ミマ11船団
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ミマ11船団(ミマ11せんだん)は、太平洋戦争後期の1944年9月に、ボルネオ島ミリからマニラへ出航した日本の護送船団である。マニラの情勢悪化のため約半数の船を選抜して高雄へ直行しようとしたが、アメリカ海軍潜水艦の攻撃で被害が続出し、途中で後続のマタ28船団(マタ28せんだん)に吸収された。マタ28船団も高雄を目指したが、再び潜水艦の攻撃による損害を受け、一部だけが目的地を変更して香港に到着した。
注釈
- ^ 神威と護衛艦は、極東丸などとともにシンガポールから重油を輸送してミリ経由で9月20日にマニラへ到来したもの。この神威船団にはミマ11船団加入の旭邦丸と第28号駆潜艇も一時同行していたが、故障によりミリへ引き返した[14]。神威は、9月27日にボーンフィッシュの雷撃により損傷していた[9]。
- ^ なお、残りのタンカー共栄丸(共栄タンカー:602総トン)、同第六共栄丸(共栄タンカー:1178総トン)はマニラ止まり。
- ^ 駒宮(1987年)と岩重(2011年)によれば以上の15隻だが、『第一海上護衛隊戦時日誌』によれば船団加入船は16隻で、船名不明船がもう1隻いる計算になる[10]。
出典
- ^ a b c 岩重(2012年)、92-93頁。
- ^ 『自昭和十九年九月一日 至昭和十九年九月三十日 第一海上護衛隊戦時日誌』、画像35、54枚目。
- ^ a b c d e 駒宮(1987年)、257-259頁。
- ^ “De Klerk” (オランダ語). arendnet.com. 2023年11月30日閲覧。
- ^ a b c d 陸軍運輸部残務整理部 『船舶輸送間における遭難部隊資料(陸軍)』 JACAR Ref.C08050112500、画像32-35枚目。
- ^ Cressman (1999) , p. 541.
- ^ 駒宮(1987年)、264頁。
- ^ 『自昭和十九年九月一日 至昭和十九年九月三十日 第一海上護衛隊戦時日誌』、画像14枚目。
- ^ a b c d Cressman (1999) , p. 546.
- ^ a b 『自昭和十九年九月一日 至昭和十九年九月三十日 第一海上護衛隊戦時日誌』、画像54枚目。
- ^ a b Cressman (1999) , p. 548.
- ^ 『自昭和十九年十月一日 至昭和十九年十月三十一日 第一海上護衛隊戦時日誌』、画像51枚目。
- ^ a b c d e f g 駒宮(1987年)、271-273頁。
- ^ 特設運送艦旭東丸 『自昭和十九年九月一日至昭和十九年九月三十日 戦時日誌』 JACAR Ref.C08030644900、画像10-11、13枚目。
- ^ Cressman (1999) , p. 550.
- ^ a b c Cressman (1999) , p. 551.
- ^ Cressman (1999) , p. 552.
- ^ 『自昭和十九年十月一日 至昭和十九年十月三十一日 第一海上護衛隊戦時日誌』、画像13枚目。
- ^ “USAT Merritt” (英語). NavSource Online. 2023年11月30日閲覧。
- ^ “文山丸”. 大日本帝国海軍特設艦船データベース. 2023年11月30日閲覧。
- ^ 『自昭和十九年四月一日 至昭和二十年三月三十一日 特務艦神威戦時日誌戦闘詳報』、画像40枚目。
- ^ 『自昭和十九年十月一日 至昭和十九年十月三十一日 第一海上護衛隊戦時日誌』、画像68枚目。
- ^ “Japanese Oilers” (英語). Combinedfleet.com. 2023年11月30日閲覧。
- ^ “Japanese Minelayers” (英語). Combinedfleet.com. 2023年11月30日閲覧。
- 1 ミマ11船団とは
- 2 ミマ11船団の概要
- 3 背景
- 4 航海の経過
- 5 結果
- 6 編制
マタ28船団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 15:25 UTC 版)
ミマ11船団がサンフェルナンドに待機している間の10月3日、バターン半島カフカーベン沖で、新たな高雄行き便のマタ28船団(輸送船8隻・護衛艦2隻)が編成された。このうち、タンカー昭永丸(大阪商船:2764総トン)はミマ11船団から分離されてバキット湾に到着後マニラに回航されていた。翌4日午前1時に出航した船団は、同日夜をサンタクルーズで仮泊した後、5日午後6時にサンフェルナンドに到着した。ここでミマ11船団を吸収。さらに、海軍給油艦神威も護衛の駆潜艇2隻とともに合流した。 10月6日午前6時、マタ28船団は、輸送船12隻と護衛艦8隻の陣容でサンフェルナンドを出発した。このとき泊地の外には、ミマ11船団を襲ったアメリカの潜水艦カブリラが、まだ待ち構えていた。船団は潜水艦の攻撃を警戒して座礁ギリギリの接岸航法を採っていたが、午後3時半頃にカブリラの魚雷を受け、重油8500トン積載のタンカーの第二山水丸(山下汽船:5154総トン)と、貨客船の北嶺丸(東亜海運:2407総トン)が撃沈された。後者はパラオから日本に引き揚げる民間人230人などを乗せていたが、死者は5人だけで済んだ。 6日午後6時半、船団はラポッグ湾に逃げ込んだ。しかし夜半にアメリカ機動部隊が台湾沖に接近中との情報が入ったため、急遽、海南島の楡林港へと退避することになった。輸送船のうち照国丸、大峰丸、第八信洋丸の3隻は駆潜艇2隻とともに分離され、他の輸送船7隻と護衛艦6隻が緊急出港した。分離された船団のうち第八信洋丸(大光商船:1960総トン)は、7日にまたもカブリラの魚雷攻撃を受けて沈没し、他の2隻はラポッグ湾に残った。 10月7日午前6時頃、退避中の船団をさらに分割し、神威と橘丸が第8号海防艦と駆潜艇1隻の護衛を受けて先行することになった。しばらくは何事もなかったが、9日午前1時42分、橘丸は北緯19度33分東経116度38分の南シナ海上において、アメリカ潜水艦ソーフィッシュの雷撃により爆発沈没した。 一方、船団本隊の輸送船5隻は湖北丸(大阪商船:2578総トン)を基準船として隊形を組み、海防艦2隻と第20号掃海艇・第41号駆潜艇の護衛で航行を続けた。10月8日午後4時半に高雄の警戒警報解除を知らされたため、同日午後6時に反転して高雄へと針路を変えた。同日午後11時25分頃、北緯18度31分東経116度00分の南シナ海上で、船団は右舷前方からアメリカの潜水艦ホーの攻撃に遭った。船団の右列先頭に位置していた湖北丸は魚雷の航跡に気付いて緊急回避を試みたが、1発が命中して沈没した。被雷から1分半の短時間で沈んだため、乗船者762人中417人(遭難船員を中心とした民間人および船舶砲兵等)が死亡した。なお、アメリカ側はホーが第8号海防艦も損傷させたと判定している。 その後、10月9日になって高雄には再び警戒警報が発令されたため、船団本隊は高雄入港を断念、同日午後4時に針路を香港へと変えた。翌10日に沖縄がアメリカ機動部隊の十・十空襲に見舞われたことからも、続けて高雄が空襲を受ける危険は大きいと判断され、第一海上護衛隊より船団に香港行きが命じられている。11日午前10時過ぎに、輸送船4隻と護衛艦は香港へと入港した。なお、高雄を含む台湾一帯には、翌12日にアメリカ機動部隊が来襲し台湾沖航空戦が発生している。
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