艇歴
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1935年(昭和10年)6月20日、雉と命名され、水雷艇に類別。同年10月24日に三井物産造船部玉工場で起工。1937年(昭和12年)1月26日進水。同年7月31日に竣工し、呉鎮守府籍、第11水雷隊に編入された。 支那事変(太平洋戦争勃発前の日中戦争)では、華北沿岸作戦、揚子江遡行作戦に従事。太平洋戦争開戦後、香港攻略作戦、比島攻略作戦、海上護衛作戦に参加。スラバヤで終戦を迎えた。 1946年(昭和21年)2月20日、除籍と同時に特別輸送艦に指定され復員輸送に従事。その後、特別保管艦(賠償艦)に指定され、1947年(昭和22年)10月3日ソ連に引き渡し。艦名をヴニマーチェリヌイに改名。1957年(昭和32年)に退役し、翌1958年(昭和33年)解体。
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「第二十七号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の27番艇、仮称艦名第2147号艦として計画。1945年5月5日、第二十七号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の12番艇に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。1945年6月18日、村上造船所で進水。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程90%で工事中止となり、戦後は船台上に引き揚げられ放置されていた。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から本艇の漁船への改造許可が出されたが、解体された。
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「第五十四号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の54番艇、仮称艦名第2174号艦として計画。1944年11月5日、第五十四号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の21番艇に定められ、本籍を舞鶴鎮守府と仮定。1945年5月24日、船体概成により株式会社小柳造船所から横須賀海軍工廠へ引き渡し。8月5日、竣工。竣工後の本籍設定と部隊への編入記録は無い。 終戦時は横須賀に所在。戦後横須賀で沈没。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。5月3日、第五十四号哨戒特務艇は海軍編制の廃止に伴い除籍された。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から日本に対し、本艇の解体が指令された。
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「第三十三号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の33番艇、仮称艦名第2153号艦として計画。1944年7月12日、株式会社船矢造船鉄工所で起工。1945年5月5日、第三十三号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の15番艇に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程90%で工事中止。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。2月1日現在、船体は函館市の船矢造船鉄工所にあり、大湊地方復員局の依頼により同社が船体を管理中。4月14日、船体の一時使用許可が出され、16日に北海道庁へ引渡し。8月25日、船体は函館市で北海道庁から第二復員局へ返却され、直ちに尾崎某へ引き渡され、8月31日八戸港へ回航された。その後は輸送船に改造予定で同地湊川で繋留。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本船の漁船への改造許可が出された。その後の消息は詳らかではない。
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「第三十二号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の32番艇、仮称艦名第2152号艦として計画。1944年11月5日、第三十二号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の13番艇に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。1945年6月5日、株式会社船矢造船鉄工所で進水。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程95%で工事中止。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。2月1日現在、船体は函館市の船矢造船鉄工所にあり、大湊地方復員局の依頼により同社が船体を管理中。2月8日、横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に定められ、艦名を哨特第三十二号に改称し、特別保管艦(特)に指定される。2月28日現在、船体は旧大湊掃海部突堤に繋留中。 4月15日、特別輸送艦の定めを解かれる。4月16日、船体は一時使用許可が出され青森県に引き渡された。6月20日、船体は青森県から北海道岩内漁業会の岩城某に引き渡され、6月22日に大湊から船矢造船鉄工所へ曳航された。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本船の漁船への改造許可が出された。12月1日現在、船体は船矢造船鉄工所に放置され改造未着手。その後の消息は詳らかではない。
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「第五十五号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の55番艇、仮称艦名第2175号艦として計画。1944年11月5日、第五十五号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の22番艇に定められ、本籍を舞鶴鎮守府と仮定。1945年3月29日、株式会社小柳造船所で起工。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程95%で工事中止。 1947年2月1日現在、下田に所在。同日行動不能艦艇(特)に定められる。2月19日現在、稲取に所在。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本艇の漁船への改造許可が出された。その後の消息は不明。
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「第六十五号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の65番艇、仮称艦名第2185号艦として計画。1944年11月5日、第六十五号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の26番艇に定められ、本籍を舞鶴鎮守府と仮定。1945年6月8日、株式会社佐賀造船鉄工所で進水。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程60%で工事中止。戦後は佐賀造船鉄工所に繋留。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本船の漁船への改造許可が出された。その後の消息は詳らかではない。
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「第三十四号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の34番艇、仮称艦名第2154号艦として計画。1944年10月26日、株式会社船矢造船鉄工所で起工。1945年5月5日、第三十四号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の16番艇に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程80%で工事中止。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。2月1日現在、船体は函館市の船矢造船鉄工所にあり、大湊地方復員局の依頼により同社が船体を管理中。4月14日、船体の一時使用許可が出され、16日に北海道庁へ引渡し。10月7日、中内某へ引き渡された。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本船の漁船への改造許可が出された。その後の消息は詳らかではない。
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「第六十四号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の64番艇、仮称艦名第2184号艦として計画。1944年11月5日、第六十四号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の25番艇に定められ、本籍を舞鶴鎮守府と仮定。1945年4月2日、株式会社佐賀造船鉄工所で進水。 5月25日、船体概成により佐賀造船鉄工所から舞鶴海軍工廠へ引き渡し。29日、艤装員事務所を舞鶴海軍工廠内に設置し事務開始。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され工程99%で工事中止。戦後は舞鶴港内に繋留され、部品取りとして使用される。 1947年1月27日、舞鶴地方復員局所管の特別輸送艦に定められ、艦名を哨特第六十四号と改称し、特別保管艦(特)に指定される。2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。4月15日、特別輸送艦の定めを解かれた。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本船の漁船への改造許可が出された。その後の消息は詳らかではない。
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艇歴
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1930年オランダのフィジェノルド造船所で竣工 1942年3月8日ジャワ島チラチャップ港で、閉塞船として自沈3月浮揚、スラバヤの第百二海軍工作部が修理 1943年9月1日 第百四哨戒艇と命名、哨戒艇に類別、本籍を佐世保鎮守府と定められる。第二南遣艦隊附属に編入。 1944年1月31日工事完了、第二南遣艦隊第二十一特別根拠地隊に編入、軍隊区分直卒部隊に配置。その後船団護衛任務に従事 1945年4月30日 大阪警備府附属に編入、軍隊区分阪警海面防御部隊に配置。終戦時残存 8月24日下関海峡で触雷により沈没 9月15日除籍 第百四号哨戒艇長 小松孝 大尉/少佐:1943年9月1日 - 1945年3月20日 丸山春喜 大尉/少佐:1945年3月20日 - 1945年9月15日
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艇歴
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マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の4番艇、仮称艦名第2124号艦として計画。1944年11月5日、第四号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の4番艇に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。1945年4月30日、株式会社山西造船鉄工所で進水。8月1日、船体が完成したが同地にて繋留。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令される。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。同年3月には漁船熊野丸として改造を終えた。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本船の漁船への改造許可が出された。1948年2月18日、船体が日本側に移管され、漁船となった。
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艇歴
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1935年(昭和10年)11月22日、雁と命名され、水雷艇に類別。1936年(昭和11年)5月11日に三菱重工業横濱船渠で起工。1937年(昭和12年)1月20日進水。同年9月20日に竣工し、呉鎮守府籍、第11水雷隊に編入された。 日中戦争では、華北沿岸作戦、揚子江遡行作戦に従事。1938年(昭和13年)6月30日、馬当下流茅林州(茅林洲上流)で触雷し損傷を受けた。太平洋戦争開戦後、香港攻略作戦、海上護衛作戦に参加。1943年2月10日、ラングーンで爆撃を受けて至近弾により損傷し、7名が死亡、20数名が負傷した。1945年(昭和20年)7月16日、アンボン輸送作戦中、ジャワ海マタシリ海南方で米潜水艦「バヤ」の雷撃により沈没。同年9月30日に除籍。
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艇歴
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「第百七十三号駆潜特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2001号艦型の23番艇、仮称艦名第2023号艦として計画。第八十四回帝国議会では、100トン型哨戒特務艇として成立。1944年4月5日、第百七十三号駆潜特務艇と命名され、本籍を佐世保鎮守府と仮定し、第一号型駆潜特務艇の112番艇に定められる。5月3日、船体概成により福岡造船鉄工株式会社から佐世保海軍工廠へ引き渡し。5月30日竣工し、本籍を佐世保鎮守府と定められ、佐世保防備隊附属に編入。 1945年2月1日、海軍徴傭船美保丸を黒母瀬-玄海島間で直接護衛。4日佐世保に帰投。8日、佐世保を出撃。9日、大立と第244号駆潜特務艇の前路掃蕩を魚貫埼-天狗鼻間で実施。10日、陸軍徴傭船昭幸丸と隆和丸を阿久根沖-伊王島間で直接護衛。14日、佐世保に帰投。17日、佐世保を出撃しタカ604船団のうち4隻を高島-筑前大島間で直接護衛。18日、辰和丸と瀧宮丸の小呂島-筑前大島間の前路掃蕩に従事。21日、喜多丸と萩川丸の黒母瀬-生月瀬戸間の前路掃蕩に従事。22日、佐世保に帰投。25日、佐世保を出撃。26日、信洋丸を牡蠣瀬埼-伊王島沖間で直接護衛。27日、海軍徴傭船三香丸を伊王島沖-山川沖間で直接護衛。28日、山路丸を牡蠣瀬埼-相之島間で直接護衛。2月28日現在、軍隊区分護衛部隊に配置。 3月1日、阿波川丸を牡蠣瀬埼-相之島間で直接護衛。4日まで哨戒に従事し佐世保に帰投。12日、護衛のため佐世保を出撃。15日、軍隊区分九州方面護衛部隊護衛本隊に配置。16日、天洋丸を伊王島-山川沖間で直接護衛。17日から20日まで哨戒に従事し佐世保に帰投。25日、哨戒のため佐世保を出撃。28日、圓燕丸が被雷したため筑前大島長瀬鼻沖北緯33度57分 東経130度27分 / 北緯33.950度 東経130.450度 / 33.950; 130.450の地点で4月1日まで対潜掃蕩を実施。 4月1日から2日まで、小呂島よりの方位118度4カイリの地点で対潜掃蕩を実施し佐世保へ帰投。4日、軍隊区分九州方面護衛部隊山川部隊に編入。6日、山川に到着し哨戒にあたる。8日、アメリカ艦上機による攻撃で損傷した特設掃海艇姫島丸の救難に従事。11日から15日まで護衛に従事。22日から26日まで、種子島への陸軍部隊輸送の護衛に2回従事。29日、鹿児島湾口で対潜掃蕩に従事。 5月18日、第五特攻戦隊作戦指揮下に編入。22日、新井埼による機雷敷設を警戒。25日、軍隊区分護衛部隊西九州護衛部隊に配置。26日、新井埼による第二次有明湾機雷敷設を警戒。27日、西之表への輸送に従事。30日、新井埼の警戒に従事。31日、西之表への輸送に従事。 6月24日から27日まで、泊浦周辺海域での魚雷艇や震洋艇の行動に関する掃蕩哨戒に従事。終戦時残存し、戦後は掃海に従事。11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍された。 1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、佐世保地方復員局所管の掃海艦に定められ、同局掃海部佐世保支部所属と定められる。20日、艦名を駆潜特第百七十三号に改称。 1946年6月15日、復員庁の開庁に伴い、所属を佐世保掃海部に改められる。7月20日、所属を呉地方復員局大竹掃海部に改められる。 1947年8月1日、大竹掃海部が廃止。同日付で佐世保地方復員局所管の特別輸送艦に改められ、特別保管艦に指定。佐世保特別保管艦艇第十二保管群に配される。 1948年1月1日、復員庁が廃止され、運輸省に移管。1949年8月1日、海上保安庁に編入され巡視船しらたか PB-40となる。1950年7月1日、船番号をPS-40に改正。1954年5月1日、船番号をPS-144に改正。1959年2月28日、海上保安庁を解役された。
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艇歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/24 09:10 UTC 版)
1913年10月30日、ガンツ=ダヌビウスのポルト・レ造船所で起工、1914年8月11日進水、1916年8月30日に竣工した。就役したものの、公試において速力が予定に達せず、新たなスクリューが装備されることになった。第一次世界大戦では、対潜哨戒、機雷敷設、救難、船団護衛に用いられている。 第一次世界大戦後、同級2艇と共にルーマニアに引き渡され、第二次世界大戦でも運用された。 1941年7月9日、マンガリア(英語版)近海でヴォスパー70フィート型高速魚雷艇ヴィスコルル、ヴィジェリャと共にソビエト連邦のSC型潜水艦Shch-206と交戦した。1941年10月、ブルガリア沿岸に機雷原構築作戦に従事した。 1942年9月28日、クリミア半島南岸付近でM型潜水艦M-120により攻撃されたが、これは失敗している。 1943年7月26日から9月17日にかけて、コンスタンツァ - オデッサ間の航路で12回の護衛任務に当たった。8度目の護衛任務中の8月27日、雷撃機7機に攻撃されたが無事に切り抜けている。 1944年8月20日、コンスタンツァ港にて空襲により沈没した。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/15 14:14 UTC 版)
