南遣艦隊
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南遣艦隊(なんけんかんたい)は[1]、大日本帝国海軍の部隊[2]。 南遣艦隊の符号はKFで、第一南遣艦隊は1KF、第二南遣艦隊は2KF、第三南遣艦隊は3KF、第四南遣艦隊は4KFとなる[3]。南遣艦隊を統轄する南西方面艦隊はGKF[3]。
注釈
- ^ 印度洋方面の作戰[28]「我海軍は南遣艦隊の一支隊(伊吹 筑摩の二隻より成り、伊吹艦長海軍大佐加藤寛治先任官として之を指揮す)を開戰の初頭大正三年八月廿六日新嘉坡に向け發進せしめ、以て英國支那艦隊(司令長官海軍ジョラム之を率ゐ、我海軍よりは海軍中佐山梨勝之進を此艦隊の幕僚中に参加せしめたり)と協同作戰に從事せしめたり。而して當時同盟艦隊は、一時待機の姿勢を持し、附近海面の警戒に任じたりしが、九月十日敵艦エムデン印度洋東方に出現せるを以て、我支隊は一方に於て索敵に努むると共に、他方に於て濠洲及ニュージーランド陸軍輸送船隊の護衛に任じ、益々勢力を増加し、英國艦隊と協力して敵情に應じ策動せり。然るに敵艦は爾後愈々強暴を逞うし、印度洋方面の航路頗る危殆に瀕せるを以て、十月二十五日更に一戰隊(司令官海軍中将栃内曾次郎)を此方面に増遣し、英國艦隊と協力して策動せしめたり。(呉に於て栃内司令常磐、八雲、伊吹、日進、筑摩、平戸、矢矧、生駒及英國驅逐隊一隊を併せ引率することゝ爲れり)。(以下略)
- ^ なおエムデンは1914年(大正3年)11月9日にオーストラリア海軍 (Royal Australian Navy) の軽巡シドニー (HMAS Sydney) によって撃沈された[28]。
- ^ 太平洋方面の作戰[30]「開戰の當初敵艦隊の一部は、北米及布哇方面に在り、又曩に南洋方面に遊弋せる敵艦隊の主力及膠州灣より脱出せる敵艦の所在は詳ならず、乃ち我海軍は開戰と同時に、第一艦隊の一戰隊(司令長官海軍中将山屋他人の引率する金剛 比叡 鞍馬 筑波)を發遣して太平洋方面の航路保安及索敵に任ぜしめ、〈其後此隊を第一南遣支隊と稱し、鞍馬、筑摩、淺間、磐手及驅逐隊隊より成る、後多少の異動ありたり〉尋で更に第一艦隊の一戰隊(司令官海軍少将松村龍雄の引率する薩摩、矢矧、平戸)を第二南遣支隊として南洋方面に派遣し、濠洲航路の保安及索敵の事に從はしめ、(此隊の所属艦後多少の異動あり)斯くて兩隊相策應して行動せり。然るに敵は其踪跡を韜晦せるを以て、我は先づ附近に散在する敵の諸要地を占領して、其の據點を失はしめ、生民は之を綏撫して其の堵に安んぜしめたり。此の軍事行動は該方面に於ける保安を鞏固ならしめたるのみならず、爾後に於ける作戰の進捗に資する所あると同時に、曩に分散せる敵の殘艦及智利沿海附近に於ける敵艦隊の主力に對し、或は遠く或は近く制壓を與へたるものと謂ふべきなり。爾後我海軍は此方面の警戒を嚴にし、航路の保安を確實にすると共に、尚第三特務艦隊(司令官海軍少将山路一善の引率する筑摩、平戸)を南太平洋に配し、濠洲海軍と協議して遠く該方面に亙る海面をも巡邏せしめ、以て警戒及通商保護に任ぜしめたり。而して大正六年(千九百十七年)十一月に至り、日米兩軍間に太平洋に於ける協同作戰に關する協定成立するや、我海軍は其の趣旨に循由して必要なる軍艦を配備し、今尚ほ續行中なり。
- ^ 当初、第二南遣枝隊司令官は土山哲三少将だったが[34]、病気のため松村少将に交代した[35]。
- ^ 大海令第290号(1941年7月31日付) 一 南遣艦隊司令長官ハ佛印方面ニ於ケル作戦基地ノ準備竝ニ治安ノ維持ニ任ズルト共ニ支那方面艦隊ノ作戦ニ協力スベシ/二 前項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム[39]。
- ^ 第二艦隊司令長官近藤信竹海軍中将(南方部隊指揮官)や第三艦隊司令長官高橋伊望海軍中将(比島部隊指揮官/蘭印部隊指揮官)との先任・後任の関係を考慮した人事である[38]。
- ^ 福留は第十方面艦隊の当初兵力を「総人員20万人、山城級戦艦4隻、高雄級巡洋艦4隻、駆逐艦約20隻、航空兵力約400機・実動250機」と回想している[93]。
