]。混乱の末に[16]捷一号作戦にともなうレイテ沖海戦では[17]、“志摩艦隊”としてスリガオ海峡夜戦に参加した[18]。その後も多号作戦礼号作戦に従事した。1945年(昭和20年)2月5日に解隊されて、一部は第十方面艦隊に編入された。

第五艦隊 (初代)

最初の第五艦隊は、日中戦争において多数の艦隊を指揮していた支那方面艦隊[注 2]の増援部隊として、1938年(昭和13年)2月1日付で編制された[20](司令長官塩沢幸一中将、参謀長田結穣少将)[21]。塩沢司令長官は重巡洋艦妙高を旗艦に指定した[22]。 第五艦隊の新編により、支那方面艦隊は麾下に三個艦隊(第三艦隊・第四艦隊・第五艦隊)を擁し[23]、北支方面に第四艦隊を(北支部隊)[24]、中支方面に第三艦隊を(中支部隊)、南支(華南)方面に第五艦隊(南支部隊)を充当することになった[25]

南支部隊(指揮官塩沢幸一第五艦隊司令長官)の軍隊区分は、主隊(妙高)、北方部隊(第十戦隊第2小隊、第1砲艦隊、第3駆逐隊、第1防備隊)、南方部隊(第五水雷戦隊、多摩、東沙島通信隊)、南支第一航空部隊(第三航空戦隊司令官指揮)、南支第二航空部隊(第一航空戦隊司令官指揮)、南支第三航空部隊(第四航空戦隊司令官指揮)、聯合空襲部隊(第一空襲部隊〈二聯空〉、第二空襲部隊〈一聯空〉)となった[26]

同年5月1日、第五艦隊司令長官を指揮官とする「D部隊」が編成され[注 3]、厦門攻略作戦「D作戦」がはじまった[28]。10日、海軍陸戦隊が厦門島に上陸した[29]。20日、厦門攻略作戦は完了した[27]

同年10月上旬、廣東攻略作戦への協力を開始する[29][30]。海軍部隊は、陸軍輸送船団の護衛・航空兵力による地上支援をおこなった[31]。日本陸軍は「波号」作戦、日本海軍は「Z号」作戦、作戦部隊を「Z部隊」と呼称した[32][注 4]

同年12月15日[34]、第五艦隊司令長官は塩沢中将から近藤信竹中将へ、五艦隊参謀長は田結少将から山口多聞少将に交代した[35]。支那方面艦隊の戦力は縮小され、第五艦隊(南支部隊)は[36]、第九戦隊(主隊)、第五水雷戦隊(南支監視部隊)、第二根拠地隊(珠江部隊)、第三根拠地隊(厦門部隊)、第三聯合航空隊(第六航空基地部隊)、附属部隊となった。

1939年(昭和14年)1月19日、大本営は海南島の攻略を発令し、日本陸軍は「登」号作戦、日本海軍は「Y」作戦と呼称した[37]。陸軍は第21軍が、海軍は第五艦隊が攻略作戦を実施する[38]。Y作戦のうち、陸軍と協同でおこなう海口方面攻略作戦を「甲作戦」、海軍のみでおこなう三亜楡林方面攻略を「乙作戦」と呼称した[39]。第五艦隊司令長官近藤信竹中将を指揮官とするY護衛艦隊が編成された[注 5]。2月10日、陸海軍部隊は海南島上陸作戦をおこなう[29]。乙作戦は12日に発動し、14日に三亜や楡林を占領した[41]

同年6月中旬より汕頭攻略作戦を実施[42]、21日に同地を占領する[29]。 10月20日、第五艦隊長官は近藤中将から高須四郎中将に交代した[34]。 11月上旬からは第21軍とともに南寧攻略作戦をおこない(陸軍は「和号作戦」、海軍は「N作戦」)、N護衛艦隊(第五艦隊、第二航空戦隊、第11駆逐隊、神川丸、千代田)が編成されている[43]

11月15日、日本海軍は支那方面艦隊の改定を実施した[44]。支那方面艦隊の麾下に三個遣支艦隊を編制し、第四艦隊を独立させたのである[45]。従来の第三・第四・第五艦隊は「~遣支艦隊」に改名した[46]。 このとき旧第三艦隊は「第一遣支艦隊」に、旧第四艦隊は「第三遣支艦隊」に改名した[47]{{Efn2|[48]。旧第五艦隊は「第二遣支艦隊」に改称された[49][50][51][52]

改名の前後にバイアス湾上陸作戦・海南島攻略作戦に参加している。太平洋戦争突入後、第一・第三遣支艦隊は規模を縮小して根拠地隊へ降格したが[29][注 6]、第二遣支艦隊だけは敗戦まで艦隊を維持している。

編制

歴代司令長官(第二遣支艦隊改名まで)

  1. 塩沢幸一中将:1938年2月1日[55] - 1938年12月15日[35]
  2. 近藤信竹中将:1938年12月15日[35] - 1939年9月29日[56]
  3. 高須四郎中将:1939年9月29日[56] - 1939年11月25日(改名後は第二遣支艦隊司令長官)[57]

歴代参謀長(第二遣支艦隊改名まで)

  1. 田結穣少将:1938年2月1日[55] - 1938年12月15日[35]
  2. 山口多聞少将:1938年12月15日[35][注 7] - 1938年12月15日[注 8]

第五艦隊 (二代目)

編制経緯

1938年(昭和13年)6月頃、「昭和十三年度帝国海軍作戦計画」の計画立案にあたり軍令部事務当局は日本陸軍と折衝をおこない、従来の対一国作戦主義を転回し、複数国との同時開戦・戦争遂行という作戦方針に到った[59]。大本営海軍部/軍令部も同意した[注 9]支那事変日中戦争)が長期化するなか、昭和天皇は同年9月6日に昭和十三年度帝国海軍作戦計画を裁可した[60]。本計画において、日本海軍は日本列島東方海面の作戦に従事する「第五艦隊」を編制することに決した[61]。アメリカ海軍がアリューシャン群島方面で基地建設をすすめ、また同方面での演習をおこなっていることも影響している[62]。対米作戦における第五艦隊の作戦要領は、以下のとおり[62]

第一段作戦
一 本邦付近特ニ本邦東方海面ニ於ケル敵情偵察ニ任ズルト共ニ 敵ノ機動部隊ニ対シ警戒シ之ヲ捕捉撃滅ス
二 小笠原群島方面ノ防備ニ任ジ 第四艦隊横須賀鎮守府部隊及大湊要港部部隊ト協同シテ 敵ノ東洋ニ至ル交通路ヲ扼止ス
第二段作戦
南方諸島以北本邦東方海面ニ在リテ 要地ノ防備敵情偵察触接及敵勢ノ減殺ニ任ジ 聯合艦隊主力ノ作戦ニ策応ス

1939年(昭和14年)4月より、軍令部は支那方面艦隊を縮小する方向で研究をすすめた[51]。まず第四艦隊と第五艦隊を支那方面艦隊からのぞいて独立艦隊とし、適宜訓練に従事させる方針であった。同年11月15日の艦隊再編で、第四艦隊は予定どおり独立艦隊となったが(前述)[48]、第五艦隊の新編と独立は見送られた[51]

発足

北東方面

1941年(昭和16年)6月22日、ヨーロッパで独ソ戦がはじまると、日本も7月2日に「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を決定した[63]。極東におけるソ連海軍と航空兵力に備えて警戒兵力を増強する気運がたかまり、永野修身軍令部総長は7月10日に天皇へ上奏し、第五艦隊新編の裁可を得た[64]。7月25日、日本海軍は第五艦隊(司令長官:細萱戊子郎)を新編し[65]連合艦隊に編入した[64]。新編時の第五艦隊の戦力は、第二十一戦隊の球磨型軽巡洋艦2隻、鴻型水雷艇2隻の合計4隻で[66]、第五艦隊司令長官は軽巡多摩旗艦にした[64][67]。その後、予定どおり第21戦隊に特設水上機母艦君川丸を編入し、また特設巡洋艦で編制された第22戦隊や[68]、第7根拠地隊を、漸次第五艦隊に編入した[66]

