ヒ86船団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/20 05:22 UTC 版)
ヒ86船団(ヒ86せんだん)は、太平洋戦争後期の1945年1月に運航された、日本の護送船団。連合国軍のフィリピン反攻で南方航路が閉塞に向かうなか、有力な護衛の下に日本本土への石油輸送を試みたが、アメリカ海軍の機動部隊による空襲と遭遇し、護衛艦の一部を残して全滅した。日本の護送船団で最悪の被害を出した事例の一つに数えられ、日本が大規模船団方式の護衛戦術を放棄する転換点となった。
注釈
- ^ ヒ20船団など欠航となった便があるため、実際の運航順は通算86番目や復路43番目ではない。
- ^ 駒宮(1987)によれば、タンカーではない船にも石油製品が積んだものがあった。「建部丸」に航空用ガソリン、「第63播州丸」にドラム缶詰めなどの重油250トン、「優清丸」にも石油類800トンが積まれていたという[9]。
- ^ 第2遊撃部隊のうち第1海防隊(海防艦「千振」、「第17号」、「第19号」)だけはサンジャックに碇泊中で、12日の機動部隊の空襲で全滅した。第1海防隊は主力の給油準備のためタンカー「日栄丸」を護送してきたのだが、「日栄丸」は途中1月6日にアメリカ潜水艦「ベスゴ」により撃沈されてしまっていた[15][1]。
- ^ 戦史叢書は「永万丸」が最初に沈没したとする[16]。
- ^ サイゴンに碇泊していたヴィシー政権下のフランス海軍艦艇も同時に攻撃を受け、軽巡洋艦「ラモット・ピケ」などが沈没している[1]。
脚注
- ^ a b c d The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
- ^ 大井(2001)、224-225頁。
- ^ 岩重(2011)、94-95頁。
- ^ a b 日本海防艦戦史139-140頁『ベトナム沖の大出血(昭和二十年一月)』
- ^ 『第五艦隊(第二遊撃部隊)戦時日誌』、画像9枚目。
- ^ Morrison (1975) , p. 139.
- ^ a b c d e 防衛庁防衛研修所戦史室(1971)、466頁。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所戦史室(1971)、464頁。
- ^ a b c d e f g 駒宮(1987)、327-330頁。
- ^ a b c d 岩重(2011)、96頁。
- ^ 大井(2001)、360-362頁。
- ^ a b 大井(2001)、364頁。
- ^ a b c 日本海防艦戦史142頁
- ^ 『第五艦隊(第二遊撃部隊)戦時日誌』、画像12枚目。
- ^ 『第五艦隊(第二遊撃部隊)戦時日誌』、画像10、13枚目。
- ^ a b 防衛庁防衛研修所戦史室(1971)、465頁。
- ^ a b c d 日本海防艦戦史143-145頁
- ^ a b 大井(2001)、366-367頁。
- ^ 駒宮(1987)、334頁。
- ^ 大井(2001)、369頁。
- ^ 大井(2001)、368頁。
- ^ 防衛庁防衛研修所戦史室(1971)、553頁。
- ^ 大井(2001)、370頁。
- 1 ヒ86船団とは
- 2 ヒ86船団の概要
- 3 日本の資源輸送への影響
- 4 参考文献
- 5 関連項目
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