- ^ 名取は1月31日から5月24日までシンガポールで大修理をおこない、6月から舞鶴海軍工廠で修理をおこなった[112]。修理が終わったのは翌年4月末であった。
- ^ 第十六戦隊所属の五十鈴は、第二次ソロモン海戦で損傷した軽巡神通の代艦として1942年(昭和17年)9月25日に第二水雷戦隊(第二艦隊)旗艦となり、第十六戦隊から除かれた[121]。
- ^ 第十六戦隊所属の長良は、1942年(昭和17年)4月10日に新編された第十戦隊(第一航空艦隊)[79]の旗艦に指定され、第十六戦隊から除かれた[122]。
- ^ 高須中将は引き続き南西方面艦隊司令長官を務める[20]。1944年6月18日、軍参議官に任命される[123]。後任の南西方面艦隊司令長官は三川軍一中将であった[124]。
- ^ 多田少将は引き続き南西方面艦隊参謀長を務めた[20]。1944年3月1日、航空本部総務部長に補職される[128]。
- ^ 大海指第三十七号[76]聯合艦隊司令長官ハ第三南遣艦隊司令長官ヲシテ菲律賓群島方面海域ノ作戦並ニ海上交通ノ確保ニ任ゼシムルト共ニ陸軍ト協同シテ菲律賓群島ノ残敵ヲ掃蕩シ且同群島ノ警備ニ任ゼシムベシ
- ^ 大海指第三十八号[76]菲律賓群島占領後ニ於ケル同群島ノ警備ハ別紙「菲律賓群島警備ニ関スル陸海軍中央協定」ニ準拠スベシ
- ^ 南西方面艦隊司令部の移動は7月10日から二回次に分けて実施された[142]。任務を終えてマニラを出航した直後の7月19日、大井は潜水艦フラッシャーの雷撃で沈没した[143]。
- ^ 1944年(昭和19年)9月10日、第三南遣艦隊の隷下に第31特別根拠地隊が新編され、有馬少将は31特根司令官に任命された[149]。
- ^ 三川軍一中将は1943年(昭和18年)9月3日から第二南遣艦隊司令長官となった[125]。1944年(昭和19年)6月18日、第二南遣艦隊司令長官は河瀬四郎中将となり、三川中将は南西方面艦隊に任命された[123]。同年8月15日より、三川中将は南西方面艦隊司令長官と第三南遣艦隊司令長官を兼任した[144]。
- ^ 1944年3月1日、南西方面艦隊参謀長(兼第十三航空艦隊参謀長)は多田武雄少将から西尾秀彦少将に交代した[128]。西尾少将は同年11月1日まで南西方面艦隊参謀長であった[150]。
- ^ 11月17日附で岩淵三次少将が第31特別根拠地隊司令官に任命され、有馬の兼務は三職(南西方面艦隊参謀長、第三南遣艦隊参謀長、第十三航空艦隊参謀長)となった[150]。
- ^ 中国大陸に不時着し、中国兵に包囲されて自決(詳細は該当記事を参照)
出典
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南遣艦隊
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「香椎 (練習巡洋艦)」の記事における「南遣艦隊」の解説
詳細は「南遣艦隊」を参照 1941年(昭和16年)7月15日に竣工した香椎は、横浜から横須賀へ移動した。続いて佐世保へ回航される。7月31日に南遣艦隊が新編され(司令長官平田昇中将、海兵34期)、香椎はその旗艦となった。香椎以外の戦力は、海防艦占守、特設砲艦1隻、掃海艇2隻、警備部隊と設営隊のみという小規模艦隊であった。 8月11日午前7時、香椎はサンジャック沖合に到着した。当時の日本海軍は南部仏印進駐にともない、第二遣支艦隊(旗艦足柄、指揮官新見政一第二遣支艦隊司令長官)を基幹戦力として「ふ号作戦」を実施しており、8月上旬までに南部仏印進駐を完了していた。同日12時30分、新見中将(ふ号作戦部隊指揮官)は平田長官に事務の引継を完了し、ふ号作戦部隊は解散した。以後、フランス領インドシナ方面の作戦は南遣艦隊の担当となった。 10月15日、香椎艦長は岩淵大佐から小島秀雄大佐に交代した。10月18日付で、南遣艦隊司令長官は平田中将から小沢治三郎中将(海兵37期)に交代した。10月21日、大本営直轄だった南遣艦隊は連合艦隊に編入される。10月24日、小沢中将はサイゴンに停泊する香椎に到着した。日本海軍は南方作戦にむけて南遣艦隊(馬来部隊)を一挙に増強しており、練習巡洋艦に過ぎない香椎が陣頭指揮をおこなうには心許なかった。