1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦と共に、千島列島~本土東海上~小笠原諸島に展開した。軍隊区分としては“北方部隊”と呼称し[69]、最初の任務は真珠湾攻撃をおこなう南雲機動部隊の航路警戒と支援であった[70]。当時の北方部隊は太平洋での哨戒が主任務であった。アリューシャン列島占領に関しては兵力も足らず、ソビエト連邦への配慮もあり、具体的な攻略計画はなかった[71]。その後、アメリカ海軍の空母機動部隊や長距離爆撃機対策のため、西部アリューシャン攻略作戦が立案された[72]

1942年(昭和17年)3月10日、連合艦隊は軍隊区分を変更し、南方作戦に参加していた第二艦隊隷下の第五戦隊より重巡那智」を北方部隊に編入した[73][74]。これは同艦を第五艦隊旗艦として使用するための措置であり[75]、旗艦設備や防寒工事をおこなった[76](制式編入は7月14日付)[73][77]

4月18日、第五艦隊隷下の第二十二戦隊に所属する特設監視艇部隊(通称“黒潮部隊”[78]、民間徴用漁船部隊)の第二十三日東丸がハルゼー提督麾下のヨークタウン級航空母艦2隻を発見した[79]第16任務部隊の攻撃で日東丸と長渡丸が撃沈され、他の艦艇にも被害があった[80]

AL作戦にともない、北方部隊(指揮官細萱戊子郎第五艦隊司令長官、旗艦「那智」)[81]には諸方面から部隊や艦艇が編入された[82][注 10][注 11]。 5月末以降、北方部隊はアリューシャン列島への進出を図る。第二機動部隊(指揮官角田覚治少将/第四航空戦隊司令官)がアマクナック島ダッチハーバー空襲した英語版した[88][89]。この空襲で龍驤零式艦上戦闘機が不時着して鹵獲された[90]アクタン・ゼロ[91]。6月7日から8日にかけて、北方部隊はアッツ島の占領キスカ島の占領英語版に成功した。また南方攻略の完了に伴い、危機が去った小笠原諸島の警備を横須賀鎮守府に委譲している。

連合軍はアリューシャン方面ですぐに反攻作戦をおこなわず[90]爆撃機による空襲、潜水艦による襲撃(7月5日の海戦など)、太平洋艦隊から抽出した巡洋艦による艦砲射撃などで日本軍を牽制した。それにともない、北方部隊(第五艦隊)の出動機会も多くなる。日本軍もアッツ島とキスカ島の長期確保の方針を決定した[92][93]。第五艦隊はアッツ島再占領など[94]、同方面で輸送や補給作戦に従事したが、輸送船の損害により防衛計画に悪影響が生じた[95]

1943年3月末のアッツ島沖海戦後、司令長官が細萱戊子郎中将から河瀬四郎中将に交代した[96]。4月1日、連合艦隊戦時編制の改訂により第一水雷戦隊[97]と第七潜水隊を編入した。

アッツ島の戦いでは、アッツ島への強行増援輸送も実施予定だったが、悪天候で中止されている。第一水雷戦隊司令官森友一少将の急病により、6月8日付で木村昌福少将が補職された[98]。木村司令官が指揮する第一水雷戦隊は、他艦隊からの臨時編入艦を指揮し、キスカ島からの陸上部隊撤退に成功した[99]キスカ島撤退作戦)。1943年8月5日、日本海軍は第五艦隊と第十二航空艦隊(1943年5月18日[100]、新編)により北東方面艦隊を編制した[8]。これ以降は水上艦同士の戦闘はおきず、潜水艦の襲撃で損耗した。1944年(昭和19年)2月上旬、南西方面艦隊隷下の第十六戦隊に所属していた重巡足柄が同戦隊から除かれ[85]、第二十一戦隊に編入された。

1944年6月中旬のマリアナ沖海戦では連合艦隊の任務に従事した[101]。この海空戦で第一機動艦隊第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将)が空母3隻を失い航空隊も大損害をうける[102]。大本営はアメリカ太平洋艦隊に包囲されたサイパン島を救うため、日本陸軍増援部隊を緊急輸送することを企図し、第五艦隊と臨時編入部隊が作戦準備をおこなった[103]。だが作戦実施に至らず、大本営陸海軍部は6月25日にサイパン放棄を決定した[103]

第二遊撃部隊

日本海軍は決戦に備え[104]、艦隊の編制と兵力部署を大幅に見直す[105]。 8月1日、第三段作戦の新兵力部署が全面改定された[10]。従来、機動部隊(略称“KdB”。指揮官:小沢治三郎中将/第一機動艦隊司令長官、機動部隊本隊“KdMB”指揮官)隷下にあった第二艦隊が兵力部署において第一遊撃部隊(略称“1YB”、通称“栗田部隊”)となった[106]。その後、第一遊撃部隊はリンガ泊地に進出した[107]。 北方部隊(指揮官、北東方面艦隊司令長官)の隷下にあった第五艦隊は[108]、機動部隊に編入され、第二遊撃部隊(略称“2YB”)になった[12]。第二遊撃部隊の主戦力は第五艦隊(第二十一戦隊、一水戦)[109]、連合艦隊付属部隊、第三航空戦隊の一部、第四航空戦隊の伊勢型航空戦艦2隻であった[110]。他に新造の松型駆逐艦が大部分をしめる第十一水雷戦隊も編入された[111][112]

こうして第二遊撃部隊は訓練部隊[注 12]、機動部隊の前衛および護衛という任務を担った[注 13]。機動部隊(本隊、第二遊撃部隊)は内地に留まり航空隊の練成を行いつつ、自らも訓練に従事する[116][117]。また他部隊や所属艦と、共同訓練を行うこともあった[118][119]。一例として8月下旬には、修理を終えた駆逐艦雪風」が、内海西部で第二遊撃部隊の対潜訓練に協力している[120][注 14]

1944年10月中旬の台湾沖航空戦に大勝したと誤認した連合艦隊は[124]10月14日、西日本所在の第二遊撃部隊を「残敵掃討」と「不時着機搭乗員救助」のために出撃させる(連合艦隊電令作第348号)[14]。第二遊撃部隊に所属していた秋月型駆逐艦と[125]、第十一水雷戦隊は[126]、機動部隊主隊に編入される形で内地に残された[127][注 15]。さらに情況次第では、内地の第四航空戦隊と、リンガ泊地の第一遊撃部隊も残敵殲滅に投入予定であった[130]

第二遊撃部隊(那智、足柄、第一水雷戦隊)は沖縄東方を南下中したが、10月15日から16日かけて入手した無電や敵機触接により形勢不穏と判断し、慎重な航海を続けた[16]。アメリカ海軍の空母機動部隊が健在であることが判明し[131]奄美大島に避退して燃料補給をおこなう[132]。 10月18日、連合艦隊は第二遊撃部隊に第十六戦隊を編入した[133][注 16]。さらに第二遊撃部隊(第21戦隊、第16戦隊、第1水雷戦隊)を機動部隊から除き、南西方面部隊(指揮官三川軍一中将[135]南西方面艦隊司令長官)に編入した[136]。これは第二遊撃部隊を海上機動作戦と逆上陸に従事させるための措置であった[137][注 17]。 上級部隊(連合艦隊[138]、南西方面部隊[139])からの命令が錯綜する中、第二遊撃部隊は志摩部隊として澎湖諸島馬公市カラミアン諸島コロン島を経由して[140]レイテ湾に向けて突入した[18][141]

既述のように、第二遊撃部隊は第一機動艦隊(小沢機動部隊)の固有兵力であった[11][142]。その第二遊撃部隊が南西方面部隊に編入されたので機動部隊本隊の戦力が不足し、訓練部隊と対潜部隊を航空母艦の護衛に使わざるを得なくなった[143][144][注 18]。 第二遊撃部隊の方も、連合艦隊直率部隊になった第一遊撃部隊[147](通称“栗田部隊”)および第一遊撃部隊第3部隊[148][149](通称“西村部隊”)との協調も曖昧なまま、スリガオ海峡へ突入を余儀なくされた[17][150]。 10月25日の夜戦で志摩艦隊も打撃を受け[注 19]、また分派した駆逐艦2隻が沈没した[注 20]