1934年(昭和9年)11月24日、隼と命名され、水雷艇に類別。同年12月19日に三菱重工業横浜船渠で起工。1935年(昭和10年)10月28日進水。1936年(昭和11年)12月7日に竣工し、横須賀鎮守府籍、第1水雷隊に編入された。 日中戦争では、上海海軍特別陸戦隊支援、揚子江遡行作戦に従事。太平洋戦争開戦後、香港攻略作戦、比島攻略作戦、海上護衛作戦に参加。1944年(昭和19年)9月24日、船団の護衛任務中にシブヤン海バンタン島北西で米空母艦載機の爆撃により沈没。同年12月10日に除籍。
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艇歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/17 06:33 UTC 版)
マル急計画の駆潜艇小(木造100トン型)、第500号艦型の2番艇、仮称艦名第501号艦として計画。 1941年12月24日、株式会社山西造船鉄工所で起工。1942年7月25日、第二号駆潜特務艇と命名されて第一号型駆潜特務艇の2番艇に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。8月5日、進水。1943年1月31日、船体概成により山西造船鉄工所から横須賀海軍工廠へ引き渡し。3月15日竣工し、本籍を横須賀鎮守府に、所属を横須賀防備戦隊横須賀防備隊にそれぞれ定められる。27日、軍隊区分横須賀鎮守府海面防備部隊東京湾部隊第二哨戒隊に配置。 4月5日、軍隊区分横須賀鎮守府海面防備部隊南三陸部隊に配置。同日、長浦を出港し女川へ向かう。女川到着後は女川、金華山沖での船団護衛、対潜掃蕩、哨戒等に従事。 5月1日、軍隊区分横須賀鎮守府海面防備部隊第二駆潜艇隊に配置され、第8号駆潜特務艇と同隊第二小隊を編成。同日女川を出港し、対潜掃蕩と船団護衛を行いつつ長浦へ向かう。以後第8号駆潜特務艇とは、同艇の沈没まで多くの行動をともにすることになる。7日から17日まで、横須賀海軍工廠第三船渠に入渠。出渠後は駿河湾の哨区で行動。 6月1日、横須賀防備隊から削除され、第一南遣艦隊第十特別根拠地隊に編入。同月内地を出発してシンガポールへ向かう。7月31日現在、軍隊区分昭南根拠地部隊に配置。8月シンガポール着。シンガポール到着後はシンガポールとペナンを主な出撃地として東はミリ、西はメルギー諸島に至る範囲で船団護衛、対潜掃蕩、哨戒等に従事。 11月4日から18日まで彼南警備部隊作戦指揮下に編入され、クアラルンプール-メダン付近で対潜掃蕩に従事。 1944年2月2日から28日まで、ペナンで機械の修理を行う。6月20日、第十五根拠地隊作戦指揮下に編入。 10月1日現在、特務艇長職務執行者は第十特別根拠地隊司令部附 佐藤直治海軍中尉。10月5日、敷設作業のためペナンを出撃。10月6日、ペナン西方北緯4度20分 東経98度24分 / 北緯4.333度 東経98.400度 / 4.333; 98.400の地点で、浮上したイギリス潜水艦タリー=ホー HMS Tally-Ho P317と交戦し、被弾して搭載爆雷の誘爆により沈没した。本艇の救援のため第9号駆潜艇と第55号駆潜特務艇が派遣された。第2号駆潜特務艇は戦死行方不明あわせて26名を出し、第55号駆潜特務艇が佐藤中尉以下の生存者12名と戦死者1名を収容した。 1947年5月3日、第2号駆潜特務艇は海軍編制の廃止に伴い除籍された。
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艇歴
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改マル5計画の駆潜艇、第5341号艦型の1番艇、仮称艦名第5341号艦として計画。1943年8月9日、新潟鐵工所新潟工場で起工。10月20日、第六十号駆潜艇と命名されて第十四号型駆潜艇の42番艇に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。 1944年1月10日、進水。2月24日、艤装員事務所が新潟鐵工所新潟工場内で事務を開始。3月15日、仮定本籍を佐世保鎮守府に改められる。3月28日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に、役務を佐世保鎮守府警備駆潜艇にそれぞれ定められる。同日付で呉防備戦隊に編入され、基礎術力練成教育に従事。 5月6日、第四南遣艦隊第二十六特別根拠地隊に編入。5月15日、軍隊区分第六警備部隊主隊に配置。29日、ヒ65船団(12隻)に同行し門司発。6月3日、同船団から離れてマニラへ向かい、7日マニラ着。14日、C134船団(陸軍船1隻、海軍船2隻)を護衛してセブ島へ向けマニラ発。18日、セブ島着。19日、P196船団(海軍船1隻)を第3号駆潜艇とともに護衛してダバオへ向けセブ島発。道中で特設駆潜艇白山丸が合流し、22日ダバオ着。 7月3日、掃五船団を第5号掃海艇と護衛してハルマヘラ島カウ湾へ向けダバオ発。6日、他の船団を護衛してカウ湾に向かっていた帆風が北緯03度25分 東経125度30分 / 北緯3.417度 東経125.500度 / 3.417; 125.500の地点で被雷沈没したため、掃五船団をタフナ港へ退避させ、本艇は帆風に同行していた第22号掃海艇らと対潜制圧を行う。8日、カウ湾着。11日、5隻を第5号掃海艇、第22号掃海艇と護衛してスラウェシ島ビートンへ向けカウ湾発。14日、ビートン着。16日、H31船団を4隻で護衛してブル島ナムレアへ向けビートン発。道中で第116号駆潜特務艇と特設駆潜艇第十七昭南丸が護衛に加わり、19日ナムレア着。20日、引き続きH31船団を4隻で護衛しアンボンへ向かう。24日、若鷹船団を4隻で護衛しビートンへ向けアンボン発。28日、ビートン着。本艇はアンボンへ引き返し、29日に第5号掃海艇とともにカウ湾へ向けアンボン発。以後、同方面で船団護衛に従事。 10月、第三南遣艦隊第三十一特別根拠地隊に編入。12月14日、船団護衛中にスービック湾南西で空襲を受け損傷。 1945年2月26日、第一護衛艦隊作戦指揮下に編入。 3月5日、泗礁山で在泊中に第三十一特別根拠地隊から除かれ第一護衛艦隊に編入。同日、ヒ88F船団の後を追う形で泗礁山を出発し、9日門司着。14日、モタ42船団(2隻)を護衛し門司発。途中、大長途山と大北列島を経由し、27日基隆着。基隆へ向け航行中の22日、鎮海警備府作戦指揮下に編入。30日、復航のタモ52船団(2隻)を護衛し基隆発。内地に帰還後は北九州、対馬海峡、黄海東部で船団護衛、対潜掃蕩、哨戒に従事。 終戦時は佐世保に所在。10月5日、復員輸送に使用するため除籍され、帝国艦船特別輸送艦と呼称。佐世保-南鮮-博多間の輸送を皮切りに復員輸送に従事。 1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、佐世保地方復員局所管の特別輸送艦に定められる。12月20日、艦名を駆潜第六十号に改称。 1946年7月27日、特別保管艦に指定されたが特定の保管群には配置されずに、同じく保管群に配置されなかった蓮とともに佐世保で繋留された。10月1日、特別輸送艦の定めを解かれた。 1947年2月1日、行動不能艦艇に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から日本政府に対し、本艇の使用許可が出された。 1948年3月25日、山嶺鉄工所に引き渡され、解体された。
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マル3計画の300トン型駆潜艇、仮称艦名第62号艦として計画。1937年10月30日、鶴見製鉄造船株式会社鶴見工場で起工。1938年4月15日、第七号駆潜艇と命名され、特務艇・駆潜艇第一号型の4番艇に定められる。6月10日、進水。11月20日、竣工。大湊防備隊附属。 1940年11月15日、艦艇類別等級に駆潜艇が新設され、特務艇の駆潜艇から艦艇の駆潜艇となる。同日、第七号駆潜艇、第八号駆潜艇、第九号駆潜艇の3隻で第十一駆潜隊を新編し、第二艦隊第十一根拠地隊に編入。1941年4月10日、第十一駆潜隊は第三艦隊第一根拠地隊に編入。以後1941年9月まで断続的に中国大陸沿岸で監視哨戒にあたる。10月31日、第十一駆潜隊は南遣艦隊第九根拠地隊に編入。 太平洋戦争の緒戦ではボルネオ、ミリ、クチンの攻略作戦に従事。続けてマレー半島上陸船団を護衛。1942年3月以後はペナンを根拠地としてシンガポール、サバン方面の護衛に従事。4月10日、第十一駆潜隊は第一南遣艦隊第九根拠地隊に編入。以後、第一南遣艦隊隷下の根拠地隊や特別根拠地隊間での異動を繰り返しつつ任務に従事。 1945年4月11日、カー・ニコバル沖でイギリス軍機の空襲を受け沈没。5月25日、帝国駆潜艇籍から除かれ、第十一駆潜隊および艦艇類別等級別表から削除された。
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マル3計画の300トン型駆潜艇、仮称艦名第69号艦として計画。1938年5月10日、三菱重工業株式会社横浜船渠で建造番号304番船として起工。9月20日、第九号駆潜艇と命名され、特務艇/駆潜艇/第一号型の9番艇に定められる。10月15日、進水。1939年5月9日竣工し、大湊防備隊附属に編入。 1940年11月15日、艦艇類別等級と特務艇類別等級の改正により、特務艇の駆潜艇から艦艇の駆潜艇となり、本籍を呉鎮守府に定められる。同日、第7号駆潜艇、第8号駆潜艇、本艇の3隻で第十一駆潜隊を新編し、第二艦隊第十一根拠地隊に編入。 1941年4月10日、第十一駆潜隊は第三艦隊第一根拠地隊に編入。以後1941年9月まで断続的に中国大陸沿岸で監視哨戒にあたる。10月31日、第十一駆潜隊は南遣艦隊第九根拠地隊に編入され、軍隊区分根拠地部隊に配される。11月中旬、海南島三亜に集結。太平洋戦争の緒戦ではマレー半島上陸船団を護衛し、コタバル、シンゴラ、パタニで行動。12月16日から21日まで、軍隊区分馬来部隊護衛隊に編入されマレー半島南部の上陸作戦と護衛に従事。 1942年1月11日、軍隊区分馬来部隊第一護衛隊に編入され、プロコンドルに回航。23日までエンドウ上陸部隊の護衛に従事。26日から29日までアナンバス諸島の攻略に従事。3月5日、軍隊区分馬来部隊第二護衛隊に編入され、スマトラ島ラブハンルク、イディの各上陸作戦に従事。以後、蘭印作戦、マラッカ海峡の啓開、アンダマン諸島の攻略などに従事。 5月19日、朝日を護衛しシンガポールを出発。26日、朝日が撃沈され溺者救助にあたる。7月18日、第十一特別根拠地隊に編入され、以後は第一南遣艦隊隷下の根拠地隊や特別根拠地隊間での異動を繰り返しつつ南西方面での護衛と哨戒に従事。 1945年1月7日、特設運送船利水丸を第7号駆潜艇とともに護衛しカーニコバル発。ペナンへ向け航行中の11日0406時、ペナン南東で潜航中の潜水艦を発見し爆雷を投下した。やがて現場付近には油が浮き、それは幅100m、長さ約7kmにわたった。これはイギリス潜水艦ポーパスのものと考えられている。当時は第十五根拠地隊がマラッカ海峡での対潜掃蕩作戦(M五作戦)を実行中で、同日0957時には第三三一海軍航空隊の天山がペナン西方100カイリの地点で浮上中の潜水艦を爆撃し、潜水艦は潜航したが多量の重油が海面に浮かんだことを確認した。この爆撃を受けた潜水艦と第9号駆潜艇が爆雷攻撃をした潜水艦とが同一艦かどうかは判明していない。なおポーパスは、1月16日に喪失認定された。 3月5日、ヒ88I船団(7隻)を第33号駆潜艇、立石と護衛しシンガポール発。15日サンジャック着。19日サンジャックを出港したが、21日までに潜水艦と空襲により全ての油槽船を撃沈され、本艇も損傷し柳田駆潜艇長が戦死した。残された護衛艦艇はナトランに退避した。27日にヒ88J船団と合流し28日出発したが、29日までに船団は全滅し、護衛艦艇は三亜に退避。31日、香港に回航。4月4日から5日までホモ03船団を護衛。7月、内海西部に到着し、終戦時は呉に所在。 開戦後、第十一駆潜隊には第34号駆潜艇と第35号駆潜艇が編入され最盛期には5隻で編制されていたが、本艇以外の4隻は1945年2月から4月までの間に撃沈され、終戦時点で残存していたのは本艇だけで、駆潜隊司令も第8号駆潜艇の戦没時に戦死し欠員の状態だった。 12月20日、第九号駆潜艇は第十一駆潜隊から削除され、帝国駆潜艇籍から除かれた。同日付で呉地方復員局所管の特別輸送艦に定められ、艦名を駆潜第九号とし、復員輸送に従事。 1946年7月27日、特別保管艦に指定され佐世保で繋留。 1947年3月25日、所管を佐世保地方復員局に改められる。10月3日、特別輸送艦の定めを解かれ、賠償艦として青島で中華民国に引き渡された。 中華民国に引き渡し時は接31号と仮称されたが、後に海大と命名され、日本海軍の武装を施し第一海防艦隊に編入。1951年1月、左営で修理を行い艦名を富陵(PC-107)に改名。1954年には艦名を閩江に改名した。1960年に廃艦となり解体された。
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艇歴
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マル急計画の第440号艦型19番艇、仮称艦名第458号艦として計画。1943年6月5日、新潟鐵工所新潟工場で起工。8月31日、第五十八号駆潜艇と命名され、第十四号型駆潜艇の40番艇に定められ、本籍を呉鎮守府と仮定。10月30日進水。11月1日、艤装員事務所が新潟鐵工所新潟工場内で事務を開始。 1944年1月26日竣工し本籍を呉鎮守府に、役務を呉鎮守府警備駆潜艇にそれぞれ定められ、佐世保鎮守府佐世保防備戦隊に編入。31日、兵力部署第一護衛部隊に編入。2月11日、軍隊区分機雷部隊に編入され、第十八戦隊の護衛に従事。奄美大島方面で行動。27日、悪石島で対潜掃蕩に従事。 4月1日、北大東島で陸軍徴傭船南丸が被雷沈没したため、対潜掃蕩に向かう。現地到着後は第49号駆潜艇と共同で3日まで対潜掃蕩に従事し、加計呂麻島瀬相港へ回航。10日、佐世保防備戦隊が解隊され、佐世保鎮守府隷下に新編された第四海上護衛隊に編入。ただし本艇は6月19日まで第十八戦隊の護衛を継続。 6月10日、連合艦隊作戦指揮下に編入。軍隊区分機動部隊補給隊警戒部隊に配置。第十八戦隊の護衛終了後は基隆で補給を行いダバオへ回航。以後タウィタウィ島、タラカン島方面の船団護衛に従事。7月25日、Z258船団(6隻)を護衛しダバオ発。船団は1隻を失ったが27日、サンボアンガ着。28日、C294船団(4隻)を護衛しサンボアンガ発。31日、セブ着。 8月9日、マタ26船団(24隻)を護衛しマニラ発。17日、高雄着。8月20日、タモ23船団(14隻)を護衛し高雄発。26日、門司着。8月、佐世保鎮守府作戦指揮下に編入され修理と整備を行う。 10月10日、往航船団の護衛を終え那覇に在泊中、十・十空襲に遭遇し被爆損傷。佐世保、次いで鎮海へ回航し修理を行う。 1945年1月から佐世保-奄美大島間の護衛に従事。 3月5日、軍隊区分機雷部隊に編入。12日まで大島緊急物件輸送の第十八戦隊を護衛。21日、カナ101船団(陸軍徴傭船華頂山丸)を護衛して西桜島錨地発。22日久慈湾で仮泊。23日、那覇へ向け出発したが、同日アメリカ艦上機の空襲を受け華頂山丸が沈没し、本艇も損傷した。佐世保へ回航し、5月まで修理を行う。修理中の4月、第四海上護衛隊指揮下に復帰。 5月10日、第四海上護衛隊は第五特攻戦隊に改編。本艇は佐世保防備隊作戦指揮下に編入。21日、第三次大島輸送隊の第173号輸送艦を第37号駆潜艇と護衛し佐世保発。同日から空襲を受け、22日に奄美大島沖で輸送艦と護衛の駆潜艇は全て撃沈された。 8月10日、第五十八号駆潜艇は帝国駆潜艇籍から除かれ、第十四号型駆潜艇から削除された。
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艇歴
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改マル5計画の駆潜艇、第5341号艦型の2番艇、仮称艦名第5342号艦として計画。1943年10月30日、新潟鐵工所新潟工場で起工。12月22日、第六十一号駆潜艇と命名されて第十四号型駆潜艇の43番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。 1944年3月10日進水。4月18日、艤装員事務所が新潟鐵工所新潟工場内で事務を開始。5月8日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に、役務を佐世保鎮守府警備駆潜艇にそれぞれ定められる。同日付で呉防備戦隊に編入され、基礎術力練成教育に従事。 6月6日、高雄警備府に編入。6月7日、ヒ67船団(12隻)に同行して門司発。以後、高雄を基点として対潜掃蕩、哨戒、高雄を出発する船団の護衛に従事。 7月23日、マニラで再編成されたミ08船団(12隻)を高雄まで護衛。 9月1日現在、軍隊区分高雄方面防備部隊に配置。23日、軍隊区分呂宋海峡部隊哨戒部隊第一哨戒隊に配置。25日、対潜掃蕩のため高雄を出撃。29日、高雄に帰投。 10月1日、軍隊区分呂宋海峡部隊哨戒部隊第二哨戒隊に配置。同哨戒隊の指揮を第61号駆潜艇長が執る。同日、タマ29船団護衛のため高雄発。7日、タマ29船団の護衛を第6号海防艦と第16号海防艦に引継ぎ、本艇は対潜掃蕩を行いつつ高雄へ向け回航。8日、ラボック湾に在泊する元マタ28船団の3隻を高雄まで護衛するため、高雄回航を取りやめラボック湾へ向かう。15日、船団護衛を取りやめ第二遊撃部隊の前路掃蕩に従事。18日、一旦馬公に入港し、19日から再度前路掃蕩に従事。26日、高雄に帰投し、モマ05船団の遭難者を救助するため同日高雄発。30日、高雄に帰投。 11月5日、海軍徴傭船あとらす丸から載貨を移載する目的で海軍配当船昭永丸が派遣されることとなり、本艇は第83号駆潜特務艇とともに昭永丸を護衛してサブタン島へ向かう。7日、本艇は第74号駆潜特務艇と交替し、8日左営着。9日、青葉の前路掃蕩のため出撃。10日、台風のため馬公に避泊。16日、タモ29船団(5隻)を護衛し高雄発。24日、門司着。25日佐世保へ回航し、佐世保海軍工廠で修理と訓令による工事を行う。12月20日現在、佐世保に所在。 1945年1月9日、台湾海口泊地でアメリカ艦上機の攻撃を受け、被爆し沈没した。3月10日、第六十一号駆潜艇は第十四号型駆潜艇から削除され、佐世保鎮守府警備駆潜艇の役務を解かれて、帝国駆潜艇籍から除かれた。
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艇歴
