ヒ81船団
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ヒ81船団(ヒ81せんだん)は、太平洋戦争後期の1944年11月-12月に日本からシンガポールへ航海した、日本の護送船団である。
- ^ 『戦史叢書(81巻)』469頁では神鷹以外に駆逐艦1沈没とするが、該当艦はない。
- ^ ヒ20船団など欠航となった便があるため、実際の運航順は通算81番目や往路41番目ではない。
- ^ 大内健二著『護衛空母入門』262頁では、あきつ丸の搭載特攻ボートを震洋100隻とする。
- ^ 大内健二著『護衛空母入門』259頁では「ヒ81船団は貨物船1・陸軍特種船4・駆逐艦1・海防艦7・神鷹で11月13日伊万里湾抜錨」とするが、海防艦2隻(第9号と第61号)は途中合流である。
- ^ 大井篤著『海上護衛戦』(角川文庫2014年)353頁では「神鷹の船団護衛はヒ81船団が最初」とするが、誤認。神鷹の初出撃は昭和19年7月のヒ69船団。
- ^ 『戦史叢書(第41巻)』470頁では秋津丸沈没による戦死者を2373名とする。
- ^ a b 大内健二によれば、戦死者数はあきつ丸と摩耶山丸を合わせてフィリピン行きの陸軍将兵だけで5483人に上る[22]。
- ^ 『戦史叢書(第41巻)』470頁では、摩耶山丸の陸軍兵は2295名と軍馬他、師団長西山福太郎陸軍中将含め人員約900名救助とする。
- ^ 『戦史叢書(第41巻)』503頁では、神州丸の高雄到着は28日とする。
- ^ 音羽山丸、ありた丸、御室山丸が沈没、橋立丸は高雄で船団離脱で、中型のぱれんばん丸のみが日本に到着している[38]。
- ^ 大井篤は盛祥丸(en)、江戸川丸、逢坂山丸および阿波川丸の名を挙げるが[23]、駒宮真七郎によれば、これらは後続のミ27船団の参加船である[39]。
- ^ a b c d e f 日本空母戦史818-819頁「ヒ八十一船団(昭和十九年十一月十四日、門司発)」
- ^ a b c d e f g h 護衛空母入門258-260頁「神鷹」
- ^ a b c d 戦史叢書93巻72-73頁「第二十三師団の海没」
- ^ a b c d 戦史叢書81巻469頁「第二十三師団の遭難」
- ^ 護衛空母入門247-249頁「大鷹」
- ^ a b c d 日本空母戦史817-818頁
- ^ 戦史叢書81巻323-324頁「スルアン島来攻」
- ^ 戦史叢書93巻51-52頁「レイテ増援輸送作戦を多号作戦と呼称」
- ^ 戦史叢書48巻424-425頁「十一月中旬後半、大本營のレイテ決戦遂行に対する自信動揺」
- ^ 戦史叢書81巻429-430頁「方面軍幕僚にレイテ地上決戦断念意見擡頭」
- ^ 戦史叢書81巻437-440頁「総司令官の比島作戦推移観察と大本営の指導」
- ^ 戦史叢書93巻69-70頁「現地陸軍部隊のレイテ決戦断念の意向と大本営の既定方針の堅持」
- ^ a b c d e f 戦史叢書41巻469-470頁「第二十三師団主力海難の報到る」
- ^ a b 戦史叢書48巻425-426頁「第二十三師団の輸送失敗とレイテ持久転移の直感」
- ^ a b c 戦史叢書81巻427-428頁「第二十三師団の第十四方面軍編入」
- ^ 戦史叢書41巻468-469頁「十七日の大本營陸海両部の合同と当時の状況」
- ^ a b c 駒宮(1987)、292-293頁。
- ^ a b 岩重(2011)、94頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所戦史室(1971)、380-382頁。
- ^ a b c d e f 日本空母戦史820-821頁
- ^ a b c d The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
- ^ 大内(2004)、227頁。
- ^ a b 大井(2001)、350-351頁。
- ^ a b c 航空母艦物語307-309頁「夜空をこがして(神鷹VSスペードフィッシュ)」
- ^ 大内(2004)、339頁。
- ^ a b 『第一海上護衛隊戦時日誌』、画像48枚目。
- ^ 海上護衛戦(角川文庫)354頁
- ^ 空母二十九隻325-326頁「神鷹(しんよう)」
- ^ a b c d 日本空母戦史822-823頁
- ^ 大内(2004)、228頁。
- ^ 海防艦激闘記、121-122頁「護衛空母「神鷹」艦長」
- ^ a b c 戦史叢書41巻487-488頁
- ^ 駒宮(1987)、300-301頁。
- ^ 戦史叢書41巻490頁「挿表 輸送と主要事項概見表」