第一遊撃部隊第4部隊だった第十六戦隊(司令官左近允尚正少将)は、18日の連合艦隊電令作第359号により[注 16]、第二遊撃部隊に編入された[注 21]。 当面、陸軍部隊の輸送任務を担うことになった[162][注 22]。第十六戦隊の固有艦艇に加えて、第一号型輸送艦3隻、第百一号型輸送艦2隻が指揮下に入った[164]。 だがブルネイからフィリピンに向けて移動中に重巡青葉」が潜水艦(ブリーム)の雷撃で大破した[165][166]。「青葉」をマニラに残し[167]軽巡「鬼怒」[168]と駆逐艦「浦波」は陸軍部隊レイテ輸送任務のためマニラを出撃する[169]ミンダナオ島カガヤンからレイテ島オルモックに移送[170][171]、帰路の10月26日にマスバテ島南方ビサヤン海で空襲を受け撃沈された[172][173]。第一号型輸送艦3隻(第一輸送隊)と、第百一号型輸送艦2隻(第二輸送隊)によるオルモック輸送は成功した[174]。その後、第101号輸送艦と第102号輸送艦は第二次輸送に従事したが、オルモック海岸で空襲を受け沈没した[174]

10月27日、南西方面部隊第二遊撃部隊掩護部隊となる[175]。 レイテ沖海戦に勝利したと判断した日本軍はレイテ決戦の方針を固め、レイテ島に増援部隊を輸送する。これを多号作戦と呼称し、第61駆逐隊や[176]第二水雷戦隊が編入された第二遊撃部隊(第五艦隊)は[177]、主力部隊として活動する。 だが多号作戦やマニラ空襲で沈没艦が続出した。11月中旬、大本営は戦時編制の大幅な変更を実施、第五艦隊隷下にあった第一水雷戦隊が解隊され[109]、第五艦隊には第三十一戦隊が編入された[注 23]。 この状況下でミンドロ島の戦いが勃発し[179]、反撃の一環として礼号作戦に参加した。12月5日、北東方面艦隊が解隊される[180]。それにともない、第五艦隊は南西方面艦隊に編入された[181][182]。1945年(昭和20年)2月5日、第十方面艦隊新設とともに第五艦隊は解隊され、所属艦艇はその隷下に組み込まれた。

部隊変遷

編制

1941年7月25日、新編時の編制
1941年12月10日、太平洋戦争開戦当時の編制
1942年4月10日、昭和17年度帝国海軍戦時編制
  • 第21戦隊:多摩・木曾
  • 第22戦隊:粟田丸・浅香丸・赤城丸[184]
  • 第7根拠地隊:父島海軍航空隊
    • 吉田丸、まがね丸、第17掃海隊、第66駆潜隊、第7防備隊[185]
  • 附属
    • 駆逐艦:帆風汐風
    • 特設艦船:君川丸、興和丸、第二日の丸、第十複栄丸、神津丸、第一雲洋丸、第一監視艇隊、第二監視艇隊、第三監視艇隊

1942年6月1日、MI作戦およびAL作戦中の編制

戦時編制と軍隊区分で大きな差があるので注意[注 24]

  • 第21戦隊:多摩(4月10日以降、第五艦隊司令長官は旗艦を那智に変更)[76]、木曾
  • 第22戦隊:粟田丸、赤城丸、浅香丸
  • 第7根拠地隊
  • 附属
    • 帆風、汐風、君川丸・まがね丸など
  • 備考:北方部隊(指揮官/第五艦隊司令長官)旗艦「那智」[189](第五艦隊司令長官座乗)[注 25]
1942年7月14日、ミッドウェー海戦後の編制
  • 第21戦隊:那智[192][186]・多摩・木曾
  • 第22戦隊:粟田丸・赤城丸・浅香丸
  • 父島方面特別根拠地隊
    • 第17掃海隊・まがね丸・江戸丸
    • 父島海軍航空隊・父島海軍通信隊
  • 附属:帆風・汐風
    • 第26潜水隊[193]呂61呂62呂65呂67
    • 第33潜水隊[193]呂63呂64呂68
    • 第13駆潜隊・第1~3監視艇隊・君川丸・興和丸・第2日の丸・第10福栄丸・神津丸・第1雲洋丸
    • 第5警備隊
1943年4月1日、昭和18年度帝国海軍戦時編制
1944年4月1日、戦時編制制度改定後の編制

第五艦隊司令部(上級部隊:北東方面艦隊)

1944年8月15日、連合艦隊戦時編制

第五艦隊司令部(上級部隊:北東方面艦隊)[194]

1944年11月1日、南西方面部隊所属時
  • 第二十一戦隊(11月15日付で解隊):那智(11月5日[201]、マニラで空襲を受けて沈没[202])・足柄[注 28]
  • 第一水雷戦隊(11月20日付で解隊、第五艦隊より削除)[178]:木曾(11月13日、マニラ空襲で大破[204]、着底)
    • 第7駆逐隊:潮・曙(11月13日、マニラ空襲で大破、着底)・霞(第18駆逐隊解隊にともない、11月15日付で編入)[注 29]
    • 第18駆逐隊(11月15日付で削除)[203]
    • 第21駆逐隊:初霜・初春(11月13日、マニラ空襲で大破[204]、着底)・時雨(11月15日付で編入)[205]
  • 付属:日帝丸(11月5日付でのぞかれる)・白崎・第2号天洋丸
1944年12月5日、南西方面艦隊編入時の編制

軍隊区分

AL作戦

北方部隊(指揮官:第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将)※以下はAL作戦発動時

1944年8月1日、第二遊撃部隊(第一兵力部署)

小沢治三郎中将(第一機動艦隊司令長官/第三艦隊司令長官)を指揮官とする、機動部隊の隷下[106]。部隊や艦艇によっては、戦況により適宜2YBに編入されることになった[211]。訓練部隊の十一水戦は入れ替りが激しい[212]

第二遊撃部隊、1944年9月1日以降

第二遊撃部隊指揮官:第五艦隊司令長官志摩中将(機動部隊指揮官:小沢治三郎中将の隷下)

  • 第五艦隊
    • 第二十一戦隊:那智・足柄
    • 第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将)阿武隈
      • 第7駆逐隊:曙・潮
      • 第18駆逐隊:不知火・霞
      • 第21駆逐隊:若葉・初春・初霜
    • 第十一水雷戦隊(司令官高間少将)多摩[注 38]
      • (9月1日から9月29日)桑、槇、桐、杉、樅
      • (9月30日)桑、桐、杉、樅、樫、榧、檜
  • 第二戦隊(司令官西村祥治中将)[注 39]:山城・扶桑
  • 第61駆逐隊:初月・秋月・涼月・若月
  • 第41駆逐隊[注 40]霜月[注 41]冬月
  • 重巡洋艦:最上[注 42]

臨時:第三航空戦隊、第四航空戦隊[234][注 43]

第二遊撃部隊、1944年10月18日以降

第二遊撃部隊指揮官:第五艦隊司令長官 志摩中将(南西方面部隊[注 16]:指揮官三川軍一中将/南西方面艦隊司令長官の隷下)

  • 第五艦隊
    • 第二十一戦隊:那智・足柄
    • 第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将)阿武隈
      • 第7駆逐隊:曙・潮
      • 第18駆逐隊:不知火・霞
      • 第21駆逐隊:初春・初霜・若葉
  • 第十六戦隊(10月18日、第二遊撃部隊に編入)[134]司令官左近允尚正少将

歴代司令長官

  1. 細萱戊子郎中将:1941年7月25日[65] - 1943年4月1日[96]
  2. 河瀬四郎中将:1943年4月1日[96] - 1944年2月15日[240]
  3. 志摩清英中将:1944年2月15日[240] - 1945年2月5日[241](解隊)

歴代参謀長

  1. 中澤佑少将:1941年7月25日[65] - 1942年11月6日[242]
  2. 一宮義之大佐:1942年11月6日[242] - 1943年3月19日[243]
  3. 大和田昇少将:1943年3月19日[243] - 1943年11月17日[244]
  4. 松本毅少将:1943年11月17日[244] - 1945年2月5日[241](解隊)