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マル3計画の300トン型駆潜艇、仮称艦名第64号艦として計画。1938年1月19日、大阪鉄工所桜島工場で起工。5月28日、第四号駆潜艇と命名され、特務艇/駆潜艇/第一号型の4番艇に定められる。9月13日進水。12月28日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に定められ、佐世保防備隊附属に編入。 1940年11月15日、艦艇類別等級と特務艇類別等級の改正により、特務艇の駆潜艇から艦艇の駆潜艇となり、本籍を佐世保鎮守府に定められる。同日本艇、第5号駆潜艇、第6号駆潜艇の3隻で第二十一駆潜隊を新編し、司令駆潜艇に指定された。同日付で第二十一駆潜隊(以下、1942年5月1日まで第二十一駆潜隊の行動)は第二艦隊第一根拠地隊に編入。1941年3月まで内地で訓練に従事。 1941年1月15日、第二艦隊第二根拠地隊に編入。3月25日に訓練を終え中支沿岸に出撃し、交通遮断に従事。4月10日、第三艦隊第二根拠地隊に編入。6月10日、支那方面艦隊作戦指揮下に編入。7月15日から8月まで軍隊区分ふ号艦隊第一護衛隊に配され、ふ号作戦では船団護衛やカムラン湾の警戒に従事。ふ号作戦終了後、支那方面艦隊作戦指揮を解かれて第二根拠地隊指揮下に復帰。8月27日に佐世保へ帰還し訓練と警戒に従事。10月1日、第二十一駆潜隊に第16号駆潜艇、第17号駆潜艇、第18号駆潜艇の3隻が編入され6隻編制となった。10月24日、司令駆潜艇を第17号駆潜艇へ継承。11月26日、寺島水道を発し、30日馬公着。 太平洋戦争の開戦時は軍隊区分菲島部隊第二急襲隊に配され、第四水雷戦隊司令官の指揮下で行動。12月7日に馬公を出撃しビガン攻略に従事。12日、ビガン泊地の警戒任務を解かれ高雄へ回航。18日から24日までリンガエン攻略に従事し、続けてダバオの攻略に従事。 1942年1月24日からは厳島に座乗した第二根拠地隊司令官の直接指揮下でボルネオ島南東部の攻略に従事。3月10日、第二南遣艦隊第二十二特別根拠地隊に編入。5月1日、本艇は第5号駆潜艇、第6号駆潜艇とともに第二十一駆潜隊から除かれ、第二十二特別根拠地隊附属に編入された。以後、沈没するまで第二十二特別根拠地隊附属から転出せず、マニラからボルネオ島南東部にかけての船団護衛、哨戒等に従事した。 1944年4月18日、スラウェシ島ライカン湾で触礁し艇底を破損。6月13日までスラバヤの第百二海軍工作部で修理。11月8日、B02船団(特設運送船第二菱丸、同共榮丸)を第2号哨戒艇ら4隻とともに護衛しマニラ発。11日に第二菱丸がアメリカ潜水艦ハッドの攻撃により、16日には共榮丸が爆撃によりそれぞれ撃沈され船団は消滅した。 1945年8月13日、スラバヤ西水道で触雷し沈没した。 1947年5月3日、第四号駆潜艇は海軍編制の廃止に伴い除籍された。
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1934年(昭和9年)11月24日、鵲と命名され、水雷艇に類別。1935年(昭和10年)3月4日に大阪鉄工所桜島工場で起工。同10月28日進水。1937年(昭和12年)11月15日に竣工し、横須賀鎮守府籍、第一水雷隊に編入された。 日中戦争では、上海海軍特別陸戦隊支援、揚子江遡行作戦に従事。揚子江遡航作戦中の1938年6月24日、第一水雷隊が砲台と交戦した際に「鵲」は5㎝6発を被弾した。また、7月6日には触雷した。 太平洋戦争開戦後、香港攻略作戦、海上護衛作戦に参加。1943年(昭和18年)9月27日、輸送船の護衛任務中にカバエナ島(インドネシア語版)近海で米潜水艦「ブルーフィッシュ」の雷撃により沈没。同年12月1日に除籍。
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マル3計画の300トン型駆潜艇、仮称艦名第63号艦として計画。1938年1月10日、株式会社玉造船所で建造番号260番船として起工。5月28日、第八号駆潜艇と命名され、特務艇/駆潜艇/第一号型の7番艇に定められる。8月9日、進水。11月30日竣工し、本籍を横須賀鎮守府に定められ、横須賀防備隊附属に編入。 1940年11月15日、艦艇類別等級と特務艇類別等級の改正により、特務艇の駆潜艇から艦艇の駆潜艇となり、本籍を呉鎮守府に定められる。同日、第七号駆潜艇、第八号駆潜艇、第九号駆潜艇の3隻で第十一駆潜隊を新編し、第二艦隊第十一根拠地隊に編入。11月18日、司令駆潜艇を第七号駆潜艇から変更されたが、同日第七号駆潜艇に復帰。 1941年4月10日、第十一駆潜隊は第三艦隊第一根拠地隊に編入。5月14日、司令駆潜艇を第七号駆潜艇から第八号駆潜艇に変更。31日、司令駆潜艇を第七号駆潜艇に復帰。以後1941年9月まで断続的に中国大陸沿岸で監視哨戒にあたる。10月31日、第十一駆潜隊は南遣艦隊第九根拠地隊に編入。 太平洋戦争の緒戦ではマレー半島上陸船団の護衛とパレンバン攻略船団の護衛に従事。1942年3月以後はペナンを根拠地としてシンガポール、サバン方面の護衛に従事。4月10日、第十一駆潜隊は第一南遣艦隊第九根拠地隊に編入。以後、第一南遣艦隊隷下の根拠地隊や特別根拠地隊間での異動を繰り返しつつ任務に従事。 1945年3月4日、船団護衛中にマラッカ海峡北部でイギリス潜水艦トレンチャントとテラピンの攻撃を受け沈没した。 1947年5月3日、第八号駆潜艇は海軍編制の廃止に伴い除籍され、第十一駆潜隊も廃止された。
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「第九十三号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の93番艇、仮称艦名第2213号艦として計画。1944年11月5日、第九十三号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の38番艇に定められ、本籍を舞鶴鎮守府と仮定。1944年11月5日、市川造船所で起工。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程65%で工事中止。戦後は市川造船所の船台上で放置。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本艇の漁船への改造許可が出された。その後の消息は詳らかではない。
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「第百七十四号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の174番艇、仮称艦名第2294号艦として計画。1944年11月5日、第百七十四号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の64番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年3月8日、船体概成により徳島合同造船株式会社から呉海軍工廠へ引き渡し。5月10日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に定められ、連合艦隊第二十二戦隊第四監視艇隊に編入。 5月18日、第五特攻戦隊作戦指揮下に編入。軍隊区分第二特攻部隊に配置。5月中は種子島への輸送に2回従事。 6月8日、天草下島魚貫埼よりの方位300度7カイリの地点で、潜水艦の攻撃を受け被雷し沈没した。 ※以下の艇歴は書類上のもの。 6月15日、第七艦隊作戦指揮下に編入。軍隊区分対馬海峡方面部隊北九州防備部隊に配置。 7月1日、第四監視艇隊から削除され舞鶴鎮守府敦賀港湾警備隊に編入。 1947年5月3日、第百七十四号哨戒特務艇は海軍編制の廃止に伴い除籍された。
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「第三十一号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の31番艇、仮称艦名第2151号艦として計画。1944年11月5日、第三十一号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の12番艇に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。1945年4月29日、船体概成により株式会社船矢造船鉄工所から横須賀海軍工廠へ引き渡し。7月29日竣工し、本籍を呉鎮守府に定められ、大阪警備府神戸港湾警備隊に編入。 終戦時残存。戦後は阪神地区の掃海に従事。11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍。 1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、大阪地方復員局所管の掃海艦に定められ、同局掃海部大阪支部所属と定められる。また、同日から艦名を哨特第三十一号としている。 1946年6月15日、復員庁の開庁に伴い、所属を阪神掃海部に改められる。6月25日、阪神掃海部は神戸掃海部に改称。11月1日、神戸掃海部は阪神掃海部に改称。1947年8月1日、阪神掃海部が廃止され、所属を下関掃海部に改められる。 1948年1月1日、復員庁が廃止され、運輸省に移管。5月1日、海上保安庁に編入され掃海船MS-18となる。8月20日、船名を哨特第三一号 MS-18に定められる。1951年12月1日、船名をうきしま MS-18に改正。 1952年8月1日、保安庁警備隊に移管され、第二幕僚監部航路啓開部西部航路啓開隊呉航路啓開隊第3掃海隊に編入。1953年9月16日、横須賀地方総監部呉地方基地隊第3掃海隊に編入。 1954年7月1日、保安庁警備隊は海上自衛隊に改組。掃海艇となる。呉地方総監部呉地方隊呉基地警防隊第3掃海隊に編入。1956年3月30日、呉基地警防隊第4掃海隊に編入。1957年9月1日、艇番号をMSI-680に改正。1961年3月31日、支援船に編入され船名を掃海雑船17号 YAM-17に改正。1963年1月1日、船種呼称を掃海船に改正。同年3月31日、海上自衛隊から除籍された。
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「第百二十三号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の123番艇、仮称艦名第2243号艦として計画。1944年11月5日、第百二十三号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の47番艇に定められ、本籍を呉鎮守府と仮定。1945年5月14日、株式会社強力造船所で進水。 終戦時未成。8月17日船体工程95%で工事中止。戦後は強力造船所で繋留。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本船の漁船への改造許可が出された。その後の消息は詳らかではない。
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「第百六十六号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の166番艇、仮称艦名第2286号艦として計画。1945年5月5日、第百六十六号哨戒特務艇と命名され、本籍を佐世保鎮守府と仮定。6月7日、船体概成により林兼重工業株式会社から佐世保海軍工廠へ引き渡し。7月23日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に定められ、羅津方面特別根拠地隊に編入。7月25日、羅津方面特別根拠地隊は元山方面特別根拠地隊に改編。8月12日、浦崎南西で空襲を受け被爆し沈没した。 1947年5月3日、第百六十六号哨戒特務艇は海軍編制の廃止に伴い除籍された。
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「第九十一号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の91番艇、仮称艦名第2211号艦として計画。1944年11月5日、第九十一号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の36番艇に定められ、本籍を舞鶴鎮守府と仮定。1945年4月2日、市川造船所で進水。5月25日、損傷のため特設敷設艇高千穂丸に曳航されて鳥羽へ回航。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程95%で工事中止。戦後は市川造船所で繋留。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本艇の漁船への改造許可が出された。その後の消息は詳らかではない。
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「第百五十六号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の156番艇、仮称艦名第2276号艦として計画。1945年3月7日、有限会社福島造船鉄工所で起工。5月5日、第百五十六号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の63番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。7月2日、本艇の工事中止が発令された。同日付で第百五十六号哨戒特務艇は特務艇類別等級別表から削除され、本籍を佐世保鎮守府とした仮定を解かれた。 また、同日付で海防艇の諸艇が命名され、特務艇類別等級別表への登載と仮定本籍の設定が行われた。第一号型哨戒特務艇と海防艇との関係については、それぞれの記事を参照のこと。 なお、本艇は第一号型哨戒特務艇の中で、起工しながら戦時中に建造中止が発令された唯一の艇である。
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「第三十七号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の37番艇、仮称艦名第2157号艦として計画。1944年11月5日、第三十七号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の14番艇に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。1945年5月4日、船体概成により株式会社三保造船所から横須賀海軍工廠へ引き渡し。6月2日竣工し、本籍を呉鎮守府に定められ、大阪警備府神戸港湾警備隊に編入。 横須賀在泊中の7月18日、アメリカ艦上機の空襲を受け、被爆し沈没した。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。5月3日、第三十七号哨戒特務艇は海軍編制の廃止に伴い除籍された。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から日本に対し、本艇の解体が指令された。
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「第八十五号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の85番艇、仮称艦名第2205号艦として計画。1944年9月25日、株式会社米子造船所で起工。11月5日、第八十五号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の34番艇に定められ、本籍を舞鶴鎮守府と仮定。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程93%で工事中止。戦後、船体は船台上に放置されていたが築地へ回航され、次いで横須賀、さらに長浦へと回航される。 1947年1月11日、横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に定められ、艦名を哨特第八十五号と改称し、特別保管艦(特)に指定される。2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。4月15日、特別輸送艦の定めを解かれた。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本船の漁船への改造許可が出された。1948年、漁船松丸として完成した。
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艇歴
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1935年(昭和10年)11月22日、鷺と命名され、水雷艇に類別。1936年(昭和11年)5月20日に播磨造船所で起工。1937年(昭和12年)1月30日進水。同年7月31日に竣工し、呉鎮守府籍、第11水雷隊に編入された。 日中戦争では、揚子江遡行作戦、華北及び華南沿岸作戦に従事。1938年(昭和13年)9月8日(7日)、武穴下流で触雷し損傷を受けた。 1941年7月25日、軽巡洋艦2隻と水雷艇「鷺」、「鳩」で第五艦隊が編成された。 太平洋戦争開戦後、北方哨戒活動、海上護衛作戦に参加。1941年12月17日に小笠原方面の対潜作戦強化のため厚岸を出発し、12月26日に父島に進出した。1942年1月8日、横須賀に帰着。1月26日、厚岸に進出。2月1日、アメリカ軍がマーシャル諸島を空襲。それを受けて同日「鷺」や軽巡洋艦2隻などは厚岸を出撃し哨戒線についた。2月8日、「鷺」は横須賀に帰着。3月11日から13日は釧路へ帰投する第三哨戒隊の誘導を行い、3月24日から3月27日は駆逐艦「沖風」とともに対潜作戦に従事した。4月10日、「鷺」は第五艦隊から除かれ第一海上護衛隊に編入された。 1943年(昭和18年)8月31日、南シナ海で米潜水艦の雷撃を受け損傷。1944年(昭和19年)11月8日、高雄からマニラへ航行中、比島ボナリオ岬西南西で米潜水艦「ガンネル」の雷撃により沈没。1945年(昭和20年)1月10日に除籍。
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「第百三十七号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の137番艇、仮称艦名第2257号艦として計画。1944年11月5日、第百三十七号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の52番艇に定められ、本籍を呉鎮守府と仮定。1945年4月26日、船体概成により株式会社四国船渠工業所から呉海軍工廠へ引き渡し。7月15日竣工し、本籍を呉鎮守府に定められ、佐伯防備隊に編入。 終戦時は佐伯に所在。戦後は掃海に従事。11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍。 1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、呉地方復員局所管の掃海艦に定められ、同局掃海部佐伯支部所属と定められる。また、同日から艦名を哨特第百三十七号としている。 1946年4月18日、下関市吉見沖で掃海作業中、荒天に遭遇し同地で座礁して放棄された。6月1日、哨特第百三十七号は呉地方復員局掃海部佐伯支部から削除され、掃海艦の定めを解かれた。その後は部品取りとして使用された。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から日本に対し、本艇の解体が指令された。
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艇歴
