フォークランド沖海戦とは? わかりやすく解説

フォークランド沖海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/29 14:34 UTC 版)

フォークランド沖海戦

チリから出航するシュペー艦隊
戦争第一次世界大戦
年月日1914年12月8日
場所フォークランド諸島
結果:イギリスの勝利
交戦勢力
ドイツ帝国海軍 イギリス海軍
指導者・指揮官
マクシミリアン・フォン・シュペー中将 ダブトン・スターディー中将
戦力
装甲巡洋艦2、防護巡洋艦3 巡洋戦艦2、装甲巡洋艦3、軽巡洋艦1
損害
装甲巡洋艦2、防護巡洋艦2沈没 沈没艦なし
第一次世界大戦の海戦

フォークランド沖海戦(フォークランドおきかいせん、: Battle of the Falkland Islands, : Seegefecht bei den Falklandinseln)は、第一次世界大戦中にアルゼンチン近くの英領フォークランド諸島沖において、イギリス海軍ドイツ帝国海軍とが衝突した海戦ダブトン・スターディー提督率いるイギリス艦隊が圧倒的な火力をもって終始優位に立ち、最終的にマクシミリアン・フォン・シュペー提督の指揮するドイツ東洋艦隊を撃破した[1]

戦闘

本海戦の航跡図。

コロネル沖海戦で敗北したイギリス海軍は、スターディー中将を南大西洋・太平洋方面艦隊司令長官に任じ、巡洋戦艦インヴィンシブルインフレキシブルをその麾下とした。

1914年10月9日、インヴィンシブルとインフレキシブルはサー・ダブトン・スタディー中将の将旗を掲げ、11日16時45分あわただしくフォークランド諸島を目指した。一方のシュペー隊はコロネル沖海戦後に石炭不足、蒸気機関の不調などから大西洋に進出するのが遅れ、破滅の道をたどる事になる。

11月11日、両艦は出港し、装甲巡洋艦モンマス級「コーンウォール」「ケント」、デヴォンシャー級「カーナヴォン」、タウン級軽巡洋艦ブリストル」、「グラスゴー」、仮装巡洋艦「マセドニア(Macedonia)」と合流しつつ、12月7日にフォークランド諸島ポート・スタンリーに到着した。なお、この間はドイツ側に存在を悟られないように厳重な無線封止を行っていたため、石炭船が先にポート・スタンリーに入港した。その後、艦隊はポート・スタンリーとポート・ウィリアムで給炭を行った。

砲撃を受けて横転沈没するシャルンホルストと戦闘を続行するグナイゼナウ
(画)ウィリアム・ライオネル・ワイリー

一方、シュペー中将指揮するドイツ東洋艦隊はコロネル沖海戦後、本国からの帰還命令を受けたものの燃料および弾薬の慢性的な不足に苦しんでいた。12月近くになり、シュペー中将はホーン岬を通って大西洋に入り、フォークランド諸島を襲撃することにした[1]。当然、彼らがイギリス艦隊の存在に気づくことはなかった。

12月8日、フォークランド諸島の見張所が接近する装甲巡洋艦グナイゼナウ、軽巡洋艦ニュルンベルクを発見した。これを受けて8時30分にカーナヴォンとケントがまず出港した。9時15分には前弩級戦艦カノーパスが砲撃を開始し、ドイツ艦2隻は反転した。シュペー中将は艦隊をまとめ逃走に入った。

10時には故障したブリストル以外が出港し、シュペー艦隊を追撃した。このあとスタディー隊は着替えと昼食をとり、12時55分、インフレキシブルが防護巡洋艦ライプツィヒに対し砲撃を開始した。シュペー中将は防護巡洋艦3隻を逃がすため13時25分に分離した。スターディー中将はこれを軽巡洋艦に追撃させ、ドイツの装甲巡洋艦2隻に、巡洋戦艦2隻で対した。

装甲巡洋艦と巡洋戦艦では圧倒的に巡洋戦艦が優勢であり、スタディー隊は約10ノットの優速をもって自在に距離を伸縮しつつ敵艦をアウトレンジし、16時17分に装甲巡洋艦シャルンホルストは撃沈されシュペー中将も戦死した[1]。グナイゼナウも17時40分に自沈した。脱出したグナイゼナウの乗員のうち約200人が救助されたが低体温症で一部が死亡し、結局187人が生還した。