上級部隊

脚注

注釈

  1. ^ 兵力部署は、与えられた兵力を作戦に応じた部隊に区分して任務を与えたもので、単に区分したものを軍隊区分という[10]
  2. ^ 中国方面を担当していた第三艦隊を支援するため1937年(昭和12年)10月20日付で第四艦隊が新編され、同時に第三艦隊と第四艦隊を統轄する支那方面艦隊(CSF)も新編された[1](第三艦隊司令長官が支那方面艦隊司令長官を兼務)[19]
  3. ^ D部隊の軍隊区分は、主隊(妙高、多摩、室戸)、護衛隊(第十戦隊〈天龍、龍田〉、第3駆逐隊、第16駆逐隊、輸送船団)、陽動隊(第一砲艦隊)、航空部隊(一航戦〈加賀、疾風、追風〉、神川丸、三航戦〈神威〉、蒼龍、如月、弥生)、陸戦部隊(第二聯合特別陸戦隊、艦艇聯合陸戦隊)、金門島守備隊であった[27]
  4. ^ Z護衛艦隊甲作戦軍隊区分[33] 支那方面艦隊司令部 第五艦隊司令部 主隊(妙高、由良)、第一護衛隊(指揮官は第八戦隊司令官。第八戦隊〈那珂、鬼怒〉、第23駆逐隊、第11掃海隊)、第二護衛隊(指揮官は第十戦隊司令官。第十戦隊〈天龍、龍田〉、第二水雷戦隊〈軽巡神通、第8駆逐隊、第12駆逐隊)、泊地部隊(指揮官は第五水雷戦隊司令官。第五水雷戦隊〈軽巡長良、第16駆逐隊)、第二根拠地隊、陽動部隊(指揮官は多摩艦長。軽巡多摩、第3駆逐隊)、封鎖部隊(第一砲艦隊)、第一航空部隊(指揮官は第二航空戦隊司令官。二航戦〈蒼龍、龍驤、第30駆逐隊〉、水上機母艦〈千歳、神川丸〉)、第二航空部隊(指揮官は第一航空戦隊司令官。一航戦〈加賀、第29駆逐隊〉、第14航空隊)、第三航空部隊(高雄海軍航空隊司令)、附属部隊。
  5. ^ Y護衛艦隊の軍隊区分[40]。主隊(第五艦隊司令長官、旗艦妙高)、護衛隊(指揮官は第五水雷戦隊司令官。直接護衛隊〈長良、名取、第23駆逐隊、第45駆逐隊、水雷艇〉、先遣部隊〈第28駆逐隊、第12掃海隊、でりい丸、あきつ丸、第7号掃海艇、勝力、追風、第十南進丸、その他〉)、根拠地部隊(主隊、水路啓開隊)、第一航空部隊(指揮官は第三聯合航空隊司令官。第三聯合航空隊、神川丸ほか)、第二航空部隊(指揮官は第一航空戦隊司令官。一航戦〈赤城、疾風〉、千代田)、附属部隊。
  6. ^ 第一遣支艦隊は1943年(昭和18年)8月20日附で解隊され揚子江方面特別根拠地隊になった[53]。第三遣支艦隊は1942年(昭和17年)4月10日に解隊、青島方面特別根拠地隊となった[54]
  7. ^ 1938年12月1日、山県正郷少将と山口多聞少将は第五艦隊司令部付となった[58]
  8. ^ 山口少将は第一艦隊司令部付に補職、原忠一少将が第二遣支艦隊参謀長に補職された[57]
  9. ^ 当時の軍令部総長は伏見宮博恭王、次長古賀峯一、第一部長近藤信竹、第一課長草鹿龍之介であった[59]
  10. ^ 一例として、吹雪型駆逐艦3隻の第7駆逐隊は第一航空艦隊隷下の第十戦隊所属だが[83]、第一機動部隊(指揮官南雲忠一中将)警戒部隊(指揮官木村進少将/第十戦隊司令官)には区分されておらず[84]、北方部隊に編入されている[85]
  11. ^ ドーリットル空襲は日本陸軍にも影響を与えた[86]。AL作戦に関しては北海支隊が編成され、北方部隊の指揮下に入っている[87]
  12. ^ (三)作戰指導其ノ他[113] (イ)第二遊撃部隊トシテ内海西部ニ在リテ待機ノ傍新造駆逐艦ノ急速戰力練成ニ任ズ/(ロ)軍隊区分(表略)
  13. ^ 第二遊撃部隊には、空母直衛を担う秋月型駆逐艦の第41駆逐隊と第61駆逐隊が編入されていた[114]。また戦況によっては伊勢型戦艦2隻と第五艦隊を基幹とする第二遊撃部隊が水上部隊による突入をおこなう予定であった[115]
  14. ^ 第十戦隊・第17駆逐隊の「雪風」は、第二遊撃部隊の第一兵力部署に記載されている[110]。9月中旬、内地に第17駆逐隊が揃い、第二戦隊を護衛してリンガ泊地へむかった[121][122][123]
  15. ^ この時点で第二航空戦隊は解隊されていた[128]第一航空戦隊雲龍型航空母艦第三航空戦隊瑞鶴瑞鳳千歳千代田)、第四航空戦隊(航空戦艦日向、航空戦艦伊勢、空母隼鷹、軽空母龍鳳)になっていた[129]
  16. ^ a b c GF長官十八日一一〇一|十八日一七一八 2F 1KdF 5F GKF 各長官|GF機密第一八一一〇一番電 GF電令作第三五九號[134] 一、16Sヲ1YBヨリ除キ2YB(21S 1Sd)ニ編入ス/二、2YB(21S 16S 1Sd)ヲ機動部隊ヨリ除キNSBニ編入ス 2YBハ高雄ニ於テ補給ノ上成ルベク速ニ「マニラ」ニ進出スベシ|無電
  17. ^ GF参謀長十八日一一〇三(宛略)[134] GF機密第一八一一〇三番電 2YB(21S 16S 1Sd)ハ比島方面海上機動反撃作戰ノ骨幹タラシムル目的ヲ以テGKFニ編入セラル|無線
  18. ^ 第十一水雷戦隊(訓練部隊)と[112]、対潜機動部隊[145]として発足した第三十一戦隊のこと[146]
  19. ^ 旗艦「那智」が重巡「最上」と衝突して損傷[151][152]、魚雷艇の雷撃と空襲で一水戦旗艦「阿武隈」が沈没した[153][154]。「最上」の護衛と処分に従事したのは「曙」であった[155]
  20. ^ 第二航空艦隊の物件マニラ輸送を任じられた第21駆逐隊は[156][157]、10月24日にシブヤン海で空襲を受け「若葉」が沈没し、2隻が損傷した[158]。スリガオ海峡夜戦後、南西方面艦隊は軽巡「鬼怒」の救援を発令[159]、この任務に従事した駆逐艦「不知火」が10月27日に空襲で沈没した[160]
  21. ^ 二.計畫(一)任務、企圖[161] 第十六戰隊二番艦トシテ九月二十五日第一遊撃部隊ニ編入 十月十八日第一遊撃部隊第四部隊トシテ「リンガ」泊地出撃 十月二十日「ブルネイ」着同日機密聯合艦隊電令作第三五九號ニ依リ第一遊撃部隊ヨリ除カレ南西方面部隊ニ編入 第二遊撃部隊トシテ十月二十一日「ブルネイ」出撃警戒部隊トシテ在「カガヤン」陸軍部隊ノ急速「レイテ」島方面揚搭作戰及「レイテ」島方面敵兵力ノ撃滅ニ任ズ
  22. ^ 計劃[163] イ 任務企圖 第十六戰隊旗艦トシテ作戰ニ從事中ノトコロ九月二十五日第一遊撃部隊ニ編入十月十八日「リンガ」泊地出撃十月二十日「ブルネイ」着 同日機密聯合艦隊電令作第三五九号ニ依リ第一遊撃部隊ヨリ除カレ第二遊撃部隊ニ編入 十月二十一日「ブルネイ」出撃在「カガヤン」陸軍部隊ノ急速「レイテ」」島方面揚搭作戰及「レイテ」島方面敵兵力ノ撃滅ニ任ズ
  23. ^ (ハ)作戰指導[178](北東方面艦隊司令部略)(二)當艦隊戰時編制中主ナル変更 1.五日附 日帝丸ヲ第五艦隊補給部隊ヨリ除キ大警部隊ニ編入セラル(中略)4.同日(11月15日)附第二十一戰隊 第十八駆逐隊ヲ戰時編制ヨリ除カル 又第三十一駆逐隊ヲ第二水雷戰隊ニ編入セラル 5.二十日附第三十一戰隊ヲ聯合艦隊附属ヨリ除キ第五艦隊ニ又第一水雷戰隊ヲ戰時編制ヨリ除キ第一 第二十一 第三十一駆逐隊ヲ第二水雷水雷戰隊ニ編入セラル 
  24. ^ 第五艦隊司令長官は北方部隊指揮官として重巡「那智」を旗艦とする[186][187]第二艦隊隷下の第五戦隊所属だった「那智」は1942年(昭和17年)3月10日に連合艦隊軍隊区分における“北方部隊”に編入され[75]、4月10日より北方部隊旗艦として第五艦隊司令長官が座乗した[76]。しかし、戦時編制においては引き続き第五戦隊である[188][189][190]
  25. ^ 備考[191](中略)二.那智ハ昭和十七年三月十日以降北方部隊ニ編入セラレ第五艦隊旗艦トシテ北方部隊ノ任務ニ從事中ナリ
  26. ^ 多摩と木曾は6月25日から第十一水雷戦隊の指揮下に入り[197]、硫黄島に対する伊号輸送作戦に従事した[198][199]
  27. ^ 6月25日から7月3日にかけて初春と若葉は第十一水雷戦隊の指揮下となり、伊号輸送作戦に参加した[197][199]。また第21駆逐隊3隻は7月19日より第十一水雷戦隊の指揮下となり[200]、扶桑型戦艦や第43駆逐隊と共に訓練部隊となった[199]
  28. ^ 11月15日付で第二十一戦隊が解隊され、第五艦隊直属になる[203]
  29. ^ 内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日 海軍大臣[205] 第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「、朝霜」ヲ加フ/第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ/第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル/第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム/第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム/第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル/第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ/第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ 
  30. ^ 11月15日付で第二十一戦隊が解隊され[178]、第五艦隊直属になっていた[203]
  31. ^ 11月20日付で第五艦隊に編入されていた[178]。第三十一戦隊司令部は駆逐艦「霜月」沈没時に全滅した。12月下旬に新司令部で再出発した[206]
  32. ^ 1942年6月1日時点で第一水雷戦隊には第6駆逐隊・第21駆逐隊・第24駆逐隊第27駆逐隊が所属するが[188][208]、第24駆逐隊と第27駆逐隊はMI作戦で主力部隊に編入されていた[209][210]
  33. ^ 8月31日付で横須賀鎮守府部隊に転出[213]
  34. ^ 沈没した「長良」の代艦として、8月末に十一水戦へ転出[212]
  35. ^ 8月7日に潜水艦(クローカー)の雷撃で沈没し[215]、8月末に「多摩」が十一水戦に編入されて旗艦となる[216][217]
  36. ^ 8月1日時点で61駆の「若月」は第一遊撃部隊に編入されていた[219]。リンガ泊地にいた「若月」も[220]、9月中旬に内地に戻り第61駆逐隊に合流[221]。10月14日、第61駆逐隊は機動部隊本隊に編入される[222]
  37. ^ 8月5日付で連合艦隊付属から第一水雷戦隊に復帰する[223]
  38. ^ 10月14日まで、十一水戦は第二遊撃部隊所属だったが、それ以降は機動部隊本隊に編入された[126]
  39. ^ 9月10日、新編[212]。西村中将補職[224]。連合艦隊戦時編制においては第二艦隊だが[225]、暫定的に第二遊撃部隊に編入される[226]。9月中旬以降、第一遊撃部隊に転出し[225]、同月下旬にリンガ泊地へ向かった[121]。10月上旬到着、第一遊撃部隊第三部隊となる[227]。なお戦艦長門」の第二戦隊編入は、諸事情により中止された[225]
  40. ^ 8月10日、第41駆逐隊は第七基地航空部隊に編入された[116]。9月28日付で第二遊撃部隊に編入[221][228]。10月14日、機動部隊本隊に編入される[229]
  41. ^ 8月1日時点で「霜月」は第一遊撃部隊に編入されていた[230]
  42. ^ 第二遊撃部隊8月下旬以降の第二兵力部署には「最上」が記載されている[231]。同艦はリンガ泊地所在で、第五戦隊に編入されていた[232]。10月21日以降は第一遊撃部隊第三部隊となり[233]、スリガオ海峡に突入した。
  43. ^ 9月9日のダバオ誤報事件では捷一号作戦警戒が発令された[235]。第三航空戦隊と第四航空戦隊が第二遊撃部隊に編入されたが[117]、ダバオ来襲が誤報と判明して第二遊撃部隊より除かれた[236]
  44. ^ ブルネイからマニラに向けて移動中、敵潜水艦(ブリーム)の雷撃で大破した[237]。旗艦を「鬼怒」に変更する[238]