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「第百九十三号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の193番艇、仮称艦名第2313号艦として計画。1944年11月5日、第百九十三号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の71番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。 1945年2月7日、福岡造船鉄工株式会社で起工。終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程65%で工事中止。9月18日、枕崎台風により沈没した。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から本艇の漁船への改造許可が出された。
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艇歴
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「第百四十号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の140番艇、仮称艦名第2260号艦として計画。1944年11月5日、第百四十号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の55番艇に定められ、本籍を呉鎮守府と仮定。1945年8月6日、株式会社四国船渠工業所で進水。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程65%で工事中止。戦後は四国造船所で繋留された。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から本艇の漁船への改造許可が出された。その後の消息は詳らかではない。
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艇歴
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「第百六十三号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の163番艇、仮称艦名第2283号艦として計画。1944年11月5日、第百六十三号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の60番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年1月31日、船体概成により林兼重工業株式会社から佐世保海軍工廠へ引き渡し。2月10日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に定められ、佐世保鎮守府佐世保防備隊に編入。軍隊区分護衛部隊に配置。18日、訓練のため第200号駆潜特務艇と佐世保を出港。20日から21日まで哨戒に従事。22日から訓練に戻り、24日第200号駆潜特務艇とともに佐世保に帰投。28日、哨戒のため佐世保を出撃。 3月1日、阿波川丸を黒母瀬-生月瀬戸間で直接護衛。2日、佐世保防備隊から除かれ、連合艦隊第二十二戦隊第四監視艇隊に編入。6日、佐世保に帰投。4月1日、第四監視艇隊は鹿児島への進出を開始し、4月10日以降は鹿児島で整備と訓練に従事。 5月18日、第五特攻戦隊作戦指揮下に編入。軍隊区分第二特攻部隊に配置。5月中は種子島への輸送に2回従事。 6月15日、第七艦隊作戦指揮下に編入。軍隊区分対馬海峡方面部隊北九州防備部隊に配置され、掃海と対潜掃蕩に従事。 7月1日、第四監視艇隊から削除され舞鶴鎮守府伏木港湾警備隊に編入。 終戦時残存。8月22日、七尾湾七尾波止場よりの方位312度300メートルの地点で触雷し擱座した。その後、近藤造船所で修理を行う。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。5月3日、第百六十三号哨戒特務艇は海軍編制の廃止に伴い除籍された。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本艇の漁船への改造許可が出された。
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「第百七十八号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の178番艇、仮称艦名第2298号艦として計画。1945年5月28日、徳島合同造船株式会社で起工。 終戦時未成。その後の消息は詳らかではない。
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「第百六十五号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の165番艇、仮称艦名第2285号艦として計画。1944年11月5日、第百六十五号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の62番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年4月20日、船体概成により林兼重工業株式会社から佐世保海軍工廠へ引き渡し。5月15日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に定められ、連合艦隊第二十二戦隊第二監視艇隊に編入。5月、6月ともに哨戒線への出撃はしていない。 7月1日、第二監視艇隊から削除され舞鶴鎮守府伏木港湾警備隊に編入。 終戦時は横須賀に所在。戦後、横須賀で沈没した。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められた。5月3日、海軍編制の廃止に伴い除籍された。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から日本に対し、本艇の解体が指令された。
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「第八十六号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の86番艇、仮称艦名第2206号艦として計画。1945年2月12日、株式会社米子造船所で起工。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程65%で工事中止。戦後は米子造船所の船台上に放置されていた。 1947年11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本艇の漁船への改造許可が出された。その後の消息は詳らかではない。
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「第百七十七号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の177番艇、仮称艦名第2297号艦として計画。1945年5月5日、第百七十七号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の71番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年5月26日、徳島合同造船株式会社で進水。 終戦時未成。その後の消息は詳らかではない。
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「第百五十五号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の155番艇、仮称艦名第2275号艦として計画。1944年11月5日、第百五十五号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の59番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年7月15日、有限会社福島造船鉄工所で進水。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程90%で工事中止。戦後は福島造船鉄工所で放置された。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本艇の漁船への改造許可が出された。その後の消息は詳らかではない。
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「第六十六号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の66番艇、仮称艦名第2186号艦として計画。1944年11月5日、第六十六号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の27番艇に定められ、本籍を舞鶴鎮守府と仮定。12月10日、株式会社佐賀造船鉄工所で起工。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程30%で工事中止。戦後は佐賀造船鉄工所で放置。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本船の漁船への改造許可が出された。その後の消息は詳らかではない。
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艇歴
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「千鳥 (千鳥型水雷艇)」の記事における「艇歴」の解説
1931年(昭和6年)に舞鶴工作部で起工。600トンというサイズに過大な武装が施されたため、公試排水量で計画より15%もオーバーし復原性能が不足していた。そのためバラスト40トンを搭載したがそれでも転舵の際に大傾斜を生じ、舷側にバルジを装着することで復原性能を改善して1933年(昭和8年)11月に竣工した。佐世保鎮守府籍に編入され予備水雷艇となる。1934年(昭和9年)1月、同型艇「真鶴」と第21水雷隊を編成。 1934年3月に3番艇「友鶴」が荒天のため転覆、殉職者72名を含む総数100名の犠牲者を出すという事故(友鶴事件)が起こった。当日の千鳥は友鶴とともに夜襲訓練に従事し、訓練打ち切りを受けて「龍田」「千鳥」「友鶴」の順に佐世保へ向かった。友鶴が続航していないことに気づいた千鳥は龍田に連絡するとともに捜索に着手したが、龍田より帰投を命じられ、捜索を断念し帰投した。 調査の結果、千鳥型を含む藤本喜久雄造船少将が設計していた艦は、復原性の不足が指摘され、すでに完成していた3隻を含めた完成艦は改善工事が行われ、4番艇「初雁」は建造中だったため性能改善を施して竣工している。 主な工事内容は以下の通り。 バルジの撤去 艦底にバラストキールを取り付けバラスト98トンを搭載する。 艦橋を1段低める。 12.7cm砲(砲塔形式)3門を12cm単装砲3門と交換。 魚雷発射管は4門から2門へ、魚雷搭載数は予備魚雷を含めて8本搭載が発射管のみの2本に減少。 これらの工事により復原性能は改善されたが兵装は大幅に減少し排水量は公試状態で772トンにまで増加、速力は28ノットまで低下した。 1935年(昭和10年)に第四艦隊事件が起き千鳥型も1936年(昭和11年)8月から11月にかけて改善工事が行われた。詳細は明らかでないが他艦ほど大きな問題にはならなかったようである。ただ速力は更に低下し27ノットほどだったと言われる。 1936年(昭和11年)12月に第21水雷隊を同型艇4隻で編成し中国方面へ進出、上陸支援や封鎖作戦などに従事した。太平洋戦争開戦後は緒戦は南方の攻略作戦を支援、その後は船団護衛などに従事した。 1943年1月14日、潮岬沖でアメリカ潜水艦「パイク」の潜望鏡を発見し、爆雷攻撃を行った。 大戦の終盤まで活躍したものの1944年(昭和19年)12月22日、御前崎沖で米潜「タイルフィッシュ」の雷撃で戦没した。
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「第百七十三号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の173番艇、仮称艦名第2293号艦として計画。1944年11月5日、第百七十三号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の63番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年1月29日、船体概成により徳島合同造船株式会社から呉海軍工廠へ引き渡し。3月26日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に定められ、連合艦隊第二十二戦隊第一監視艇隊に編入。 3月29日、若松港で触雷し沈没した。5月18日浮揚し、林兼重工業彦島造船所岸壁に繋留された。 7月1日、第百七十三号哨戒特務艇は第一監視艇隊から削除され、本籍を佐世保鎮守府とした定めを解かれた。その後の空襲により被爆して艇橋を喪失し、上部構造物を露出した状態で沈没した。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められた。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から日本に対し、本艇の解体が指令され、解体された。
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「第百八十一号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の181番艇、仮称艦名第2301号艦として計画。1944年11月5日、第百八十一号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の68番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年1月5日、株式会社自念造船鉄工所で起工。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程40%で工事中止。戦後は自念造船鉄工所で放置された。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。その後の消息は詳らかではない。
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「第九十二号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の92番艇、仮称艦名第2212号艦として計画。1944年11月5日、第九十二号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の37番艇に定められ、本籍を舞鶴鎮守府と仮定。1945年5月17日、市川造船所で進水。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程95%で工事中止。戦後は市川造船所で繋留。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本艇の漁船への改造許可が出された。その後の消息は詳らかではない。
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「第百八十号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の180番艇、仮称艦名第2300号艦として計画。1944年11月5日、第百八十号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の67番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年7月11日、株式会社自念造船鉄工所で進水。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程90%で工事中止。戦後は自念造船鉄工所で放置された。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から日本に対し、本艇の解体が指令された。
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「第二十六号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の26番艇、仮称艦名第2146号艦として計画。1944年11月5日、第二十六号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の11番艇に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。1945年5月31日、船体概成により村上造船所から横須賀海軍工廠へ引き渡し。8月2日竣工し、本籍を呉鎮守府に定められ、下関防備隊に編入。 終戦時は浦賀に所在。その後横須賀へ回航される。 1947年1月12日、横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に定められ、帝国特務艇籍から除籍。同日付で艦名を哨特第二十六号と改称し、特別保管艦(特)に指定される。2月1日、行動不能艦艇に定められる。4月9日、浦賀造船所第一船渠に入渠し現状調査を行う。4月15日、特別輸送艦の定めを解かれた。4月17日現在の船名は第二伸洋丸。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本船の漁船への改造許可が出された。 1948年2月26日、船体が日本側に移管され、漁船となった。
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「第百十一号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の111番艇、仮称艦名第2231号艦として計画。1944年11月5日、第百十一号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の44番艇に定められ、本籍を呉鎮守府と仮定。1945年6月12日、西井造船所で進水。船体完成後は西井造船所で繋留。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令される。戦後は西井造船所で繋留されていたが、艤装品の破損による浸水のため坐洲した。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から日本に対し、本艇の解体が指令された。