イギリスの巡洋艦はドイツの防護巡洋艦を追撃し、16時15分にグラスゴーとコーンウォールはライプツィヒを捕捉した。ライプツィヒは20時35分に撃沈された。また、ニュルンベルクもケントの攻撃で撃沈された。唯一、防護巡洋艦ドレスデンだけは逃走に成功したが、1915年3月14日にチリ沖でイギリス艦隊に発見され、自沈した[1]

海戦自体には圧倒的な速力を背景に勝利できたものの、スターディー中将と旗艦カーナーヴォンのアーチボルド・ストッダート提督は手際の悪さとドレスデンを逃がしたことなどが問題とされ、以降不遇をかこつこととなった。

参加艦艇

イギリス海軍

*マジェスティック級戦艦:カノーパス

*インヴィンシブル級巡洋戦艦:インヴィンシブルインフレキシブル

*モンマス級装甲巡洋艦:コーンウォール、ケント

*デヴォンシャー級装甲巡洋艦:カーナヴォン

*タウン級軽巡洋艦:ブリストルグラスゴー

*仮装巡洋艦:マセドニア(Macedonia)

ドイツ帝国海軍

東洋艦隊

*シャルンホルスト級装甲巡洋艦:シャルンホルスト、グナイゼナウ

*ケーニヒスベルク級小型巡洋艦:ニュルンベルク

*ブレーメン級小型巡洋艦:ライプツィヒ 

*ドレスデン級小型巡洋艦:ドレスデン

脚注

注釈


出典

  1. ^ a b c d 小山内, 宏 著、原田 勝正,針生 一郎,山田 宗睦・編著 編『20世紀の歴史ユトランド沖海戦前後ほか』 27巻、株式会社日本メール・オーダー、東京都品川区〈20世紀の歴史〉、1974年1月1日、537頁。ASIN B01N9URPEI 

参考文献

  • エドウィン・ホイト著、実松譲訳、『壊滅:シュペー艦隊の最後(原題:Kreuzerkrieg)』、フジ出版社、1969年。
  • 世界の艦船No.553

関連項目

外部リンク


フォークランド沖海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:50 UTC 版)

ニュルンベルク (軽巡洋艦・初代)」の記事における「フォークランド沖海戦」の解説

ドイツ勝利終わったコロネル沖海戦後、シュペーバルパライソ訪れ、それから11月5日から11月15日までファン・フェルナンデス諸島に留まった。ファン・フェルナンデス諸島離れたシュペー艦隊11月21日チリのペナス湾に着き、そこで5日補給作業行った。それからホーン岬回って大西洋入りピクトン島数日留まった後フォークランド諸島攻撃向かった12月8日シュペー艦隊フォークランド諸島接近しグナイゼナウニュルンベルク攻撃向かった。だが、グナイゼナウイギリス戦艦カノーパスから砲撃受けたためシュペー攻撃断念したフォークランドからはイギリス巡洋戦艦インヴィンシブルインフレキシブルなどが出撃南東逃げドイツ艦隊追撃したイギリス巡洋戦艦追いつかれると、シュペーは3隻の軽巡洋艦南へ逃げるよう命じた。それに対しイギリス側装甲巡洋艦ケントコーンウォール軽巡洋艦グラスゴーが3隻を追跡したニュルンベルクケント追跡された。ニュルンベルクケント追いつかれ、17時ごろには戦闘になった18時30分頃にニュルンベルクボイラー爆発して速度低下逃走不可となったニュルンベルクケントからの攻撃1927分に沈没した(フォークランド沖海戦)。

※この「フォークランド沖海戦」の解説は、「ニュルンベルク (軽巡洋艦・初代)」の解説の一部です。
「フォークランド沖海戦」を含む「ニュルンベルク (軽巡洋艦・初代)」の記事については、「ニュルンベルク (軽巡洋艦・初代)」の概要を参照ください。

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