第二遣支艦隊とは? わかりやすく解説

第二遣支艦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/08 18:32 UTC 版)

遣支艦隊」の記事における「第二遣支艦隊」の解説

1938年昭和13年2月1日新編された第五艦隊は、同日附で支那方面艦隊編入された。1939年昭和14年11月15日改編で、従来第五艦隊は第二遣支艦隊に改称した引き続き広州拠点華南方面行動した南シナ海面する海域担当するため第十戦隊鳥海、第5駆逐隊、第21駆逐隊)が配備されており、1個水雷戦隊匹敵する水上兵力擁する。ただし、太平洋戦争備えて重巡洋艦軽巡五十鈴へ、駆逐隊砲艦水雷艇掃海艇差し替えられている。一方陸上戦力は3個特別根拠地隊海南島根拠地隊広東方面特別根拠地隊厦門方面特別根拠地隊)を備えている。このうち海南島特別根拠地隊1941年昭和16年4月10日海南島警備府昇格し支那方面艦隊編入された。 対米英露支四国作戦場合、第二遣支艦隊を基幹とする部隊は「同方面敵国艦船撃滅ならびに陸軍協同香港攻略」と定められた。1940年昭和15年9月5日大本営海軍部は嶋田繁太郎支那方面艦隊司令長官仏印進駐実施命じ、第二遣支艦隊(旗艦鳥海)が作戦部隊として日本陸軍輸送船団護衛することになった連合艦隊からの増援部隊第八戦隊利根筑摩〉、第一水雷戦隊第二航空戦隊)を含めて第二遣支艦隊が作戦実施することになり、作戦名を「IC作戦」、部隊を「IC作戦部隊」と呼称した。9月下旬には平和進駐強行上陸かで日本陸海軍意見対立し、第二遣支艦隊の指揮にあった第三水雷戦隊日本陸軍印度支那派遣軍輸送船団護衛協力中断する事態起きた9月28日IC作戦終了してIC作戦部隊は解散した本件により、統率乱した富永恭次大本営参謀参謀本部第一部長)や安藤利吉南支那方面軍司令官などが更迭されている。 1941年昭和16年1月になるとタイ王国ヴィシー政権下フランス植民地軍との間で国境紛争激化したタイ・フランス領インドシナ紛争)。大本営政府連絡懇談会は「秦ヲシテ英国居中調停拒絶セシムルト共ニ、帝国仏印圧迫紛争即時解決ヲ図ル」「直チニ仏印ニ対シ所要威圧行動開始ス」と決定した顕示行動は「S作戦」と呼称され、第二遣支艦隊司令長官沢本頼雄中将指揮する艦艇航空機展開した参加部隊は、第二遣支艦隊(重巡洋艦足柄海防艦占守第五水雷戦隊、第14航空隊など)、第一艦隊第一水雷戦隊第七航空戦隊〈千歳瑞穂〉)、第二艦隊第七戦隊最上型4隻〉、第二航空戦隊蒼龍飛龍、第23駆逐隊〉)、第十一航空艦隊高雄航空隊など)であった仏印泰国紛争調停成立後も第17駆逐隊磯風浦風)や陸上攻撃機小数サイゴン留まり4月初旬まで南部仏印基地調査マレー半島英領ボルネオ方面情報収集おこなった仏印進駐並行して、第二遣支艦隊は日本陸軍協力し南支方面封鎖任務従事した。第二遣支艦隊からは、第五水雷戦隊海防艦占守水雷艇掃海艇作戦参加した新編されたばかり第三艦隊司令長官高橋伊望中将)も6月初旬から9月上旬まで支那方面艦隊司令長官指揮下に入り海峡部隊の名称で南支那沿岸方面作戦従事した同年6月22日独ソ戦がはじまると、日本では南進論主流となった日本陸軍第二十五軍が 、日本海軍は第二遣支艦隊が、南部仏印進駐部隊となった陸海軍とも「ふ」号作戦呼称し、新見政一第二遣支艦隊司令長官が「ふ」号作戦部隊を指揮することになったふ号作戦部隊は、第二遣支艦隊(第十戦隊足柄八丈〉、占守、第34駆逐隊、第14航空隊など)、第二艦隊第七戦隊)、第三艦隊第五水雷戦隊第十航空戦隊、第二根拠地隊)、第一航空艦隊第二航空戦隊)、第十一航空艦隊第二十三航空戦隊)を中核としていた。第一航空部隊基地航空部隊)が中部・南部仏印各地偵察航空兵撃滅第二航空部隊母艦航空部隊)が船団直接航空支援南部仏印航空戦を、第三航空部隊水上機部隊)が船団直接護衛泊地警戒および陸戦協力行い水上部隊重巡5隻(足柄熊野鈴谷三隈最上)が全作戦支援を、第五水雷戦隊第二根拠地隊船団直接護衛泊地掃討実施する計画だった。 7月23日大本営海軍部は嶋田繁太郎支那方面艦隊司令長官対し「第二遣支艦隊司令長官指揮スル所定部隊ヲシテ七月二十四日以後三亜出港 陸軍協同シテ南部仏印進駐セシムヘシ」(大海令第287号)と発令した陸軍輸送船39隻(第二十五軍司令官飯田祥二郎中将)と海軍艦艇50隻、計90隻の進駐部隊7月25日海南島出撃し、28日ナトラン29日サンジャック30日サイゴン上陸した南部仏印進駐前から第二遣支艦隊が南部仏印まで担当するのは不適当とされており、7月31日大本営直属部隊として南遣艦隊新編された。ふ号作戦部隊解散し、第二遣支艦隊は仏印担当南遣艦隊引き継いだ10月1日、第二遣支艦隊の主力であった重巡洋艦足柄は、第三艦隊司令長官高橋伊望中将比島部隊指揮官旗艦となるため引き抜かれた。第二遣支艦隊旗艦軽巡洋艦五十鈴になった日本軍太平洋戦争開戦と共に香港攻略目指しており、香港攻略部隊は第二遣支艦隊と応援部隊編成されていた。香港占領後1941年昭和16年12月26日広東方面特別根拠地隊香港方面特別根拠地隊改称し司令部香港進出した1942年昭和17年1月15日厦門方面特別根拠地隊縮小され厦門警備府となった。第二遣支艦隊の主力だった第十戦隊五十鈴嵯峨橋立)は4月15日附で解隊され、五十鈴第二南遣艦隊隷下第十六戦隊転じた残され小型艦艇で海上護衛作戦船団護衛任務協力した(沖輸送など)。ほとんどの水上艦敗戦まで失ったが、陸上部隊香港厦門中心に各地敢闘し、降伏調印まで艦隊維持した

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