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マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の3番艇、仮称艦名第2123号艦として計画。1944年11月5日、第三号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の3番艇に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。1945年6月5日、船体概成により株式会社山西造船鉄工所から横須賀海軍工廠へ引き渡し。8月5日、竣工。竣工後の本籍設定と部隊への編入記録は無い。終戦時は浦賀に所在。その後長浦へ回航される。 1947年1月12日、横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に定められ、帝国特務艇籍から除籍。同日付で艦名を哨特第三号と改称し、特別保管艦(特)に指定される。2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。4月15日、特別輸送艦の定めを解かれた。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から、本艇の漁船への改造許可が出された。
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「第三十八号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の38番艇、仮称艦名第2158号艦として計画。1944年11月5日、第三十八号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の15番艇に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。11月28日、株式会社三保造船所で起工。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令され船体工程71%で工事中止。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。4月14日、船体の一時使用許可が出され中内某に引渡し。9月1日、三保造船所で魚運搬船として着工。10月26日、進水。11月22日、連合軍から日本に対し、本船の漁船への改造許可が出された。12月6日、公試運転。12月10日竣工し、北海道へ回航された。
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「第二十五号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の25番艇、仮称艦名第2145号艦として計画。1944年11月5日、第二十五号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の10番艇に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。1945年4月4日、船体概成により村上造船所から横須賀海軍工廠へ引き渡し。4月27日竣工し、本籍を横須賀鎮守府に定められ、第七艦隊下関防備隊に編入。軍隊区分対馬海峡方面部隊関門防備部隊に配置。 5月21日、門司へ向け横須賀発。22日、駿河湾口で空襲を受け被爆し小破。5月23日、本籍を呉鎮守府に改められる。 終戦時は下関に所在。9月18日、枕崎台風のため下関市吉見沖で沈没。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。5月3日、第二十五号哨戒特務艇は海軍編制の廃止に伴い除籍された。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から日本に対し、本艇の解体が指令された。
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「第百二十二号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の122番艇、仮称艦名第2242号艦として計画。1944年11月5日、第百二十二号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の46番艇に定められ、本籍を呉鎮守府と仮定。1945年4月13日、株式会社強力造船所で進水。5月26日、船体概成により強力造船所から横須賀海軍工廠へ引き渡し。 兵装艤装中の7月18日、横須賀空襲に遭遇して被爆し沈没した。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から日本に対し、本艇の解体が指令された。
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「真鶴 (千鳥型水雷艇)」の記事における「艇歴」の解説
1931年(昭和6年)12月22日に藤永田造船所で起工。1932年(昭和7年)8月1日、真鶴と命名され、水雷艇に類別。 1933年(昭和8年)7月11日進水。1934年(昭和9年)1月31日に竣工し、佐世保鎮守府籍に編入され同型艇「千鳥」と第21水雷隊を編成。 1934年3月に3番艇「友鶴」が荒天のため転覆、殉職者72名を含む総数100名の犠牲者を出すという事故(友鶴事件)が起こった。当日の真鶴は夜襲訓練に参加するため集合水域に指定された寺島水道に到達したが、機関の復水機が故障を起こし、現地での応急修理のために訓練に参加できず難を逃れた。調査の結果、千鳥型を含む藤本喜久雄造船少将が設計していた艦は、復原性の不足が指摘され、すでに完成していた3隻を含めた完成艦は改善工事が行われた(工事の内容は「千鳥」を参照)。 1935年(昭和10年)に第四艦隊事件が起き千鳥型も1936年(昭和11年)8月から11月にかけて改善工事が行われた。詳細は明らかでないが他艦ほど大きな問題にはならなかったようである。ただ速力は更に低下し27ノットほどだったと言われる。 1936年(昭和11年)12月に第21水雷隊を同型艇4隻で編成し中国方面へ進出、上陸支援や封鎖作戦などに従事した。太平洋戦争開戦後、緒戦は南方の攻略作戦を支援、その後は船団護衛などに従事した。大戦の終盤まで活躍したものの1945年(昭和20年)3月1日、那覇で米空母艦載機の爆撃により沈没。同年5月10日に除籍。
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マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の110番艇、仮称艦名第2230号艦として計画。1944年11月5日、第百十号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の43番艇に定められ、本籍を呉鎮守府と仮定。1945年4月26日、西井造船所で進水。5月30日、船体概成により西井造船所から横須賀海軍工廠へ引き渡し。 兵装艤装中の7月18日、横須賀空襲に遭遇して被爆し沈没した。
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「第百七十六号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の176番艇、仮称艦名第2296号艦として計画。1945年5月5日、第百七十六号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の70番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年5月31日、船体概成により徳島合同造船株式会社から呉海軍工廠へ引き渡し。 終戦時は呉で兵装艤装中。8月17日、工事中止が発令された。本艇は後述するとおり第二復員省の掃海艦となったが、工事を再開した建造所と竣工年月日は、いずれも不明。 1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、佐世保地方復員局所管の掃海艦に定められ、同局掃海部佐世保支部所属と定められる。また、同日から艦名を哨特第百七十六号としている。 1946年4月18日、下関市吉見沖で掃海作業中、荒天に遭遇し擱坐した。同日、同じ場所で哨特第百三十七号も座礁し、こちらは同地で放棄されている。その後哨特第百七十六号は林兼重工業彦島造船所へ移送されたが、部品取りとして使用され行動を再開することは無かった。5月10日、佐世保支部から除かれ、呉地方復員局掃海部下関支部所属に改められる。 1946年6月15日、復員庁の開庁に伴い、所属を下関掃海部に改められる。8月20日、哨特第百七十六号は下関掃海部から削除され、掃海艦の定めを解かれた。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から日本に対し、本艇の解体が指令された。
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マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の90番艇、仮称艦名第2210号艦として計画。1944年1月24日、市川造船所で起工。11月5日、第九十号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の35番艇に定められ、本籍を舞鶴鎮守府と仮定。1945年3月15日、船体概成により市川造船所から横須賀海軍工廠へ引き渡し。4月11日竣工し、本籍を舞鶴鎮守府に定められ、連合艦隊第二十二戦隊第三監視艇隊に編入。隊内区分第一小隊に配置。特務艇長職務執行者は4月11日着任の第三監視艇隊附 石村正英海軍少尉。 5月20日、第三監視艇隊司令艇を特設砲艦第一雲洋丸から本艇に変更。乗員は隊司令以下71名になる。4月から5月にかけては横浜に在泊し、哨戒線へ出撃した記録は残されていない。 7月1日、第三監視艇隊から削除され舞鶴鎮守府新潟港湾警備隊に編入。終戦時健在だったかどうかは不明で、8月または9月に酒田港で触雷し沈没した。 1947年2月1日、行動不能艦艇(特)に定められる。5月3日、第九十号哨戒特務艇は海軍編制の廃止に伴い除籍された。
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「第百九十二号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の192番艇、仮称艦名第2312号艦として計画。1944年11月5日、第百九十二号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の70番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。 1945年6月19日、船体概成により福岡造船鉄工株式会社から佐世保海軍工廠へ引き渡し。7月27日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に定められ、元山方面特別根拠地隊に編入。以後法令、令達、通牒等に記載が無いため消息不明。終戦時は元山に所在していたと推定されている。 1947年5月3日、第百九十二号哨戒特務艇は海軍編制の廃止に伴い除籍された。
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マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の1番艇、仮称艦名第2121号艦として計画。1944年11月5日、第一号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の1番艇に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。1945年1月25日、船体概成により株式会社山西造船鉄工所から横須賀海軍工廠へ引き渡し。3月27日竣工し、本籍を横須賀鎮守府に定められ、連合艦隊第二十二戦隊第一監視艇隊に編入。哨戒線へ出撃した記録は残されていない。 7月1日、第一監視艇隊から削除され舞鶴防備隊に編入。以後法令、令達、通牒等に全く記載が無いため消息不明。終戦時は横須賀に所在していたと推定されている。 1947年5月3日、第一号哨戒特務艇は海軍編制の廃止に伴い除籍された。
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艇歴
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マル3計画の300トン型駆潜艇、仮称艦名第65号艦として計画。1938年1月25日、三菱重工業株式会社横浜船渠で建造番号303番船として起工。5月28日、第五号駆潜艇と命名され、特務艇/駆潜艇/第一号型の5番艇に定められる。7月28日進水。12月6日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に定められ、佐世保防備隊附属に編入。 1940年11月15日、艦艇類別等級と特務艇類別等級の改正により、特務艇の駆潜艇から艦艇の駆潜艇となり、本籍を佐世保鎮守府に定められる。同日第4号駆潜艇、本艇、第6号駆潜艇の3隻で第二十一駆潜隊を新編し、第二艦隊第一根拠地隊に編入。1941年3月まで内地で訓練に従事(以下、1942年5月1日まで特記無き限り第二十一駆潜隊の行動)。 1941年1月15日、第二艦隊第二根拠地隊に編入。3月25日に訓練を終え中支沿岸に出撃し、交通遮断に従事。4月10日、第三艦隊第二根拠地隊に編入。6月10日、支那方面艦隊作戦指揮下に編入。7月15日から8月まで軍隊区分ふ号艦隊第一護衛隊に配され、ふ号作戦では船団護衛やカムラン湾の警戒に従事。ふ号作戦終了後、支那方面艦隊作戦指揮を解かれて第二根拠地隊指揮下に復帰。8月27日に佐世保へ帰還し訓練と警戒に従事。10月1日、第二十一駆潜隊に第16号駆潜艇、第17号駆潜艇、第18号駆潜艇の3隻が編入され6隻編制となった。11月26日、寺島水道を発し、30日馬公着。 太平洋戦争の開戦時は軍隊区分菲島部隊第二急襲隊に配され、第四水雷戦隊司令官の指揮下で行動。12月7日に馬公を出撃しビガン攻略に従事。10日、ビガン沖で警泊中に空襲を受け、本艇は戦闘機3機からの機銃掃射により14名の負傷者を出した。12日、ビガン泊地の警戒任務を解かれ高雄へ回航。18日から24日までリンガエン攻略に従事し、続けてダバオの攻略に従事。 1942年1月24日からは厳島に座乗した第二根拠地隊司令官の直接指揮下でボルネオ島南東部の攻略に従事。3月10日、第二南遣艦隊第二十二特別根拠地隊に編入。5月1日、本艇は第4号駆潜艇、第6号駆潜艇とともに第二十一駆潜隊から除かれ、第二十二特別根拠地隊附属に編入された。以後、沈没するまで第二十二特別根拠地隊附属から転出せず、マニラからボルネオ島南東部にかけての船団護衛、哨戒等に従事した。11月11日、第二十三特別根拠地隊の特設敷設艦新興丸がマカッサル海峡のセレベス海側出口北緯01度19分 東経119度40分 / 北緯1.317度 東経119.667度 / 1.317; 119.667の地点で潜水艦による雷撃を受け、本艇は対潜制圧を行い爆雷を20個投射。 1943年1月15日、バリクパパン東沖20カイリ南緯01度16分 東経117度07分 / 南緯1.267度 東経117.117度 / -1.267; 117.117の地点で、17日にも同地点で、25日には南緯01度16分 東経117度06分 / 南緯1.267度 東経117.100度 / -1.267; 117.100の地点でそれぞれ爆雷戦を行う。 1944年10月25日、M246船団(5隻)を第31号駆潜艇と護衛しマニラへ向けタラカン発。29日、パラワン島プエルト・プリンセサに寄港。ここで座礁のため出港が遅れていた海軍徴傭船第十二雲海丸と護衛の第2号哨戒艇が船団に合流。11月1日、ミンドロ島沖北緯12度57分 東経120度12分 / 北緯12.950度 東経120.200度 / 12.950; 120.200の地点でアメリカ潜水艦レイとブラックフィンの攻撃を受け第七蓬莱丸、第十二雲海丸、カロリン丸が撃沈された。残った船艇は同日マニラに入港した。 1945年1月9日、ボルネオ島西方で被雷し損傷。スラバヤで修理を行う。終戦時はジャカルタに所在。 1946年7月11日、シンガポール島ケッペル港南方でイギリス海軍により海没処分。8月10日、帝国駆潜艇籍から除かれた。
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艇歴
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1932年(昭和7年)11月11日に舞鶴要港部工作部で起工。同年12月10日、友鶴と命名され、水雷艇に類別。 1933年(昭和8年)10月1日進水。1934年(昭和9年)2月24日に竣工し、佐世保鎮守府籍、第21水雷隊に編入された。
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艇歴
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1932年(昭和7年)12月10日、初雁と命名され、水雷艇に類別。1933年(昭和8年)4月6日に藤永田造船所で起工。同年12月19日進水。艤装中の1934年(昭和9年)3月12日に友鶴事件が起こり工事を中断。事故調査の結果、千鳥型を含む藤本喜久雄造船少将が設計していた艦は、復原性の不足が指摘され、設計を改めて工事を再開して1934年7月15日に竣工し、佐世保鎮守府籍、第21水雷隊に編入された。 1935年(昭和10年)9月に第四艦隊事件が起き千鳥型も1936年(昭和11年)8月から11月にかけて改善工事が行われた。詳細は明らかでないが他艦ほど大きな問題にはならなかったようである。ただ速力は更に低下し27ノットほどだったと言われる。 1936年(昭和11年)12月に第21水雷隊を同型艇4隻で編成し中国方面へ進出、上陸支援や封鎖作戦などに従事した。太平洋戦争開戦後、緒戦は南方の攻略作戦を支援。1942年3月から4月には西部ニューギニア戡定作戦に参加。その後は船団護衛などに従事した。終戦時は香港に所在。1947年(昭和22年)5月3日に除籍され、1948年(昭和23年)香港で解体。
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艇歴
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マル4計画の特務艇(440トン型駆潜艇)、第180号艦型の3番艇、仮称艦名第182号艦として計画。1940年8月26日、大阪鉄工所桜島工場で起工。12月10日、第十五号駆潜艇と命名されて第十三号型駆潜艇の3番艇に定められる。12月23日、進水。1941年2月8日、艤装員事務所を大阪鉄工所内に設置し事務を開始。
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艇歴
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マル4計画の特務艇(440トン型駆潜艇)、第180号艦型の2番艇、仮称艦名第181号艦として計画。1940年6月6日、玉造船所で建造番号295番船として起工。11月5日、第十四号駆潜艇と命名され、特務艇(駆潜艇)第十三号型駆潜艇の2番艇に定められる。11月15日、特務艇類別等級と艦艇類別等級の改正により特務艇の駆潜艇から艦艇の駆潜艇となり、第十三号型駆潜艇の2番艇に定められる。11月29日、進水。1941年2月14日、艤装員事務所を玉海軍監督官事務所内に設置し事務を開始。
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艇歴