出典

  1. ^ a b 戦史叢書75 1975, pp. 4–7支那方面艦隊の兵力配備
  2. ^ 戦史叢書79 1975, p. 001a付表第一(「中國方面海軍作戦〈2〉」)、中國方面主要作戦年表
  3. ^ 戦史叢書91 1975, p. 002a付表第二、聯合艦隊編制推移表(昭和十四年十一月十五日~十六年十二月十日)
  4. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 6, 356.
  5. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 360–362.
  6. ^ 「太平洋戦争主要作戦期間表」、昭和16.12~20.9 第2次世界大戦略歴(乙)第1号(主要作戦の概要)(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C16120621300  pp.2-3〔 中・北太平洋 〕
  7. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 443–444キスカ、アッツの攻略
  8. ^ a b 第12AF日誌(1), pp. 30–31, 32–34.
  9. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 10-12a大本營、サイパン島の放棄を決定
  10. ^ a b 戦史叢書37 1970, pp. 124–127第三段作戦新兵力部署
  11. ^ a b KdB本隊戦闘詳報(2), pp. 27–28.
  12. ^ a b 戦史叢書37 1970, pp. 370a-374三 第二遊撃部隊(第五艦隊)
  13. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 15–18.
  14. ^ a b 戦史叢書37 1970, pp. 677–678聯合艦隊司令長官、残敵殲滅を命令
  15. ^ KdB本隊戦闘詳報(1), pp. 6a-7二.出撃準備ノ情況
  16. ^ a b 戦史叢書37 1970, pp. 699–703第二遊撃部隊、進撃途上に反転
  17. ^ a b 戦史叢書56巻 1972, pp. 55–56第二遊撃部隊、レイテ突入に決す
  18. ^ a b 戦史叢書56巻 1972, p. 4c付図第四、フィリピン沖海戦概見図
  19. ^ 戦史叢書72 1974, pp. 431–432第四艦隊及び第十軍の編成
  20. ^ 戦史叢書91 1975, pp. 359a-360支那事変に伴う戦時編制の発足 ― 昭和十二年十一月
  21. ^ 戦史叢書79 1975, p. 002a付表第二(「中國方面海軍作戦〈2〉」)、支那方面艦隊主要部隊指揮官一覧表
  22. ^ 昭和13年2月9日(水)海軍公報(部内限)第2833号 p.41」 アジア歴史資料センター Ref.C12070371700 〔 ○旗艦指定 第五艦隊司令長官ハ二月八日旗艦ヲ妙高ニ指定セリ 〕
  23. ^ 戦史叢書91 1975, pp. 431a-432艦隊編制の年度戦時編制からの遊離
  24. ^ 戦史叢書72 1974, p. 497.
  25. ^ 戦史叢書72 1974, pp. 486–488第四次交通遮断
  26. ^ 戦史叢書72 1974, pp. 487–488.
  27. ^ a b 戦史叢書75 1975, p. 51.
  28. ^ 戦史叢書75 1975, pp. 50–52厦門攻略作戦
  29. ^ a b c d e 戦史叢書79 1975, p. 001b付表第一
  30. ^ 戦史叢書75 1975, pp. 54–65廣東攻略作戦
  31. ^ 戦史叢書75 1975, p. 59.
  32. ^ 戦史叢書75 1975, p. 56.
  33. ^ 戦史叢書75 1975, p. 62.
  34. ^ a b 戦史叢書79 1975, p. 002b付表第二
  35. ^ a b c d e 昭和13年12月15日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)号外第273号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800  p.11近藤補職、塩澤軍令部出仕、p12田結補軍令部出仕、、p.13山縣補第三聯合航空隊司令官、山口補職
  36. ^ 戦史叢書75 1975, p. 79.
  37. ^ 戦史叢書75 1975, pp. 91–93海南島の戦略的価値及び攻略作戦の発起
  38. ^ 戦史叢書75 1975, p. 92.
  39. ^ 戦史叢書75 1975, pp. 93–95海南島甲作戦
  40. ^ 戦史叢書75 1975, pp. 94–95.
  41. ^ 戦史叢書75 1975, pp. 95–97海南島攻略乙作戦
  42. ^ 戦史叢書75 1975, pp. 98–99汕頭攻略作戦
  43. ^ 戦史叢書75 1975, p. 101.
  44. ^ 戦史叢書91 1975, pp. 432a-434三コ遣支艦隊の新編と第四艦隊の独立 ― 昭和十四年十一月十五日
  45. ^ 戦史叢書91 1975, pp. 434–435新艦隊編制の意義
  46. ^ 戦史叢書75 1975, pp. 128a-130支那方面艦隊の改編(遣支艦隊の創設)
  47. ^ 昭和14年11月21日(火)海軍公報(部内限)第3365号 p.33」 アジア歴史資料センター Ref.C12070382000 〔 官房機密第七〇五六號 〕
  48. ^ a b 昭和14年12月1日(金)海軍公報(部内限)第3373号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070382200 p.6〔 ○第四艦隊司令部宛郵便物ノ件 〕
  49. ^ 戦史叢書75 1975, p. 128b.
  50. ^ 昭和14年11月24日(金)海軍公報(部内限)第3367号 p.33」 アジア歴史資料センター Ref.C12070382000 〔 ○旗艦變更 第二遣支艦隊司令長官ハ十一月二十二日旗艦ヲ妙高ヨリ鳥海ニ變更セリ|○将旗掲揚 第四艦隊司令長官ハ十一月二十二日将旗ヲ千歳ニ掲揚セリ 〕
  51. ^ a b c 戦史叢書91 1975, pp. 431b-432.
  52. ^ 戦史叢書75 1975, pp. 129–130.
  53. ^ 戦史叢書79 1975, pp. 381–382〔既存兵力の整理〕
  54. ^ 戦史叢書79 1975, pp. 357第三遣支艦隊の廃止
  55. ^ a b 昭和13年2月2日(発令2月1日付)海軍辞令公報(号外)第132号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073400  p.1鹽澤補職、p.2田結補職
  56. ^ a b 昭和14年9月29日(発令9月29日付)海軍辞令公報(部内限)第385号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076300  p.40高須補職、近藤補軍令部出仕
  57. ^ a b 昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700  p.20高須補第二遣支艦隊司令長官、p.23山口補第一艦隊司令部付、p24原補第二遣支艦隊参謀長
  58. ^ 昭和13年12月1日(発令12月1日付)海軍辞令公報(部内限)号外 第267号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074700 
  59. ^ a b 戦史叢書91 1975, pp. 370–371.
  60. ^ 戦史叢書91 1975, pp. 371–373.
  61. ^ 戦史叢書91 1975, pp. 373a-375対米支作戦 ― 第五艦隊登場・聯合艦隊司令長官の東正面作戦統一指揮
  62. ^ a b 戦史叢書91 1975, pp. 373b-375.
  63. ^ 戦史叢書91 1975, p. 516a第五艦隊・南遣艦隊の追加的新編
  64. ^ a b c 戦史叢書91 1975, p. 516b.
  65. ^ a b c 昭和16年7月25日(発令7月25日付)海軍辞令公報(部内限)第676号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081600  p.41
  66. ^ a b 戦史叢書91 1975, p. 002b付表第二
  67. ^ 昭和16年7月29日(火)海軍公報(部内限)第3857号 p.19」 アジア歴史資料センター Ref.C12070396400 〔 ○将旗移揚 第一航空艦隊司令長官ハ七月二十六日将旗ヲ鹿屋基地ニ移揚セリ|○将旗掲揚 第五艦隊司令長官ハ七月二十五日将旗ヲ多摩ニ掲揚セリ 〕
  68. ^ 戦隊行動調書, p. 24.
  69. ^ 北方部隊作戦概要表, p. 1.
  70. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 57–58太平洋正面作戦部隊
  71. ^ 戦史叢書80 1975, p. 308.
  72. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 345–346アリューシャン西部要地攻略作戦の追加
  73. ^ a b 戦隊行動調書, p. 4.
  74. ^ S17.03第五戦隊日誌(1), p. 11.
  75. ^ a b S17.03第五戦隊日誌(1), pp. 4–5.
  76. ^ a b c S16.11那智日誌(1), p. 16.
  77. ^ S17.06第五戦隊日誌(1), p. 38.