これに対し南方部隊指揮官近藤信竹中将(第二艦隊司令長官:旗艦愛宕)は「小沢中将は『香椎』か陸上基地(サイゴン)で指揮すれば良い」という立場だったが、小沢中将は指揮旗艦として重巡洋艦の派遣を要請した。そこで山本長官は高雄型重巡洋艦4隻の第四戦隊(愛宕、高雄、鳥海、摩耶)から重巡鳥海を引き抜き馬来部隊に編入する。11月27日、馬来部隊指揮官小沢治三郎南遣艦隊司令長官は、旗艦を香椎から鳥海に変更した。マレー半島攻略を目指す第25軍(司令官山下奉文陸軍中将)の輸送船団と馬来部隊は、海南島三亜市に集結した。 詳細は「南方作戦」を参照 太平洋戦争緒戦では「香椎」と海防艦「占守」で馬来部隊(指揮官小沢治三郎海軍中将)の第二護衛隊を編成し、マレー半島上陸に参加した。第二護衛隊はタイ南部のナコンなどに上陸する宇野支隊を乗せた船団を護衛して12月5日にサンジャックを出発。一方、シンゴラ、コタバルへ向かう船団も12月4日に三亞より出撃しており、両船団はいったん合流した後分離しそれぞれの目的地へと向かった。「香椎」はチュンポンとバンドンへ向かう「山浦丸」、「伏見丸」、「良洋丸」を護衛した。チュンポンへ向かう2隻と分かれた後、「香椎」と「山浦丸」は12月8日2時30分頃にバンドン川河口の北約23海里に入泊し、上陸部隊はバンドンの飛行場を占領した。続いて「香椎」は第三水雷戦隊の一部などと共に第一護衛隊を編成し、第二次マレー上陸に参加した。上陸部隊および「香椎」などは12月13日にカムラン湾を出発し、12月15日にシンゴラ・パタニ方面とシンゴラ方面へ向かうものに分かれた。「香椎」は軽巡洋艦「川内」などとともにシンゴラ・パタニ方面行きであった。12月16日に輸送船は目的地に着き、揚陸が開始された。「香椎」は泊地警戒に従事し、12月19日にシンゴラを離れた。 12月末からは第二護衛隊の一隻として第25軍と第15軍の一部を馬公からシンゴラおよびバンコクへ運ぶ船団の護衛に従事した。第二護衛隊は「香椎」、軽巡洋艦「名取」、駆逐艦14隻および海防艦1隻からなっていた。「香椎」と「占守」は駆逐艦2隻(磯波、綾波)と共にタンカー「黒潮丸」を護衛して12月24日にカムラン湾を発ち馬公へ向かった。その途中の12月27日、給炭艦「野島」は香港南方海面でアメリカ潜水艦から雷撃され、損傷を受けた。3隻(香椎、磯波、綾波)が野島救援に派遣され、「香椎」は「野島」を香港まで護衛し、それから馬公へ向かった。12月31日、船団は馬公より出発した。1942年(昭和17年)1月3日、船団中の「明光丸」(明治海運、4,383トン)が爆発事故を起こして沈没した。「明光丸」には落下傘部隊である第一挺進団第一連隊約1500名が乗っていたが「香椎」などが救助活動を行い、船員も含めて全員が救助された。1月7日に船団は分離され、「香椎」と「占守」および駆逐艦2隻はバンコクへ向かう船団を護衛した。1月9日に船団はバンコクに到着した。 上記作戦中の1942年(昭和17年)1月3日、南遣艦隊は第一南遣艦隊と改名されている。2月、連合国軍艦隊はいまだ巡洋艦数隻を保持していた。馬来部隊指揮官小沢治三郎第一南遣艦隊司令長官は、第二護衛隊に属していた軽巡由良を、鳥海以下の主隊に編入、それまでアナンバス基地部隊だった香椎を第二護衛隊に編入する。2月11日、第二護衛隊(香椎、占守、第20駆逐隊〈夕霧、天霧〉)はスマトラ島攻略を目指す輸送船14隻と共にベトナムのカムラン湾を出撃した。2月下旬〜3月上旬、日本軍輸送船団撃滅を企図するABDA連合国艦隊はスラバヤ沖海戦とバタビア沖海戦、および南雲機動部隊の掃蕩作戦によって東南アジア方面から一掃され、ジャワ島攻略作戦に目途がついた。 馬来部隊は2月27日にシンガポールのセレター軍港に入港し、続いてスマトラ島攻略作戦を開始した。「香椎」は3月8日からの北部スマトラ攻略作戦、3月19日からのビルマへ陸軍部隊を運ぶ輸送船の護衛作戦に参加した。北部スマトラ攻略作戦からの帰路、3月13日に「香椎」は小型商船を発見、これを捕らえ掃海艇をつけてペナンへ送った。
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