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1941年12月27日:キャビテ沖のマニラ湾で日本軍の空襲により沈没。 1942年8月26日:マニラの第百三海軍工作部が引き揚げ作業開始。 1943年9月1日:第百五号哨戒艇と命名、哨戒艇に類別、本籍を佐世保鎮守府に定められる。第三南遣艦隊附属に編入。9月15日:工事完成、30日まで整備。 10月以降:マニラ湾哨戒のほか、セブ、サンボアンガ、ハルマヘラ島方面に出動。 10月13日現在:軍隊区分菲島部隊主隊に配置。 1944年11月27日:第6次多号輸送船団を護衛してマニラを出港。11月28日:オルモック湾への輸送作戦において同湾で哨戒中にアメリカ海軍魚雷艇PT127の雷撃により沈没。 1945年1月10日:帝国哨戒艇籍から除かれる。
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艇歴
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マル4計画の特務艇(440トン型駆潜艇)、第180号艦型の1番艇、仮称艦名第180号艦として計画。1939年7月18日、鶴見製鉄造船鶴見造船所で起工。 1940年2月23日、第十三号駆潜艇と命名されて特務艇(駆潜艇)第十三号型駆潜艇の1番艇に定められる。3月30日、進水。4月19日、艤装員事務所を鶴見製鉄造船鶴見工場内に設置し事務を開始。7月15日竣工し、艤装員事務所を撤去。11月15日、特務艇類別等級と艦艇類別等級の改正により特務艇の駆潜艇から艦艇の駆潜艇となり本籍を横須賀鎮守府に、役務を横須賀鎮守府警備兼練習駆潜艇に、第十三号型駆潜艇の1番艇にそれぞれ定められる。長浦を拠点として行動する。
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艇歴
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「第百七十五号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の175番艇、仮称艦名第2295号艦として計画。1944年11月5日、第百七十五号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の65番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年4月9日、船体概成により徳島合同造船株式会社から呉海軍工廠へ引き渡し。6月6日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に定められ、佐伯防備隊に編入。 終戦時は佐伯に所在。戦後は掃海に従事。 1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、呉地方復員局所管の掃海艦に定められ、同局掃海部佐伯支部所属と定められる。また、同日から艦名を哨特第百七十五号としている。1946年5月20日、佐伯支部から除かれ、呉地方復員局掃海部下関支部所属に改められる。 1946年6月15日、復員庁の開庁に伴い、所属を下関掃海部に改められる。 1948年1月1日、復員庁が廃止され、運輸省に移管。5月1日、海上保安庁に編入され掃海船MS-28となる。8月20日、船名を哨特第一七五号 MS-28に定められる。 1950年7月14日、朝鮮戦争の勃発により日本国内の重要港湾に対する共産側潜水艦による機雷敷設が予想されたため、アメリカ極東海軍司令部から日本に対し東京湾と佐世保港の毎日掃海(日施掃海)が指示された。東京湾は、本船ほか7隻を第三管区海上保安部航路啓開部に組み入れ、8月23日から掃海を実施した。10月9日、東京湾に展開していた元哨戒特務艇は、哨特第一七九号を除き朝鮮水域へ派遣されることが決まる。10月27日、本船ほか2隻は朝鮮水域へ向かうため佐世保へ回航されたが、本船は回航途上の10月30日に下田沖で座礁し沈没した。 1951年1月19日、哨特第一七五号は海上保安庁を解役された。
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「第百三十五号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の135番艇、仮称艦名第2255号艦として計画。1944年11月5日、第百三十五号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の50番艇に定められ、本籍を呉鎮守府と仮定。1945年2月19日、船体概成により株式会社四国船渠工業所から呉海軍工廠へ引き渡し。5月23日竣工し、本籍を呉鎮守府に定められ、佐伯防備隊に編入。 終戦時は徳山に所在し徳山防備隊所属。戦後は掃海に従事。11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍。 1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、呉地方復員局所管の掃海艦に定められ、同局掃海部徳山支部所属と定められる。また、同日から艦名を哨特第百三十五号としている。 1946年6月15日、復員庁の開庁に伴い、所属を徳山掃海部に改められる。8月15日、所属を大竹掃海部に改められる。1947年8月1日、大竹掃海部が廃止され、所属を下関掃海部に改められる。 1948年1月1日、復員庁が廃止され、運輸省に移管。5月1日、海上保安庁に編入され掃海船MS-21となる。8月20日、船名を哨特第一三五号 MS-21に定められる。朝鮮戦争で日本特別掃海隊が派遣された際、本船は予備船として横須賀で待機した。1951年12月1日、船名をまつしま MS-21に改正。 1952年8月1日、保安庁警備隊に移管され、第二幕僚監部函館航路啓開隊第2掃海隊に編入。1954年1月15日、大湊地方総監部函館基地隊第2掃海隊に編入。 1954年7月1日、保安庁警備隊は海上自衛隊に改組。掃海艇となる。大湊地方総監部函館基地隊第2掃海隊に編入。1957年9月1日、艇番号をMSI-686に改正。1962年3月31日、支援船に編入され船名を特務雑船32号 YAS-32に改正。1963年1月1日、船種呼称を特務船に改正。1964年3月31日、海上自衛隊から除籍された。
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艇歴
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「第百三十四号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の134番艇、仮称艦名第2254号艦として計画。1944年11月5日、第百三十四号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の49番艇に定められ、本籍を呉鎮守府と仮定。1945年1月20日、船体概成により株式会社四国船渠工業所から呉海軍工廠へ引き渡し。2月26日竣工し、本籍を呉鎮守府に定められ、佐伯防備隊に編入。 3月2日、佐伯防備隊から削除され、連合艦隊第二十二戦隊第四監視艇隊に編入。4月1日、第四監視艇隊は鹿児島への進出を開始し、4月10日以降は鹿児島で整備と訓練に従事。 5月18日、第五特攻戦隊作戦指揮下に編入され、軍隊区分第二特攻部隊に配置。5月中は種子島への輸送に3回従事。 6月15日、第七艦隊作戦指揮下に編入。軍隊区分対馬海峡方面部隊北九州防備部隊に配置され、掃海と対潜掃蕩に従事。 7月1日、第四監視艇隊から削除され大阪警備府大阪港湾警備隊に編入。掃海、航路啓開、空襲監視に従事。 終戦時残存。8月31日現在、機関の運転不能で木津川船渠にて繋留。戦後は掃海に従事。11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍。 1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、大阪地方復員局所管の掃海艦に定められ、同局掃海部大阪支部所属と定められる。また、同日から艦名を哨特第百三十四号としている。 1946年6月15日、復員庁の開庁に伴い、所属を阪神掃海部に改められる。6月25日、阪神掃海部は神戸掃海部に改称。11月1日、神戸掃海部は阪神掃海部に改称。1947年8月1日、阪神掃海部が廃止され、所属を下関掃海部に改められる。 1948年1月1日、復員庁が廃止され、運輸省に移管。5月1日、海上保安庁に編入され掃海船MS-20となる。8月20日、船名を哨特第一三四号 MS-20に定められる。朝鮮戦争の際、本船は日本特別掃海隊第1掃海隊指揮官船として、1950年10月11日から10月30日にかけて仁川沖の掃海に従事した。1951年12月1日、船名をおとしま MS-20に改正。 1952年8月1日、保安庁警備隊に移管され、第二幕僚監部舞鶴航路啓開隊第9掃海隊に編入。1954年1月15日、舞鶴地方総監部舞鶴基地警防隊第9掃海隊に編入。 1954年7月1日、保安庁警備隊は海上自衛隊に改組。掃海艇となる。舞鶴地方総監部舞鶴基地警防隊第9掃海隊に編入。1957年9月1日、艇番号をMSI-681に改正。1958年9月9日、呉地方総監部大阪基地隊第5掃海隊に編入。1961年3月31日、支援船に編入され船名を掃海雑船18号 YAM-18に改正。1962年3月31日、海上自衛隊から除籍された。
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「第百九十一号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の191番艇、仮称艦名第2311号艦として計画。1944年11月5日、第百九十一号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の69番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年3月8日、船体概成により福岡造船鉄工株式会社から佐世保海軍工廠へ引き渡し。3月27日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に定められ、連合艦隊第二十二戦隊第二監視艇隊に編入。哨戒線へ出撃した記録は残されていない。 7月1日、第二監視艇隊から削除され徳山防備隊に編入。終戦時は航行不能状態で呉に所在。 1946年8月15日、復員庁第二復員局呉地方復員局所管の掃海艦に定められ、帝国特務艇籍から除籍。同日艦名を哨特第百九十一号と改称し、大竹掃海部所属と定められる。1947年8月1日、大竹掃海部が廃止され、所属を下関掃海部に改められる。 1948年1月1日、復員庁が廃止され、運輸省に移管。5月1日、海上保安庁に編入され掃海船MS-30となる。8月20日、船名を哨特第一九一号 MS-30に定められる。 1950年の朝鮮戦争の際、本船は日本特別掃海隊第4掃海隊に配され、10月17日に下関を出港。20日に群山に到着し掃海を実施。27日、本船は群山沖で座礁し沈没した。朝鮮戦争の掃海では、本船のほかに駆潜特第二〇二号 MS-14が元山沖で触雷し沈没している。 1950年12月21日、哨特第一九一号は駆潜特第二〇二号とともに海上保安庁を解役された。
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「第百五十二号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の152番艇、仮称艦名第2272号艦として計画。1944年11月5日、第百五十二号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の56番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年3月15日、船体概成により有限会社福島造船鉄工所から呉海軍工廠へ引き渡し。5月23日竣工し、本籍を呉鎮守府に定められ、第七艦隊下関防備隊に編入。軍隊区分対馬海峡方面部隊関門防備部隊に配置。6月30日現在、軍隊区分対馬海峡方面部隊に配置。終戦時残存。11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍。 1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、呉地方復員局所管の掃海艦に定められ、同局掃海部下関支部所属と定められる。また、同日から艦名を哨特第百五十二号としている。1946年6月15日、復員庁の開庁に伴い、所属を下関掃海部に改められる。 1948年1月1日、復員庁が廃止され、運輸省に移管。5月1日、海上保安庁に編入され掃海船MS-25となる。8月20日、船名を哨特第一五二号 MS-25に定められる。朝鮮戦争の際、本船は日本特別掃海隊第4掃海隊指揮官船として、1950年11月22日から群山沖の掃海に従事。11月28日、第4掃海隊指揮官船を本船から巡視船PS-56に変更し、引き続き12月4日にかけて群山沖の掃海に従事した。1951年12月1日、船名をかもしま MS-25に改正。 1952年8月1日、保安庁警備隊に移管され、第二幕僚監部西部航路啓開隊下関航路啓開隊第7掃海隊に編入。1954年1月15日、佐世保地方総監部下関基地隊第7掃海隊に編入。 1954年7月1日、保安庁警備隊は海上自衛隊に改組。掃海艇となる。佐世保地方総監部下関基地隊第7掃海隊に編入。10月1日、第一掃海隊群第7掃海隊に編入。1955年9月、佐世保地方総監部下関基地隊第6掃海隊に編入。1957年9月1日、艇番号をMSI-684に改正。10月15日、呉地方総監部呉基地隊第3掃海隊に編入。1958年4月1日、舞鶴地方総監部舞鶴基地隊第1掃海隊に編入。1961年3月31日、支援船に編入され船名を掃海雑船21号 YAM-21に改正。1962年3月31日、海上自衛隊から除籍された。
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艇歴
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「第百五十三号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の153番艇、仮称艦名第2273号艦として計画。1944年11月5日、第百五十三号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の57番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年4月29日、船体概成により有限会社福島造船鉄工所から呉海軍工廠へ引き渡し。7月23日竣工し、本籍を呉鎮守府に定められ、第七艦隊下関防備隊に編入。終戦時残存。11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍。 1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、呉地方復員局所管の掃海艦に定められ、同局掃海部下関支部所属と定められる。また、同日から艦名を哨特第百五十三号としている。1946年6月15日、復員庁の開庁に伴い、所属を下関掃海部に改められる。 1948年1月1日、復員庁が廃止され、運輸省に移管。5月1日、海上保安庁に編入され掃海船MS-26となる。8月20日、船名を哨特第一五三号 MS-26に定められる。1950年4月20日、若松港沖で掃海作業中、殉職者1名を出す。朝鮮戦争の際、本船は1950年11月15日に特別掃海隊第二次第1掃海隊に編入されたが、掃海に従事することなく12月24日には第1掃海隊から除かれた。1951年12月1日、船名をたかしま MS-26に改正。1952年3月24日、父島二見港に残存する約200個の感応機雷を処分するため特別掃海隊が編成されたが、本船は船体に不具合のあったおおしま MS-29と交代し、特別掃海隊に組み入れられた。特別掃海は4月19日から5月4日にかけて実施された。 1952年8月1日、保安庁警備隊に移管され、第二幕僚監部西部航路啓開隊佐世保航路啓開隊第8掃海隊に編入。1954年1月15日、佐世保地方総監部佐世保基地警防隊第8掃海隊に編入。 1954年7月1日、保安庁警備隊は海上自衛隊に改組。掃海艇となる。佐世保地方総監部佐世保基地隊第8掃海隊に編入。1955年9月10日、呉地方隊呉基地警防隊第8掃海隊に編入。9月16日、佐世保地方総監部下関基地隊第6掃海隊に編入。1957年9月1日、艇番号をMSI-688に改正。1962年3月31日、支援船に編入され船名を掃海雑船33号 YAM-33に改正。1963年1月1日、船種呼称を掃海船に改正。1964年3月31日、海上自衛隊から除籍された。
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艇歴
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「第八十四号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の84番艇、仮称艦名第2204号艦として計画。1944年11月5日、第八十四号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の33番艇に定められ、本籍を舞鶴鎮守府と仮定。1945年4月30日、船体概成により株式会社米子造船所から舞鶴海軍工廠へ引き渡し。5月3日、艤装員事務所を舞鶴海軍工廠本艇内に設置し事務を開始。6月7日竣工し、本籍を舞鶴鎮守府に定められ、舞鶴鎮守府新潟港湾警備隊に編入。 終戦時残存。11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍。 1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、舞鶴地方復員局所管の掃海艦に定められ、同局掃海部新潟支部所属と定められる。また、同日から艦名を哨特第八十四号としている。 1946年6月15日、復員庁の開庁に伴い、所属を新潟掃海部に改められる。7月20日、新潟掃海部が廃止され、所属を舞鶴掃海部に改められる。12月25日、舞鶴掃海部が廃止され、所属を下関掃海部に改められる。 1948年1月1日、復員庁が廃止され、運輸省に移管。5月1日、海上保安庁に編入され掃海船MS-19となる。8月20日、船名を哨特第八四号 MS-19に定められる。朝鮮戦争の際、本船は日本特別掃海隊第3掃海隊に配され、1950年11月18日から元山沖の掃海に従事。11月24日、第二次第1掃海隊に編入され、引き続き12月4日まで元山沖の掃海に従事した。1951年12月1日、船名をつるしま MS-19に改正。 1952年8月1日、保安庁警備隊に移管され、第二幕僚監部横須賀航路啓開隊第1掃海隊に編入。1953年9月16日、横須賀地方総監部横須賀基地警防隊第1掃海隊に編入。1954年1月15日、大湊地方総監部函館基地隊第2掃海隊に編入。 1954年7月1日、保安庁警備隊は海上自衛隊に改組。掃海艇となる。大湊地方総監部函館基地隊第2掃海隊に編入。1957年9月1日、艇番号をMSI-685に改正。1958年9月9日、舞鶴地方総監部舞鶴基地警防隊第1掃海隊に編入。1962年3月31日、支援船に編入され船名を掃海雑船24号 YAM-24に改正。1963年1月1日、船種呼称を掃海船に改正。同年3月31日、海上自衛隊から除籍された。