  78. ^ 黒潮部隊史料, p. 1.
  79. ^ 緊急発信 敵空母本土に接近す 昭和17年”. NHKアーカイブス (1981年9月5日). 2025年1月19日閲覧。
  80. ^ 北方部隊作戦概要表, p. 11.
  81. ^ S16.11那智日誌(1), p. 20.
  82. ^ 戦史叢書77 1974, pp. 4–5.
  83. ^ MI海戦戦時日誌(1), p. 8(昭和17年6月)第十戦隊艦隊区分
  84. ^ MI海戦戦時日誌(1), p. 9(二)軍隊区分(イ)五月二十日附機動部隊兵力部署
  85. ^ a b 戦隊行動調書, p. 10.
  86. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 363–364.
  87. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 420–423大命と指示
  88. ^ 北方部隊作戦概要表, p. 3.
  89. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 434–435.
  90. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 126–127.
  91. ^ 零戦との闘い アメリカからの証言”. NHKアーカイブス (1979年12月8日). 2025年1月19日閲覧。
  92. ^ 戦史叢書77 1974, pp. 112–115.
  93. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 446–467.
  94. ^ 戦史叢書77 1974, pp. 367–369.
  95. ^ 戦史叢書77 1974, pp. 527–529北東方面の防衛強化
  96. ^ a b c 昭和18年4月1日(発令4月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1085号 p.11」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090400 
  97. ^ a b c 戦隊行動調書, p. 33.
  98. ^ 昭和18年6月9日(発令6月8日付)海軍辞令公報(部内限)第1140号 p.44」 アジア歴史資料センター Ref.C13072091500 
  99. ^ 霧中のキスカ島脱出作戦”. NHKアーカイブス (2009年11月30日). 2025年1月19日閲覧。
  100. ^ 第12AF日誌(1), pp. 6–7, 9.
  101. ^ 第12AF日誌(4), p. 5(六)第五艦隊ヲシテ自六月十七日至六月二十六日期間GF電令作第一七六號ニ依ル作戰ニ從事セシム
  102. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 8–10米軍のマリアナ来攻とわが海空決戦の惨敗
  103. ^ a b 戦史叢書37 1970, pp. 10b-12.
  104. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 32–33決戦の用意
  105. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 114–124二 聯合艦隊の戦時編制と兵力部署
  106. ^ a b c 戦史叢書37 1970, pp. 125–126.
  107. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 381–387リンガ泊地へ進出
  108. ^ a b c 戦史叢書37 1970, p. 129.
  109. ^ a b 戦隊行動調書, p. 34.
  110. ^ a b c d e 戦史叢書37 1970, p. 344.
  111. ^ a b S19.06十一水戦日誌(3), pp. 3–4.
  112. ^ a b c 戦隊行動調書, p. 47.
  113. ^ S19.06十一水戦日誌(3), p. 42.
  114. ^ 捷号日誌(4)第10戦隊, p. 4.
  115. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 360–363.
  116. ^ a b 戦史叢書37 1970, p. 338.
  117. ^ a b S19.06十一水戦日誌(3), pp. 47–48.
  118. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 373–374訓練等
  119. ^ S19.10、第7駆逐隊(潮)日誌, pp. 2–3.
  120. ^ a b S19.07第10戦隊日誌(2), pp. 3–4.
  121. ^ a b S19.07第10戦隊日誌(3), pp. 4–5(ホ)第十七駆逐隊
  122. ^ S19.07第10戦隊日誌(3), p. 7a(三)麾下艦船部隊ノ行動所在(昭和19年9月)
  123. ^ 捷号日誌(4)第10戦隊, pp. 8–9.
  124. ^ 第12AF日誌(5), p. 4(昭和19年10月)(ロ)我軍ノ状況
  125. ^ 捷号日誌(4)第10戦隊, p. 20.
  126. ^ a b S19.06十一水戦日誌(4), pp. 3–4.
  127. ^ S19.06十一水戦日誌(4), p. 23機密第141412番電、KdB電令作第五六號 第十一水雷戰隊、第六十一駆逐隊 第四十一駆逐隊ヲKdMBニ編入ス
  128. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 118–119.
  129. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 363–365航空戦隊の兵力整備
  130. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 694–696.
  131. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 19–20敵有力空母部隊発見さる(十月十六日)
  132. ^ S19.10、第7駆逐隊(潮)日誌, p. 14.
  133. ^ 戦隊行動調書, p. 17.
  134. ^ a b c S19.10鬼怒戦闘詳報, p. 11.
  135. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 23.
  136. ^ 第12AF日誌(5), p. 7(二)麾下艦船部隊ノ行動 (一)内海西部ニ於テ訓練待機中ナリシ第五艦隊ハ十八日附南西方面部隊ニ編入セラレ比島方面ニ於テ活躍中ナリ
  137. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 32.
  138. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 93–94.
  139. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 54–55三転四転の陸軍増援計画、南西方面艦隊を困惑さす
  140. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 101–102.
  141. ^ S19.10.25潮戦闘詳報, p. 2(二)作戦準備
  142. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 84–85.
  143. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 27–29機動部隊本隊に対する措置
  144. ^ KdB本隊戦闘詳報(2), pp. 25–27(ロ)水上部隊作戰能力
  145. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 76–81対潜撃滅戦隊の創設
  146. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 78–79.
  147. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 65–66聯合艦隊司令長官の直率下におかる
  148. ^ 捷号日誌(4)第10戦隊, p. 392S機密第221155番電(第一遊撃部隊第三部隊)
  149. ^ KdB本隊戦闘詳報(1), pp. 20–21.
  150. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 100–101.
  151. ^ 最上戦闘詳報, pp. 10, 17.
  152. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 278–280, 289–290.
  153. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 483-486.
  154. ^ 比島、阿武隈戦闘詳報, p. 31軍艦阿武隈行動圖 自昭和19年10月24日0200 至昭和19年10月26日1242
  155. ^ 最上戦闘詳報, pp. 11–12, 18–19.
  156. ^ 捷1号21駆戦闘詳報, p. 3.
  157. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 97–98駆逐隊を割かる
  158. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 257–258.