- ^ a b c d e 戦史叢書41巻503頁「注、吉備津丸、神州丸に移載時の第二十三師団主力の惨状」
- ^ 駒宮(1987)、299-300頁。
- ^ 戦史叢書48巻426頁「比島方面兵力増強と参謀総長のレイテ決戦完遂意図開陳」
- ^ 駒宮(1987)、306-307頁。
- ^ a b 駒宮(1987)、293-294頁。
- 1 ヒ81船団とは
- 2 ヒ81船団の概要
- 3 結果と影響
- 4 編制
ヒ81船団
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詳細は「ヒ81船団」を参照 11月7日、「樫」は3日後に門司を出発して昭南に向かう予定のヒ81船団に加入される。第八護衛船団司令官佐藤勉少将が指揮するヒ81船団部隊は、空母「神鷹」、駆逐艦「樫」、海防艦(択捉、対馬、昭南、久米、大東、途中合流〈第9号、第61号〉)と、陸軍特殊船4隻(神州丸、あきつ丸、吉備津丸、摩耶山丸)、タンカー5隻、元特設水上機母艦「聖川丸」(川崎汽船、6,862トン)で構成され、レイテ島地上戦投入予定の第23師団輸送任務も兼ねていた。 ヒ81船団部隊の出港は11月14日に延期され、同日朝に伊万里湾を出発する。しかし、スパイに関する噂が船団中に広まるなど前途は多難であった。潜水艦出没情報により宇久島沖で待機の後、翌15日朝に上海沖に向かった。ところが、同日正午に陸軍特殊船「あきつ丸」(日本海運、9,186トン)がアメリカ潜水艦クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393) の雷撃により沈没した。珍島沖で待機の後再び航行を開始するが、11月17日には黄海にてアメリカ潜水艦ピクーダ (USS Picuda, SS-382) の雷撃で陸軍特殊船「摩耶山丸」(三井船舶、9,433トン)が沈没する。同17日夜には、アメリカ潜水艦スペードフィッシュ (USS Spadefish, SS-411) の雷撃で「神鷹」が沈没する。神鷹生存者は約60名であった。摩耶山丸や神鷹沈没時に護衛艦「昭南」や「対馬」が爆雷攻撃をおこなったが、沈没したアメリカ潜水艦はいなかった。 以後は被害なくタンカーと同行し、馬公を経由して12月4日にシンガポール(昭南)に到着した。陸軍特殊船はマニラにむかった。 「樫」がヒ81船団を護衛中の11月15日付で、日本海軍は松型駆逐艦「樫」「桑」「杉」「樅」「檜」により第52駆逐隊を編成した。第52駆逐隊司令には岩上次一大佐(海兵50期、当時第7駆逐隊司令)が任命されている。11月25日付で、第52駆逐隊は第五艦隊隷下の第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将・海兵40期)に編入された。
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ヒ81船団
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詳細は「ヒ81船団」を参照 11月、フィリピン防衛戦のため精鋭第23師団を緊急輸送する任務が、神州丸・あきつ丸(丙型)・摩耶山丸(甲型)・吉備津丸(甲型)の特種船に与えられた。日本軍はルソン島マニラ行き神州丸以下特種船々団と、本来のシンガポール行きタンカー複数隻により、ヒ81船団を編成した(指揮官は第八護衛船団司令官佐藤勉少将、旗艦「聖川丸」)。護衛には軽空母神鷹、松型駆逐艦樫、海防艦5隻(対馬、択捉、昭南、久米、大東)が就いた。 空母神鷹には対潜飛行部隊として第九三一海軍航空隊の九七式艦上攻撃機14機が搭載され、目視が可能な昼間には2機が常時飛行し哨戒と警戒にあたった。また神州丸・あきつ丸および護衛各艦も水中聴音機を使用し敵潜水艦を警戒していた。なお、当時の「あきつ丸」は対潜用護衛空母として改装後の姿であったが、護衛に神鷹があることと大規模な軍隊輸送のため対潜飛行部隊(独立飛行第1中隊・三式指揮連絡機)は陸揚げされ、飛行甲板や舟艇用格納庫には四式肉薄攻撃艇を、航空機格納庫には物資等を満載している。 11月14日、ヒ81船団は伊万里湾を出港した。11月15日正午頃、五島列島沖において、あきつ丸がアメリカ潜水艦(クイーンフィッシュ)の雷撃で炎上、沈没した。また17日18時に摩耶山丸が米潜水艦(ピクーダ)の雷撃で沈没した。同日23時には、神鷹が米潜水艦スペードフィッシュの雷撃で沈没した。これにより輸送部隊の半分を喪失、3隻合計で約6,200ないし6,700名が戦死した。
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