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「第百三十九号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の139番艇、仮称艦名第2259号艦として計画。1944年11月5日、第百三十九号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の54番艇に定められ、本籍を呉鎮守府と仮定。1945年6月6日、株式会社四国船渠工業所で進水。7月9日、船体概成により四国船渠工業所から呉海軍工廠へ引き渡し。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令される。本艇は後述するとおり第二復員省の掃海艦として就役したが、工事を再開した建造所と竣工年月日は、いずれも不明。 1946年2月1日、第二復員省呉地方復員局所管の掃海艦に定められ、艦名を哨特第百三十九号と改称し、呉地方復員局掃海部仙崎支部所属と定められる。 1946年6月15日、復員庁の開庁に伴い、所属を仙崎掃海部に改められる。8月20日、仙崎掃海部が廃止され、所属を下関掃海部に改められる。 1948年1月1日、復員庁が廃止され、運輸省に移管。5月1日、海上保安庁に編入され掃海船MS-24となる。8月20日、船名を哨特第一三九号 MS-24に定められる。朝鮮戦争の際、本船は日本特別掃海隊第3掃海隊指揮官船として、1950年11月18日から元山沖の掃海に従事した。11月24日、第二次第1掃海隊に編入され、引き続き12月4日まで元山沖の掃海に従事した。1951年12月1日、船名をくるしま MS-24に改正。1952年3月24日、父島二見港に残存する約200個の感応機雷を処分するため、本船ほか3隻で特別掃海隊を編成し、訓練ののち4月19日から二見港で掃海を実施。本船は4月25日と30日に故障を起こすがいずれも復旧し、5月4日にかけて掃海を実施した。5月5日にはアメリカ海軍の掃海艦USS Shoveler AM-382の作業に協力し、11日に全ての作業を終えた。 1952年8月1日、保安庁警備隊に移管され、第二幕僚監部西部航路啓開隊呉航路啓開隊第4掃海隊に編入。1954年1月15日、横須賀地方総監部呉地方基地隊第4掃海隊に編入。 1954年7月1日、保安庁警備隊は海上自衛隊に改組。掃海艇となる。第1掃海隊群第4掃海隊に編入。1955年11月30日、呉地方総監部呉地方隊第4掃海隊に編入。1957年9月1日、艇番号をMSI-687に改正。1962年3月31日、支援船に編入され船名を掃海雑船25号 YAM-25に改正。1963年1月1日、船種呼称を掃海船に改正。1964年3月31日、海上自衛隊から除籍された。
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「第百五十四号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の154番艇、仮称艦名第2274号艦として計画。1944年11月5日、第百五十四号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の58番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年5月15日、有限会社福島造船鉄工所で進水。6月20日、船体概成により福島造船鉄工所から呉海軍工廠へ引き渡されたとされる。 終戦時未成。8月17日、工事中止が発令される。本艇は後述するとおり復員庁の掃海艦となったが、工事を再開した建造所と竣工年月日は、いずれも不明。 1946年12月15日、復員庁第二復員局呉地方復員局所管の掃海艦に定められ、艦名を哨特第百五十四号とし、下関掃海部所属と定められる。 1948年1月1日、復員庁が廃止され、運輸省に移管。5月1日、海上保安庁に編入され掃海船MS-27となる。8月20日、船名を哨特第一五四号 MS-27に改められる。1949年5月23日、関門海峡東口の満珠島南東で掃海作業中に触雷し沈没し、4名が殉職した。9月27日、哨特第一五四号は解役された。
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艇歴
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「第百六十四号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の164番艇、仮称艦名第2284号艦として計画。1944年11月5日、第百六十四号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の61番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年2月16日、船体概成により林兼重工業株式会社から佐世保海軍工廠へ引き渡し。3月2日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に定められ、連合艦隊第二十二戦隊第四監視艇隊に編入。 4月1日、第四監視艇隊は鹿児島への進出を開始し、4月10日以降は鹿児島で整備と訓練に従事。 5月18日、第五特攻戦隊作戦指揮下に編入。軍隊区分第二特攻部隊に配置。5月中は種子島への輸送に従事。5月30日、種子島への3回目の輸送を終え鹿児島へ帰投する際、西之表で座礁した。艇体はその後放棄された。 ※以下の艇歴は書類上のもので、艇の救難に成功したわけではない。 6月15日、第七艦隊作戦指揮下に編入。軍隊区分対馬海峡方面部隊北九州防備部隊に配置。7月1日、第四監視艇隊から削除され舞鶴鎮守府敦賀港湾警備隊に編入。 1947年5月3日、第百六十四号哨戒特務艇は海軍編制の廃止に伴い除籍された。
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「第百七十九号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の179番艇、仮称艦名第2299号艦として計画。1944年11月5日、第百七十九号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の66番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。1945年4月25日、船体概成により株式会社自念造船鉄工所から佐世保海軍工廠へ引き渡し。5月20日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に定められ、連合艦隊第二十二戦隊第二監視艇隊に編入。哨戒線へ出撃した記録は残されていない。7月1日、第二監視艇隊から削除され呉防備隊に編入。 終戦時残存。11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍。 1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、呉地方復員局所管の掃海艦に定められ、同局掃海部仙崎支部所属と定められる。また、同日から艦名を哨特第百七十九号としている。 1946年6月15日、復員庁の開庁に伴い、所属を仙崎掃海部に改められる。8月20日、仙崎掃海部が廃止され、所属を下関掃海部に改められる。 1948年1月1日、復員庁が廃止され、運輸省に移管。5月1日、海上保安庁に編入され掃海船MS-29となる。8月20日、船名を哨特第一七九号 MS-29に定められる。 朝鮮戦争勃発後、日本国内の重要港湾に対する共産側潜水艦による機雷敷設が予想されたため、1950年7月14日にアメリカ極東海軍司令部から日本に対して東京湾と佐世保港の毎日掃海(以下「日施掃海」という)が指示された。東京湾は、本船ほか7隻を第三管区海上保安部航路啓開部に組み入れ、8月23日から日施掃海を実施した。10月9日、東京湾に展開していた元哨戒特務艇は、本船を除き朝鮮水域へ派遣されることが決まったため、1951年1月28日までは本船の修理もあって日施掃海を中断し、1951年1月29日から1952年7月31日まで再び日施掃海を実施した。日施掃海に従事中の1951年12月1日、船名をおおしま MS-29に改正。 1952年4月19日から5月4日までの間に実施された父島二見港の特別掃海では本船も参加する予定だったが、他船と比較して船体の状態が悪かったため、本船の代わりにたかしま MS-26が参加した。 1952年8月1日、保安庁警備隊に移管され、第二幕僚監部西部航路啓開隊下関航路啓開隊第6掃海隊に編入。1954年1月15日、大湊地方総監部函館基地隊第2掃海隊に編入。 1954年7月1日、保安庁警備隊は海上自衛隊に改組。掃海艇となる。大湊地方総監部函館基地隊第2掃海隊に編入。1957年9月1日、艇番号をMSI-689に改正。1962年3月31日、海上自衛隊から除籍された。
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艇歴
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「第百三十六号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の136番艇、仮称艦名第2256号艦として計画。1944年11月5日、第百三十六号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の51番艇に定められ、本籍を呉鎮守府と仮定。1945年3月21日、船体概成により株式会社四国船渠工業所から呉海軍工廠へ引き渡し。6月5日竣工し、本籍を呉鎮守府に定められ、佐伯防備隊に編入。 終戦時は佐伯に所在していたが艇橋を喪失した状態だった。戦後は掃海に従事。11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍。 1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、呉地方復員局所管の掃海艦に定められ、同局掃海部佐伯支部所属と定められる。また、同日から艦名を哨特第百三十六号としている。1946年5月20日、佐伯支部から除かれ、呉地方復員局掃海部下関支部所属に改められる。 1946年6月15日、復員庁の開庁に伴い、所属を下関掃海部に改められる。 1948年1月1日、復員庁が廃止され、運輸省に移管。5月1日、海上保安庁に編入され掃海船MS-22となる。8月20日、船名を哨特第一三六号 MS-22に定められる。朝鮮戦争の際、本船は日本特別掃海隊第4掃海隊に配されたが、本船の第4掃海隊での掃海作業は無かった。11月2日、第2掃海隊に編入され、11月7日から12月8日にかけて鎮南浦沖の掃海に従事した。1951年12月1日、船名をひめしま MS-22に改正。1952年3月24日、父島二見港に残存する約200個の感応機雷を処分するため、本船ほか3隻で特別掃海隊を編成し、訓練ののち4月19日から二見港で掃海を実施。4月26日、本艇は舵故障を起すが整備を行って復帰し、5月4日に掃海を終了した。 1952年8月1日、保安庁警備隊に移管され、第二幕僚監部西部航路啓開隊大阪航路啓開隊第5掃海隊に編入。1954年1月15日、横須賀地方総監部呉地方基地隊大阪基地隊第5掃海隊に編入。 1954年7月1日、保安庁警備隊は海上自衛隊に改組。掃海艇となる。呉地方総監部大阪基地隊第5掃海隊に編入。1957年9月1日、艇番号をMSI-682に改正。1961年3月31日、支援船に編入され船名を掃海雑船19号 YAM-19に改正。1962年3月31日、海上自衛隊から除籍された。 本艇の船体は2年間、大阪府の天保山運河に繋留されていたが、民間に払い下げられて1964年に日本ディーゼル造船所で貨物船への改造工事が始まった。しかし工事中に台風のため船台上で横転してしまい、貨物船への改造は中止された。船体は1969年頃から木津川でポンツーンとして利用された。
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艇歴
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1918年1月10日起工。1920年3月5日進水。1922年4月1日就役。 第二次世界大戦開戦後は主に香港周辺で機雷敷設に従事。太平洋戦争が始まり日本軍が香港への攻撃を開始すると、スレシアンは九龍半島からの撤退を支援したり、日本軍陣地の砲撃や日本兵を載せた船を沈めたが、1941年12月16日に日本軍機の攻撃で損傷し、レパルスベイの銀洲で座礁した。 日本軍はスレイシアンを12月25日に捕獲した。これを修理・改造後、1942年(昭和17年)10月1日に第百一号哨戒艇と命名、特務艇の哨戒艇に類別された。同日付で本籍を横須賀鎮守府に、所属を横須賀防備隊にそれぞれ定められる。哨戒艇としての使用の他、海軍水雷学校の練習艦として使用された。 1943年(昭和18年)2月15日、特務艇の哨戒艇から除かれて艦艇の哨戒艇となり、本籍を横須賀鎮守府に、役務を横須賀鎮守府警備哨戒艇にそれぞれ定められる。8月15日、役務を横須賀鎮守府練習哨戒艇に定められる。 1943年12月1日から1944年(昭和19年)1月18日まで改装工事を行い、備砲を撤去して魚雷発射管や爆雷の装備を行う。3月15日、横須賀鎮守府練習哨戒艇の役務を解かれるとともに帝国哨戒艇籍から除かれ、同日付で雑役船に編入され船名を特第一号練習艇(とくだいいちごうれんしゅうてい)、船種を練習艇、所属を海軍水雷学校にそれぞれ定められる。この時に対水上射撃管制用の試製23号電探と、「北上」又は「大井」が重雷装艦から高速輸送艦となった際に下ろされた61cm4連装魚雷発射管1基等を装備し、魚雷発射訓練や新型電探の実験を行った。 終戦時は横須賀に所在し、1945年(昭和20年)10月にイギリスへ返還され、1946年(昭和21年)2月に香港で解体された。 第百一号哨戒艇長 杉本安政 予備少佐/少佐:1943年2月15日 - 1943年11月1日 福地秋二 少佐:1943年11月1日 - 1944年3月15日
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艇歴
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1930年(昭和5年)に竣工し、日本軍の爆撃で損傷後、スラバヤで自沈した。日本海軍が引き上げ、兵装は全て日本海軍のものと交換した。1944年4月20日、第百六号哨戒艇と命名、哨戒艇に類別、本籍を呉鎮守府に定められる。第二南遣艦隊附属に編入。終戦時にまだ工事が完了していなかった。1947年(昭和22年)5月3日除籍。終戦後オランダ海軍が接収し、1949年(昭和24年)9月にマデラ海峡で標的として撃沈。 第百六号哨戒艇長 田中武一 大尉:1944年7月15日 - 1944年8月20日、以後哨戒艇長の発令は無い。
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艇歴
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マル3計画の300トン型駆潜艇、仮称艦名第70号艦として計画。1938年7月5日、鶴見製鉄造船株式会社鶴見工場で起工。9月20日、第六号駆潜艇と命名され、特務艇/駆潜艇/第一号型の6番艇に定められる。1939年2月6日進水。5月20日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に定められ、佐世保防備隊附属に編入。 1940年11月15日、艦艇類別等級と特務艇類別等級の改正により、特務艇の駆潜艇から艦艇の駆潜艇となり、本籍を佐世保鎮守府に定められる。同日第4号駆潜艇、第5号駆潜艇、本艇の3隻で第二十一駆潜隊を新編し、第二艦隊第一根拠地隊に編入。1941年3月まで内地で訓練に従事(以下、1942年5月1日まで第二十一駆潜隊の行動)。 1941年1月15日、第二艦隊第二根拠地隊に編入。3月25日に訓練を終え中支沿岸に出撃し、交通遮断に従事。4月10日、第三艦隊第二根拠地隊に編入。6月10日、支那方面艦隊作戦指揮下に編入。7月15日から8月まで軍隊区分ふ号艦隊第一護衛隊に配され、ふ号作戦では船団護衛やカムラン湾の警戒に従事。ふ号作戦終了後、支那方面艦隊作戦指揮を解かれて第二根拠地隊指揮下に復帰。8月27日に佐世保へ帰還し訓練と警戒に従事。10月1日、第二十一駆潜隊に第16号駆潜艇、第17号駆潜艇、第18号駆潜艇の3隻が編入され6隻編制となった。11月26日、寺島水道を発し、30日馬公着。 太平洋戦争の開戦時は軍隊区分菲島部隊第二急襲隊に配され、第四水雷戦隊司令官の指揮下で行動。12月7日に馬公を出撃しビガン攻略に従事。12日、ビガン泊地の警戒任務を解かれ高雄へ回航。18日から24日までリンガエン攻略に従事し、続けてダバオの攻略に従事。 1942年1月24日からは厳島に座乗した第二根拠地隊司令官の直接指揮下でボルネオ島南東部の攻略に従事。3月10日、第二南遣艦隊第二十二特別根拠地隊に編入。ボルネオ方面で護衛に従事。5月1日、本艇は第4号駆潜艇、第5号駆潜艇とともに第二十一駆潜隊から除かれ、第二十二特別根拠地隊附属に編入。8月10日、第二十三特別根拠地隊作戦指揮下に編入され、軍隊区分主隊に配される。スラウェシ島近海で行動。1943年1月26日、アンボン灯台の南西16海里でアメリカ潜水艦「ガジョン」の潜望鏡を発見し爆雷攻撃で損傷させた。 1943年3月、第二十三特別根拠地隊作戦指揮を解かれ第二十二特別根拠地隊に復帰。バリクパパン方面での護衛に従事。11月30日、船団(特設運送船國洋丸、健洋丸、吾妻丸)を護衛しトラックへ向けバリクパパン発。12月3日、パラオ南西325km 北緯06度34分 東経131度40分 / 北緯6.567度 東経131.667度 / 6.567; 131.667の地点で吾妻丸がアメリカ潜水艦ティノサの攻撃により被雷沈没した。船団はトラック行きを取りやめ、4日パラオに入港した。 1944年3月15日、船団を護衛しバリクパパン発。23日パラオ着。30日、船団を護衛し西水道に向けて航行中パラオ大空襲に遭遇した。本艇は被爆のため浸水し、上甲板の一部を除き水没したため放棄され、生存者はパラオへ避退した。10月10日、第六号駆潜艇は第一号型駆潜艇から削除され、帝国駆潜艇籍から除かれた。
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艇歴