  159. ^ S19.10鬼怒戦闘詳報, p. 20.
  160. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 490-491「不知火」の沈没
  161. ^ S19.10鬼怒戦闘詳報, p. 3.
  162. ^ S19.10浦波戦闘詳報, p. 2.
  163. ^ 青葉戦闘詳報, p. 3.
  164. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 56–58第十六戦隊をもってする海上機動反撃作戦準備
  165. ^ 青葉戦闘詳報, pp. 4–9.
  166. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 486-487マニラへの進出、旗艦青葉被雷す
  167. ^ 青葉戦闘詳報, p. 12.
  168. ^ S19.10鬼怒戦闘詳報, p. 15.
  169. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 487-488輸送要領/マニラ出撃
  170. ^ S19.10浦波戦闘詳報, pp. 4–5.
  171. ^ S19.10鬼怒戦闘詳報, p. 6.
  172. ^ S19.10浦波戦闘詳報, p. 17別紙浦波行動圖(自昭和十九年十月二十三日 至 同 十月二十六日)
  173. ^ S19.10鬼怒戦闘詳報, p. 37別紙 鬼怒行動図(自十月二十三日 至十月二十六日)
  174. ^ a b c 戦史叢書56巻 1972, pp. 483–484第一、第二輸送隊の行動
  175. ^ S19.10、第7駆逐隊(潮)日誌, p. 9.
  176. ^ S19.06十一水戦日誌(4), p. 32.
  177. ^ 捷号日誌(4)第10戦隊, p. 55GF機密第292117番電・聯合艦隊電令作第387号
  178. ^ a b c d 第12AF日誌(5), pp. 16–17.
  179. ^ 第12AF日誌(5), p. 25(昭和19年12月)一.經過 (イ)敵情
  180. ^ 第12AF日誌(5), p. 27(三)當艦隊戰時編制中主ナル変更次ノ如シ
  181. ^ 第12AF日誌(5), p. 28(ニ)麾下部隊ノ行動作戰 (一)菲島方面ニ於テ作戰中ノ第五艦隊ハ五日北東方面艦隊ヨリ除カレ南西方面艦隊ニ編入セラレタリ(以下略)
  182. ^ a b 第12AF日誌(5), pp. 29–30(昭和19年12月)(ホ)艦隊區分
  183. ^ 戦史叢書80 1975, p. 1a付表第一、開戦時帝国海軍戦時編制、昭和十六年度帝国海軍戦時編制
  184. ^ 戦史叢書80 1975, p. 2a付表第二、昭和十七年度帝国海軍戦時編制(昭和十七年四月十日現在)中 聯合艦隊艦隊編制
  185. ^ 戦史叢書77 1974, p. 1a付表第一、聯合艦隊編制表(昭和17年4月10日)
  186. ^ a b S16.11那智日誌(1), pp. 36–37.
  187. ^ 北方部隊作戦概要表, pp. 19–20自昭和16年12月8日至昭和17年11月6日 第五艦隊旗艦行動圖/旗艦 昭和十七年四月十日迄軍艦多摩 昭和十七年四月十一日以後軍艦那智
  188. ^ a b MI海戦戦時日誌(1), p. 3聯合艦隊編制表(六月一日現在)
  189. ^ a b c S16.11那智日誌(1), pp. 33–34.
  190. ^ S17.06第五戦隊日誌(1), p. 3.
  191. ^ S17.06第五戦隊日誌(1), p. 6.
  192. ^ S17.06第五戦隊日誌(1), p. 43.
  193. ^ a b 戦史叢書77 1974, pp. 80, 111.
  194. ^ 戦史叢書37 1970, p. 118聯合艦隊戦時編制(19.8.15)
  195. ^ 第12AF日誌(4), pp. 7–8(二)艦隊區分
  196. ^ 第12AF日誌(4), p. 6(九)(略)3.六月二十五日附 木曽及二十一驅逐隊(若葉、初春)ヲ一時北方部隊ヨリ除カレGF長官直率トナル
  197. ^ a b S19.06十一水戦日誌(1), pp. 7, 21.
  198. ^ S19.06十一水戦日誌(1), pp. 4–5軍隊区分
  199. ^ a b c S19.06十一水戦日誌(2), pp. 3–4軍隊區分
  200. ^ S19.06十一水戦日誌(2), p. 6.
  201. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 522重巡那智の最期
  202. ^ S19.10.29~11.13霞戦闘詳報, p. 5.
  203. ^ a b c 第12AF日誌(5), pp. 18–19(昭和19年11月)(ホ)艦隊區分
  204. ^ a b S19.10.29~11.13霞戦闘詳報, p. 7.
  205. ^ a b 秘海軍公報11月(3), pp. 4–5.
  206. ^ 戦隊行動調書, p. 27.
  207. ^ S16.11那智日誌(1), p. 31.
  208. ^ あ号作戦日誌(4), p. 3.
  209. ^ あ号作戦日誌(4), p. 22.
  210. ^ 戦隊行動調書, p. 40.
  211. ^ a b 戦史叢書37 1970, p. 370b.
  212. ^ a b c d 戦史叢書37 1970, p. 372.
  213. ^ 第12AF日誌(4), p. 27a(ハ)北東方面艦隊戰時編成中主ナル変更左ノ如シ(中略)(六)三十日附木曽、多摩ヲ二十一戰隊ヨリ除キ夫々横鎭部隊及十一水雷戰隊ニ編入セラル
  214. ^ S19.06十一水戦日誌(3), p. 5(昭和19年8月)(四)麾下艦船部隊竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動
  215. ^ S19.06十一水戦日誌(3), p. 16.
  216. ^ 第12AF日誌(4), p. 27b.
  217. ^ a b S19.06十一水戦日誌(3), p. 33.
  218. ^ S19.06十一水戦日誌(3), p. 11.
  219. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 390–391第一遊撃部隊の編制
  220. ^ S19.07第10戦隊日誌(3), p. 7b.
  221. ^ a b S19.07第10戦隊日誌(3), pp. 3–4.
  222. ^ 捷号日誌(4)第10戦隊, p. 5.
  223. ^ a b S19.06十一水戦日誌(3), p. 8.
  224. ^ 昭和19年9月13日(発令9月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1592号 p.24」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100900 
  225. ^ a b c 戦史叢書37 1970, pp. 568a-569.
  226. ^ S19.07第10戦隊日誌(3), p. 12KdB電令作第四四號/第二戰隊ヲ一時第二遊撃部隊ニ編入ス
  227. ^ 最上戦闘詳報, pp. 6–7.
  228. ^ S19.07第10戦隊日誌(3), p. 23KdB機密第281815番電
  229. ^ 捷号日誌(4)第10戦隊, p. 6.
  230. ^ 戦史叢書37 1970, p. 390.
  231. ^ 戦史叢書37 1970, p. 345.
  232. ^ 戦隊行動調書, p. 5.
  233. ^ 最上戦闘詳報, pp. 5–6.
  234. ^ S19.07第10戦隊日誌(3), p. 11KdB機密第一〇一六四五番電
  235. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 449–459三 ダバオ誤報事件
  236. ^ S19.07第10戦隊日誌(3), p. 14KdB機密第110817番電
  237. ^ S19.10鬼怒戦闘詳報, p. 5.
  238. ^ 青葉戦闘詳報, p. 15.
  239. ^ a b S19.10鬼怒戦闘詳報, pp. 16–17.
  240. ^ a b 昭和19年2月15日(発令2月15日)海軍辞令公報(部内限)第1322号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072095800  p.9志摩補職、河瀬補軍令部出仕
  241. ^ a b 昭和20年2月9日(発令2月5日付)海軍辞令公報(甲)第1717号 p.14」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103400 
  242. ^ a b 昭和17年11月7日(発令11月6日付)海軍辞令公報(部内限)第979号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072088000  p.12中澤補軍令部出仕、一宮補職
  243. ^ a b 昭和18年3月20日(発令3月19日付)海軍辞令公報(部内限)第1076号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090100  p.15一宮補軍令部出仕兼海軍省出仕、大和田補職
  244. ^ a b 昭和18年11月18日(発令11月17日付)海軍辞令公報(部内限)第1264号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094500  p16大和田補南東方面艦隊司令部付、松本補職

