第二遣支艦隊
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1938年(昭和13年)2月1日に新編された第五艦隊は、同日附で支那方面艦隊に編入された。1939年(昭和14年)11月15日の改編で、従来の第五艦隊は第二遣支艦隊に改称した。引き続き広州を拠点に華南方面で行動した。南シナ海に面する海域を担当するため第十五戦隊(鳥海、第5駆逐隊、第21駆逐隊)が配備されており、1個水雷戦隊に匹敵する水上兵力を擁する。ただし、太平洋戦争に備えて、重巡洋艦は軽巡五十鈴へ、駆逐隊は砲艦や水雷艇や掃海艇に差し替えられている。一方の陸上戦力は3個特別根拠地隊(海南島根拠地隊、広東方面特別根拠地隊、厦門方面特別根拠地隊)を備えている。このうち海南島特別根拠地隊は1941年(昭和16年)4月10日に海南島警備府へ昇格し、支那方面艦隊に編入された。 対米英露支四国作戦の場合、第二遣支艦隊を基幹とする部隊は「同方面の敵国艦船を撃滅」ならびに「陸軍と協同で香港を攻略」と定められた。1940年(昭和15年)9月5日、大本営海軍部は嶋田繁太郎支那方面艦隊司令長官に仏印進駐の実施を命じ、第二遣支艦隊(旗艦鳥海)が作戦部隊として日本陸軍輸送船団を護衛することになった。連合艦隊からの増援部隊(第八戦隊〈利根、筑摩〉、第一水雷戦隊、第二航空戦隊)を含めて第二遣支艦隊が作戦を実施することになり、作戦名を「IC作戦」、部隊を「IC作戦部隊」と呼称した。9月下旬には平和進駐か強行上陸かで日本陸海軍の意見が対立し、第二遣支艦隊の指揮下にあった第三水雷戦隊が日本陸軍(印度支那派遣軍)輸送船団の護衛と協力を中断する事態が起きた。9月28日、IC作戦は終了してIC作戦部隊は解散した。本件により、統率を乱した富永恭次大本営参謀(参謀本部第一部長)や安藤利吉南支那方面軍司令官などが更迭されている。 1941年(昭和16年)1月になるとタイ王国とヴィシー政権下のフランス植民地軍との間で国境紛争が激化した(タイ・フランス領インドシナ紛争)。大本営政府連絡懇談会は「秦ヲシテ英国ノ居中調停ヲ拒絶セシムルト共ニ、帝国ハ仏印ヲ圧迫シ紛争ノ即時解決ヲ図ル」「直チニ仏印ニ対シ所要ノ威圧行動ヲ開始ス」と決定した。顕示行動は「S作戦」と呼称され、第二遣支艦隊司令長官沢本頼雄中将が指揮する艦艇と航空機が展開した。参加部隊は、第二遣支艦隊(重巡洋艦足柄、海防艦占守、第五水雷戦隊、第14航空隊など)、第一艦隊(第一水雷戦隊、第七航空戦隊〈千歳、瑞穂〉)、第二艦隊(第七戦隊〈最上型4隻〉、第二航空戦隊〈蒼龍、飛龍、第23駆逐隊〉)、第十一航空艦隊(高雄航空隊など)であった。仏印・泰国境紛争の調停が成立後も第17駆逐隊(磯風、浦風)や陸上攻撃機小数がサイゴンに留まり、4月初旬まで南部仏印基地の調査、マレー半島や英領ボルネオ方面の情報収集をおこなった。 仏印進駐と並行して、第二遣支艦隊は日本陸軍と協力し、南支方面の封鎖任務に従事した。第二遣支艦隊からは、第五水雷戦隊、海防艦占守、水雷艇や掃海艇が作戦に参加した。新編されたばかりの第三艦隊(司令長官高橋伊望中将)も6月初旬から9月上旬まで支那方面艦隊司令長官の指揮下に入り、海峡部隊の名称で南支那沿岸方面の作戦に従事した。 同年6月22日に独ソ戦がはじまると、日本では南進論が主流となった。日本陸軍は第二十五軍が 、日本海軍は第二遣支艦隊が、南部仏印進駐部隊となった。陸海軍とも「ふ」号作戦と呼称し、新見政一第二遣支艦隊司令長官が「ふ」号作戦部隊を指揮することになった。ふ号作戦部隊は、第二遣支艦隊(第十五戦隊〈足柄、八丈〉、占守、鵯、第34駆逐隊、第14航空隊など)、第二艦隊(第七戦隊)、第三艦隊(第五水雷戦隊、第十二航空戦隊、第二根拠地隊)、第一航空艦隊(第二航空戦隊)、第十一航空艦隊(第二十三航空戦隊)を中核としていた。第一航空部隊(基地航空部隊)が中部・南部仏印各地の偵察や航空兵力撃滅、第二航空部隊(母艦航空部隊)が船団の直接航空支援と南部仏印の航空戦を、第三航空部隊(水上機部隊)が船団の直接護衛と泊地警戒および陸戦協力を行い、水上部隊は重巡5隻(足柄、熊野、鈴谷、三隈、最上)が全作戦支援を、第五水雷戦隊と第二根拠地隊が船団の直接護衛と泊地の掃討を実施する計画だった。 7月23日、大本営海軍部は嶋田繁太郎支那方面艦隊司令長官に対し「第二遣支艦隊司令長官ノ指揮スル所定ノ部隊ヲシテ七月二十四日以後三亜出港 陸軍ト協同シテ南部仏印ニ進駐セシムヘシ」(大海令第287号)と発令した。陸軍輸送船39隻(第二十五軍司令官飯田祥二郎中将)と海軍艦艇約50隻、計90隻の進駐部隊は7月25日に海南島を出撃し、28日にナトラン、29日にサンジャック、30日にサイゴンへ上陸した。南部仏印進駐前から第二遣支艦隊が南部仏印まで担当するのは不適当とされており、7月31日に大本営直属部隊として南遣艦隊が新編された。ふ号作戦部隊は解散し、第二遣支艦隊は仏印の担当を南遣艦隊に引き継いだ。10月1日、第二遣支艦隊の主力であった重巡洋艦足柄は、第三艦隊(司令長官高橋伊望中将、比島部隊指揮官)旗艦となるため引き抜かれた。第二遣支艦隊旗艦は軽巡洋艦五十鈴になった。 日本軍は太平洋戦争開戦と共に香港攻略を目指しており、香港攻略部隊は第二遣支艦隊と応援部隊で編成されていた。香港占領後の1941年(昭和16年)12月26日、広東方面特別根拠地隊は香港方面特別根拠地隊に改称し、司令部は香港に進出した。1942年(昭和17年)1月15日、厦門方面特別根拠地隊は縮小されて厦門警備府となった。第二遣支艦隊の主力だった第十五戦隊(五十鈴、嵯峨、橋立、鵲、鵯)は4月15日附で解隊され、五十鈴は第二南遣艦隊隷下の第十六戦隊へ転じた。残された小型艦艇で海上護衛作戦や船団護衛任務に協力した(沖輸送など)。ほとんどの水上艦を敗戦までに失ったが、陸上部隊は香港・厦門を中心に各地で敢闘し、降伏調印まで艦隊を維持した。
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