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マル4計画の700トン型掃海艇、仮称艦名第164号艦として計画。1940年9月17日、株式会社東京石川島造船所で起工。12月10日、第十九号掃海艇と命名され、第七号型掃海艇の7番艇に定められる。 1941年2月18日、進水。4月22日、艤装員事務所を石川島造船所深川工場内に設置し事務を開始。5月31日竣工し、艤装員事務所を撤去。本籍を舞鶴鎮守府に定められ、第三艦隊第二根拠地隊に編入。6月11日から8月25日までの全般任務として中支、南支沿岸で監視警戒に従事。6月22日から25日まで披山島掃蕩作戦に参加し、陸戦隊の揚陸掩護に従事。7月1日、王環島坎門鎮作戦に参加。7月10日から8月6日まで第二遣支艦隊作戦指揮下に編入され、ふ号作戦(南部仏印進駐)に参加し、陸軍輸送船団の護衛と泊地の掃海に従事。8月26日、内地に帰還し、整備と訓練に従事。 11月26日、佐世保を出港。12月1日、馬公に入港。太平洋戦争の開戦時は軍隊区分菲島部隊第一急襲隊に配され、第五水雷戦隊司令官の指揮下で行動。7日、第一急襲隊はアパリ上陸船団を護衛し馬公を出港。10日、「第十九号掃海艇」は掃海中カガヤン川河口にアメリカ船を発見し、その拿捕を命じられたが、同日「第十九号掃海艇」は沈没した。沈没時の状況は艇長の報告によれば以下のようなものであった。 商船「セッテス」拿捕のためカガヤン川河口付近に投錨直後、爆撃を受けて被弾。後部弾薬庫、爆雷庫が爆発し、艦橋より前は水面上に露出した状態で着底。死者12名、行方不明者60名。また「第十六号掃海艇」より派遣の拿捕隊10名も行方不明。 乗員は敵機を目撃していないが状況から高高度からの爆撃を受けたものと考えられ、搭載していた爆雷が弾火薬庫を誘爆させ爆沈したものと推定された。また、戦史叢書では米軍資料には「第十九号掃海艇」の沈没に該当する記録は無い、とある。この日フィリピン北部へ攻撃に向かった第14爆撃飛行隊の3機のB-17のうちの1機(コリン・ケリー・ジュニア中尉機)が爆撃したものがおそらく「第十九号掃海艇」であるとしているものもある。 1942年1月15日、舞鶴鎮守府第四予備掃海艇に定められる。4月1日、艦艇類別等級別表の掃海艇の部中に第十九号型の項が新設され、その1番艇に定められる。 1945年11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍された。
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艇歴
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1935年(昭和10年)11月22日、鳩と命名され、水雷艇に類別。1936年(昭和11年)5月28日に東京石川島造船所で起工。1937年(昭和12年)1月25日進水。同年8月7日に竣工し、呉鎮守府籍、第11水雷隊に編入された。 日中戦争では、華北沿岸作戦、揚子江遡行作戦に従事。太平洋戦争開戦後、海上護衛作戦に参加。1944年(昭和19年)10月16日、船団護衛中に香港南東で米空母艦載機の爆撃を受けて大破し、被曳航中に沈没。同年12月10日に除籍。
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艇歴
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1934年(昭和9年)11月24日、鵯と命名され、水雷艇に類別。同年11月26日に東京石川島造船所で起工。1935年(昭和10年)10月25日進水。1936年(昭和11年)12月20日に竣工し、横須賀鎮守府籍、第一水雷隊に編入された。 日中戦争では、華南沿岸作戦、揚子江遡行作戦と参加。1939年、舟山島攻略作戦(6月20日から7月18日)に参加。敵はおらず、無血占領となった。同年12月1日、舞鶴鎮守府に転籍。1941年、「鵯」は第一船団の護衛および上陸掩護を任務とする第一護衛隊の一隻として南部仏印進駐(ふ号作戦)に参加した。 太平洋戦争開戦時、第二遣支艦隊第十五戦隊に所属。水雷艇「雉」、「雁」とともに南支部隊の監視部隊乙監視部隊として香港攻略作戦に参加した。12月8日、「鵯」から陸戦隊が上陸して馬尾州灯台を占領したというが、戦史叢書では「雁」が馬尾洲燈台通信機関を破壊したとあり、「鵯」の行動についての記載はない。12月19日には砲台からの砲撃を受け、12月21日には敵魚雷艇らしきものに対して砲撃、後無人のライターと判明し拿捕したという。 1942年4月10日、第二遣支艦隊附属となる。中国の飛行場が利用された4月のドーリットル空襲後、浙江省方面の航空基地覆滅を目的としたせ号作戦が実施された。これに呼応して5月20日に実施された川石島攻略に「鵯」は「橋立」とともに従事した。 9月14日、外南洋部隊編入が命じられる。パラオへの補給任務に従事ののち、陸軍部隊を輸送する沖輸送の船団護衛に従事。「汐風」、「鴻」とともに輸送船4隻を護衛して9月26日に香港を出港し、10月7日にパラオに入港した。パラオからは「鵯」護衛組は10月8日に出港し、10月14日にラバウルに着いた。 11月18日、「鵯」と「鴻」はラエへ横浜鎮守府第五特別陸戦隊の一部および航空基地用機材を揚陸した。11月21日、2隻はラエへの糧食、弾薬輸送のためラバウル出港。翌日、空襲で損傷した「鴻」は引き返した。「鵯」も至近弾により負傷者3名を出したが輸送には成功し、またB-17を1機撃墜して1名を捕虜としたという。 1943年1月15日、輸送船「山霜丸」を護衛してコロンバンガラ島へ向けてショートランド発。途中空襲を受け、敵機5機を撃墜したとする。翌日未明に「山霜丸」の荷揚げは完了し、帰投。輸送内容は横浜鎮守府第七特別陸戦隊高射機銃中隊であった。1月17日にはレカタへ第十二防空隊の一部を輸送した「津軽」を、1月22日にもレカタへの輸送を行った「津軽」と「黒潮」を護衛した。1月30日、「第二十三号駆潜艇」とともに「第二東亞丸」を護衛してラバウル発。輸送内容は第八連合特別陸戦隊司令部であった。途中空襲を受け、「鵯」は1機を撃墜したとする。空襲で「第二東亞丸」は航行不能となり、「鵯」は陸戦隊を収容してコロンバンガラ島へ揚陸した。 2月16日、「能代丸」を護衛してラバウル発。同日、ラバウル南方で「第十八号駆潜艇」と協同して米潜水艦「アンバージャック」を爆雷攻撃で撃沈した。 4月10日、第四艦隊第二海上護衛隊に編入。以後、船団護衛に従事。11月30日、修理のため舞鶴で入渠。1944年7月18日、第一海上護衛隊に編入。 8月15日、佐世保発。マニラなどを経てサンジャックに入港。 11月17日、ミ20船団護衛中にアメリカ潜水艦「ガンネル」の雷撃を受け、海南島南方の北緯16度56分、東経110度30分で沈没した。「鵯」では、第一海上護衛隊運航指揮官小豆沢成大佐および「鵯」乗員120名のうち一人を除き全員戦死したとする。 1945年(昭和20年)1月10日に除籍。
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艇歴
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1943年(昭和18年)9月6日、日立因島造船所で起工。1944年(昭和19年)3月15日「網代 (アジロ)」と命名、同日艦艇類別等級表で敷設艇に類別、本籍は横須賀鎮守府と仮定された。4月8日進水、7月31日に竣工して横須賀鎮守府籍、呉防備戦隊所属となり諸訓練に従事した。 8月25日横須賀防備戦隊に編入。9月10日から横須賀-小笠原間の船団護衛に従事した。 10月1日、父島への船団護衛の途中、父島北西方の北緯28度20分、東経139度25分においてアメリカ潜水艦「スナッパー」の雷撃を受け沈没した。12月10日に除籍された。 竣工後2カ月ほどで沈没した「網代」の写真は発見されていない。
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艇歴
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マル急計画の駆潜艇小(木造100トン型)、第500号艦型の1番艇、仮称艦名第500号艦として計画。 1941年12月24日、市川造船所で起工。1942年7月25日、第一号駆潜特務艇と命名されて第一号型駆潜特務艇の1番艇に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。9月14日、進水。1943年2月10日、船体概成により市川造船所から横須賀海軍工廠へ引き渡し。3月27日竣工し、本籍を横須賀鎮守府に、所属を横須賀防備戦隊横須賀防備隊にそれぞれ定められる。 1943年4月1日現在、軍隊区分横須賀鎮守府海面防備部隊東京湾部隊哨戒隊に配置。4月1日長浦へ回航し、19日まで艤装残務工事を行う。19日からは横須賀海軍工廠第三船渠に入渠し、26日まで工事を行う。出渠後長浦へ回航し、30日まで整備。 5月1日、軍隊区分南三陸部隊に配置。同日から8日まで、横須賀小海で探信儀の装備工事を行う。10日に長浦で訓練を行い、11日に女川へ向かう。12日、女川着。以後1944年11月14日まで女川、小名浜、金華山沖での船団護衛、対潜掃蕩、哨戒、浮流機雷の処分等に従事。 6月15日、軍隊区分南三陸部隊協力部隊に配置。10月1日現在、特務艇長職務執行者は横須賀防備隊附 鈴木四郎海軍中尉。 1944年11月10日、軍隊区分東京湾部隊第一駆潜特務艇隊第一小隊に配置。15日に女川を出港し、17日浦賀着。12月13日まで整備に従事。浦賀で整備中の11月26日、特務艇長職務執行者 鈴木大尉が退隊。12月14日、入渠のため長浦で爆雷を陸揚げし、20日まで浦賀で再度整備。21日、浦賀船渠に入渠。 1945年1月5日出渠し、浦賀船渠岸壁で10日まで残工事を施行。以後東京湾、相模湾、房総半島沿岸の哨戒と対潜掃蕩に従事。 2月1日、軍隊区分東京湾部隊特務艇隊に配置。16日、勝浦沖でアメリカ艦上機と交戦し墜落した友軍機の搭乗員5名を収容。2月28日現在、特務艇長職務執行者は横須賀防備隊附 貫井精一海軍少尉。 終戦時残存し、戦後は掃海に従事。11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍。 1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、横須賀地方復員局所管の掃海艦に定められ、同局掃海部横須賀支部所属と定められる。12月20日、艦名を駆潜特第一号に改称。1946年5月10日、横須賀地方復員局掃海部横須賀支部から削除され、所属を大阪地方復員局掃海部大阪支部に改められる。 1946年6月15日、復員庁の開庁に伴い、所属を阪神掃海部に改められる。6月25日、阪神掃海部は神戸掃海部に改称。11月1日、神戸掃海部は阪神掃海部に改称。 1947年8月1日、阪神掃海部が廃止される。同日付で横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に改められ、特別保管艦に指定。横須賀特別保管艦艇第十保管群に配される。8月28日、本艦ほか27隻の元駆潜特務艇は特別輸送艦の定めを解かれ、運輸省へ移管された。 1948年5月1日、海上保安庁に編入され巡視船ちどり PB-18となる。1950年7月1日、船番号をPS-18に改正。1954年5月1日、船番号をPS-134に改正。1960年10月25日、海上保安庁を解役された。
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艇歴
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「測天 (初代測天型敷設艇)」の記事における「艇歴」の解説
測天は1910年に策定された新充実計画により、馬公敷設隊附属の大型マインボートとして、馬公要港部附属の駒橋丸とともに明治45年度軍備補充費で建造された。 1912年4月16日、第一測天丸と命名。1913年7月4日竣工。第一次世界大戦では、馬公港口の警備と哨戒に従事。第一次世界大戦終結後の1919年7月から8月にかけて、虎井嶼沖の機雷源で掃海に従事。 1920年7月1日、船名を測天に改定。同日付の特務艇類別等級の制定に伴い特務艇中の二等敷設艇に類別され、特務艇類別等級表中における同型艇中の序列を6番目に定められる。24日、馬公在泊中台風に遭遇し、第一回天に触接され、そのあおりで第二泥受船に接触した。これにより測天は艇体左舷中央部40番ビーム付近に、上甲板から水線下にまで達する裂け目が生じ、入渠修理が必要となった。 1933年5月23日、敷設艇の等級が廃され、敷設艇に類別。1935年1月、佐世保海軍工廠で入渠検査の際に艇体、機械、缶がいずれも腐食のため衰朽が著しく、爾後使用期間5年見込みの完全な修理には10万円、当面の使用に差し支えない程度の修理には1万円の費用がかかることが判明した。 1936年7月27日、海軍省は測天を廃船処分とすることに決定した。8月25日、測天は特務艇類別等級別表から削除され除籍。8月28日、測天は宇治とともに、佐世保海軍港務部に還納された。
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「クインテ (掃海艇・初代)」の記事における「艇歴」の解説
バンクーバーのBurrard Dry Dock社で建造。1940年12月14日起工。1941年3月8日進水。同年8月30日就役。 10月10日にエスクィマルトを出発し、掃海艇「Clayoquot」、「Ungava」とともにハリファックスへ向かった。パナマ運河を通過して11月1日にジャマイカのキングストンに到着。そこで、「Clayoquot」、コルベット「Clarkia」とともに座礁したイギリス空母「インドミタブル」の離礁作業に従事した。11月14日、ハリファックスに到着した。 「クインテ」はWestern Local Escort Forceに、次いでHalifax Forceに属し、船団護衛に従事した。 1942年10月14日から11月26日までノバスコシアのルーネンバーグで改修が行われた。改修完了後「クインテ」は同地で改修中であった「Ungava」から燃料をもらい、それからピクトゥーへ向かうことになっていたが、そのことが伝えられていなかった「Ungava」側は燃料の供給を拒否した。ピクトゥーまでの航海に必要な燃料はあったが、後で燃料切れになることとなる。「クインテ」は11月27に出航したが、海が荒れて通信用アンテナが失われ、また28日10時45分にジャイロコンパスに問題が見つかった。同日1時45分以降陸地を見ていなかったため陸地のある方へ針路が向けられたが、その後水の流入により音響測深機が役に立たなくなり、さらにレーダーも使えなくなった。加えて、艦内に一つだけしかなかった六分儀も、甲板に落としてしまい信頼できなくなってしまった。11月29日16時30分になってようやく陸地が視認された。吹雪で視界不良の中、Ciboux島のFlat Pointと思われる明りを頼りに航行していたところ、21時35分にその明りが近すぎるとの報告を受けて艇長Nicolは停船を命じたが、21時38分に「クインテ」は座礁した。そこは実際はHorse Head Shoalsであった。21時45分に離礁に成功し、近くにいたモーターランチの助けを借りて"St. Peter's Bayへ向かった。その頃、「クインテ」は燃料切れにより浸水が続いているのにポンプが使えなくなった。その場に現れたタンカーから給油を受けようとしたがボイラーまで浸水していたため断念され、その後「クインテ」は座礁させられた。 「クインテ」は12月15日に浮揚されたが、翌日排水作業中に横転した。再度の引き揚げ作業に長期間要すことから「クインテ」は1943年1月17日に退役した。作業は4月24日に完了した。その後の修理中に「クインテ」は練習艦とされることが決定された。 1944年6月27日に「クインテ」は再就役した。 1945年1月11日、セントジョンで大波により「クインテ」は共に係留されていたコルベット「シクティミ (Chicoutimi)」と衝突し損傷した。 研究艦となった後、1946年10月25日に退役し、1947年に解体された。
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艇歴
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「第百三十八号哨戒特務艇」の記事における「艇歴」の解説
マル戦計画の特務艇、第2121号艦型の138番艇、仮称艦名第2258号艦として計画。1944年11月5日、第百三十八号哨戒特務艇と命名されて第一号型哨戒特務艇の53番艇に定められ、本籍を呉鎮守府と仮定。1945年5月25日、船体概成により株式会社四国船渠工業所から呉海軍工廠へ引き渡し。8月11日竣工し、本籍を呉鎮守府に定められ、舞鶴鎮守府新潟港湾警備隊に編入。終戦時残存。 1946年2月1日、第二復員省呉地方復員局所管の掃海艦に定められ、帝国特務艇籍から除籍。同日付で艦名を哨特第百三十八号と改称し、呉地方復員局掃海部仙崎支部所属と定められる。 1946年6月15日、復員庁の開庁に伴い、所属を仙崎掃海部に改められる。8月20日、仙崎掃海部が廃止され、所属を下関掃海部に改められる。 1948年1月1日、復員庁が廃止され、運輸省に移管。5月1日、海上保安庁に編入され掃海船MS-23となる。8月20日、船名を哨特第一三八号 MS-23に定められる。室蘭沖で掃海作業中の12月20日、殉職者1名を出す。朝鮮戦争で日本特別掃海隊が派遣された際、本船は予備船として下関で待機した。1951年12月1日、船名をあわしま MS-23に改正。 1952年8月1日、保安庁警備隊に移管され、第二幕僚監部新潟航路啓開隊第10掃海隊に編入。1954年1月15日、舞鶴地方総監部舞鶴基地警防隊第10掃海隊に編入。 1954年7月1日、保安庁警備隊は海上自衛隊に改組。掃海艇となる。舞鶴地方総監部舞鶴基地警防隊第10掃海隊に編入。1955年9月、呉地方総監部呉基地隊第3掃海隊に編入。1957年9月1日、艇番号をMSI-683に改正。11月1日、佐世保地方総監部下関基地隊第6掃海隊に編入。1958年9月9日、呉地方総監部呉基地警防隊第4掃海隊に編入。1961年3月31日、支援船に編入され船名を掃海雑船20号 YAM-20に改正。1963年1月1日、船種呼称を掃海船に改正。同年3月31日、海上自衛隊から除籍された。
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艇歴
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改⑤計画の駆潜艇、第5341号艦型の4番艇、仮称艦名第5344号艦として計画。1943年12月18日、新潟鐵工所新潟工場で起工。 1944年1月25日、第六十三号駆潜艇と命名されて第十四号型駆潜艇の44番艇に定められ、本籍を佐世保鎮守府と仮定。 1944年5月10日進水。6月2日、艤装員事務所が新潟鐵工所新潟工場内で事務を開始。6月30竣工し、艤装員事務所を撤去。同日付で本籍を佐世保鎮守府に、役務を佐世保鎮守府警備駆潜艇にそれぞれ定められ、呉防備戦隊に編入。基礎術力練成教育に従事。 8月7日、第一南遣艦隊第十特別根拠地隊に編入。8月15日、モタ23船団(10隻)に同行し門司発。途中、鹿児島と基隆で避泊し、22日高雄着。 9月5日、タマ25船団(11隻)を護衛し高雄発。12日、第三南遣艦隊が在マニラ船舶の退避勧告を出したため、14日船団はサンタクルスに避泊。本艇は高雄へ引き返し、18日にタマ26船団(10隻)を護衛し高雄発。22日、タマ25B船団がサンフェルナンド付近でアメリカ艦上機の攻撃を受けて損害を出したため、本艇はタマ26船団から分派されてタマ25B船団と合同し、同船団をマニラまで護衛した。 10月4日、マミ11船団(4隻)を竹と護衛しマニラ発。14日、ミリ着。19日にミリ発。23日、第十特別根拠地隊に編入されてから2ヵ月半を経てシンガポールに到着した。シンガポール到着後は整備補給を行い、28日サイゴンへ回航。以後、シンガポール、ペナン、ポートブレアで行動。 1945年2月1日から6日まで、第百一海軍工作部で入渠し修理を行う。9日、ヒ88F船団の護衛に協力することとなりシンガポール発。同船団をサンジャックまで護衛し、15日にシンガポールへ帰着。 3月26日、船団護衛中に小アンダマン島沖でイギリス艦隊と遭遇し、イギリス駆逐艦「ヴィラーゴ」ほかと交戦して被雷沈没した。5月10日、第六十三号駆潜艇は第十四号型駆潜艇から削除され、帝国駆潜艇籍から除かれた。
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