参考文献

  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦<1> 臺灣沖航空戦まで』 第37巻、朝雲新聞社、1970年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦(2) フィリピン沖海戦』 第56巻、朝雲新聞社、1972年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中國方面海軍作戦<1> 昭和十三年三月以前』 第72巻、朝雲新聞社、1974年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<3> ―昭和18年2月まで―』 第77巻、朝雲新聞社、1974年9月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中國方面海軍作戦<2> 昭和十三年四月以降』 第79巻、朝雲新聞社、1975年1月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<2> ―昭和17年6月まで―』 第80巻、朝雲新聞社、1975年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<1> ―開戦まで―』 第91巻、朝雲新聞社、1975年12月。 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和18年5月18日~昭和20年6月30日 第12航空艦隊戦時日誌 北東方面艦隊(1)』1944年。JACAR:C08030025100 
    • 『昭和18年5月18日~昭和20年6月30日 第12航空艦隊戦時日誌 北東方面艦隊(2)』1944年。JACAR:C08030025200 
    • 『昭和18年5月18日~昭和20年6月30日 第12航空艦隊戦時日誌 北東方面艦隊(3)』1944年。JACAR:C08030025300 
    • 『昭和18年5月18日~昭和20年6月30日 第12航空艦隊戦時日誌 北東方面艦隊(4)』1944年。JACAR:C08030025400 
    • 『昭和18年5月18日~昭和20年6月30日 第12航空艦隊戦時日誌 北東方面艦隊(5)』1944年。JACAR:C08030025500 
    • 第一機動艦隊司令部「機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報」『昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)』1944年。JACAR:C08030036600 
    • 第一機動艦隊司令部「機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報」『昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(2)』1944年。JACAR:C08030036700 
    • 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(4)第10戦隊』1944年。JACAR:C08030039400 
    • 「昭和17年6月の一水戦、二水戦、三水戦の戦時日誌」『「昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(4)」、昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(防衛省防衛研究所)』1944年。JACAR:C08030040100 
    • 『「昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)」、昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報』1942年。JACAR:C08030040400 
    • 『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』1942年。JACAR:C08030043000 
    • 『昭和17年6月1日~昭和17年11月30日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』1942年。JACAR:C08030043900 
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(1)』1944年。JACAR:C08030050800 
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(2)』1944年。JACAR:C08030050900 
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(3)』1944年。JACAR:C08030051000 
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(1)』1944年。JACAR:C08030127400 
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(2)』1944年。JACAR:C08030127500 
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(3)』1944年。JACAR:C08030127600 
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(4)』1944年。JACAR:C08030127700 
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(5)』1944年。JACAR:C08030127800 
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(6)』1944年。JACAR:C08030127900 
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(7)』1944年。JACAR:C08030128000 
    • 『昭和19年10月23日 軍艦青葉戦闘詳報』1944年。JACAR:C08030569100 
    • 『昭和19年10月24日~昭和19年10月26日 軍艦阿武隈フィリピン沖海戦戦闘詳報』1944年。JACAR:C08030579100 
    • 『昭和19年10月18日~昭和19年10月25日 軍艦最上戦闘詳報』1944年。JACAR:C08030575400 
    • 『昭和19年10月18日~昭和19年10月26日 軍艦鬼怒フィリピン沖海戦戦闘詳報』1944年。JACAR:C08030579300 
    • 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 第7駆逐隊(潮)戦時日誌』1944年。JACAR:C08030589100 
    • 『昭和19年10月18日~昭和19年10月26日 駆逐艦浦波戦闘詳報』1944年。JACAR:C08030589200 
    • 『昭和19年10月24日 第21駆逐隊捷1号作戦戦闘詳報』1944年。JACAR:C08030589600 
    • 『昭和19年10月25日 駆逐艦潮戦闘詳報』1944年。JACAR:C08030589800 
    • 『昭和19年10月24日~昭和19年10月25日 第18駆逐隊(霞)戦闘詳報』1944年。JACAR:C08030589900 
    • 『昭和19年10月29日~昭和19年11月13日 第18駆逐隊(霞)戦闘詳報』1944年。JACAR:C08030590200 
    • 『昭和16年~昭和20年 海軍第22戦隊(黒潮部隊)史料』1967年。JACAR:C08030724400 
    • 第五艦隊司令部『昭和16年12月~昭和17年11月 北方部隊作戦概要表』1942年。JACAR:C08030728000 
    • 軍艦那智『昭和16年11月~昭和18年5月 軍艦那智戦時日誌及行動図(1)』1942年。JACAR:C08030747700 
    • 軍艦那智『昭和16年11月~昭和18年5月 軍艦那智戦時日誌及行動図(2)』1942年。JACAR:C08030747800 
    • 『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。JACAR:C08051772000 
    • 『「11月(3)」、昭和19年9月~12月 秘海軍公報 号外(防衛省防衛研究所)』。JACAR:C12070497900 

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第五艦隊 (日本海軍)」の関連用語

第五艦隊 (日本海軍)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第五艦隊 (日本海軍)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの第五艦隊 (日本海軍) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS