日本列島
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日本列島(にほんれっとう、にっぽんれっとう、英: Japanese Archipelago)は、ユーラシア大陸東端の沿岸沖、東アジアに位置、また太平洋北西の沿海部に位置する弧状列島の一つである[注釈 2]。範囲にはいくつかの説がある。日本列島は列島の名前であり、国家や領土とは独立した概念であるが、日本においては日本の領土を意味する語としても混同して使用されている。日本の領土としての日本列島については日本の地理を参照。
- 1 日本列島とは
- 2 日本列島の概要
日本列島
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「日本の獣肉食の歴史」も参照 日本列島では東京都港区の伊皿子貝塚から弥生時代の牛骨が出土したとされるが、後代の混入の可能性も指摘される。日本のウシは、中国大陸から持ち込まれたと考えられている。古墳時代前期にも確実な牛骨の出土はないが、牛を形象した埴輪が存在しているため、この頃には飼育が始まっていたと考えられている。古墳後期(5世紀)には奈良県御所市の南郷遺跡から牛骨が出土しており、最古の資料とされる。 当初から日本では役畜や牛車の牽引としての使用が主であったが、牛肉も食されていたほか、牛角・牛皮や骨髄の利用も行われていたと考えられている。675年に天武天皇は、牛、馬、犬、猿、鶏の肉食を禁じた。禁止令発出後もウシの肉はしばしば食されていたものの、禁止令は以後も鎌倉時代初期に至るまで繰り返して発出され、やがて肉食は農耕に害をもたらす行為とみなされ、肉食そのものが穢れであるとの考え方が広がり、牛肉食はすたれていった。8世紀から10世紀ごろにかけては酪や、蘇、醍醐といった乳製品が製造されていたが、朝廷の衰微とともに製造も途絶え、以後日本では明治時代に至るまで乳製品の製造・使用は行われなかった。 また、広島県の草戸千軒町遺跡出土の頭骨のない牛の出土事例などから頭骨を用いた祭祀用途も想定されており、馬が特定の権力者と結びつき丁重に埋葬される事例が見られるのに対し、牛の埋葬事例は見られないことが指摘されている。 古代の日本では総じて牛より馬の数が多かった。平安時代の『延喜式』では、東国すべての国で蘇が貢納されており、牛の分布の地域差は大きくなかったようである。ところが中世に入ると馬は東国、牛は西国という地域差が生まれた。東国では武士団の勃興に伴い馬が主体の家畜構成になったと考えられている。東西の地域差は明治時代のはじめまで続いており、明治初期の統計では、伊勢湾と若狭湾を結ぶ線を境として東が馬、西が牛という状況が見て取れる。 牛肉食は公的には禁忌となったものの、実際には細々と食べ続けられていたと考えられている。戦国時代にはポルトガルの宣教師たちによって牛肉食の習慣が一部に持ち込まれ、キリシタン大名の高山右近らが牛肉を振舞ったとの記録もあるものの、禁忌であるとの思想を覆すまでにはいたらず、キリスト教が排斥されるに伴い牛肉食は再びすたれた。江戸時代には生類憐みの令によってさらに肉食の禁忌は強まったが、大都市にあったももんじ屋と呼ばれる獣肉店ではウシも販売され、また彦根藩は幕府への献上品として牛肉を献上しているなど、まったく途絶えてしまったというわけではなかった。しかし、日本においてウシの主要な用途はあくまでも役牛としての利用であり続けた。 日本においてウシが公然と食されるようになるのは明治時代である。文明開化によって欧米の文化が流入する中、欧米の重要な食文化である牛肉食もまた流れ込み、銀座において牛鍋屋が人気を博すなど、次第に牛肉食も市民権を得ていった。また、乳製品の利用・製造も復活した。
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日本列島
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考古学的にはイヌ、ウマ、ウシ、ネコなどの動物は、先史時代にユーラシア大陸で家畜化され、列島に入ってきたと推定されている。その家畜史は、沿海州、中国、朝鮮半島、台湾などと関連があったと推察できる。 縄文時代には狩猟犬としての縄文犬が存在し、食用のためイノシシを訓化して飼養することも行われていたと考えられている。弥生時代に稲作農耕の導入に伴い、家畜化されたブタ・ニワトリが大陸から導入され、縄文犬とは別系統の弥生犬も導入される。古墳時代にはウマが導入され、古代にはウシが登場する。屠児という言葉があり、これは屠殺業者も示していた(『和名類聚抄』:牛馬を屠り肉を取り鷹雞の餌とするの義なり)。 『日本書紀』には「猪使連」という職が記述されており、古代には猪が飼育されていたという。
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日本列島
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「縄文土器」、「弥生土器」、「土師器」、「須恵器」、および「かわらけ」も参照 須恵器 坏の変遷 大阪府和泉市 いずみの国歴史館 展示。 煮沸具として日本で最初に登場したのが縄文土器である。「縄文」というのは、命名時には文字通り縄を転がして縄目文様をつけた土器が特徴的であったが、現代では時代名称に転化しており、すべての縄文時代の土器に縄文が施されているわけではない。縄文時代は土偶・石棒などの呪物、耳飾りなどの装身、地方色豊かな祭祀施設の発達など、採集経済段階においては最も内容豊かで高度な文化を発達させた社会であるといわれる。最初の縄文時代草創期の土器は丸底で無文のものが多く、早期には尖底土器や撚糸で施文した土器が現れる。前期になると深鉢形土器は平底が一般的になり、縄文を施文したものが多くなり、器種が大幅に増加する。中期になると、北陸地方の火焔土器などのように極めて装飾的な傾向が全国的に顕著になる一方、「ハレの器」である精製土器と「ケの器」である粗製土器の区別がいっそう明確になる。後期以降は、いっそう器種が増え、装飾的傾向は鎮まる一方で洗練さを増す。晩期には極めて精緻で工芸品的な亀ヶ岡土器(大洞式土器)が北海道を含む日本列島東半に広がり、近畿地方などにも伝播している。 弥生土器は、東京都文京区弥生町で最初に発見されたことによる名称で、当初は縄文時代の土器よりも薄手の土器として認識されていた。籾殻の圧痕をともなう弥生土器が各地で出土し、その際、炭化米をともなうことも多かったので稲作農耕の始まった時代の土器として位置づけられた。奈良県唐古・鍵遺跡からは農具とみられる大量の木器が出土し、静岡県登呂遺跡では水田跡そのものが検出された。水田跡は東北地方北部を北限として山間部や寒冷地でも見つかっており、稲作の本格的な展開を裏づけている。器種構成の面では、貯蔵のための壺、煮炊き用の甕が増加し、盛り付け用の鉢・高坏など器種構成の機能分化と再構成が図られた。深鉢形土器は縄文時代に比べて小型化の傾向を示すが、食糧を多量に加工し保存することが中心であった煮炊きのあり方から1回1回の食事を煮て食べる生活に変化したことの現れであるとの推測もなされている。弥生土器は、調整法などにおいて朝鮮半島の影響も受けるが、朝鮮半島の土器とも異なっており、各地の縄文土器をベースとしてそれが変化したものと考えられている。 土師器は縄文土器・弥生土器の流れを汲む日本在来の土器で、赤褐色で須恵器に比べると軟質の土器である。古墳時代から11世紀にかけて多くつくられた。窯を用いず野焼きに近い焼き方をしたため、焼成温度は低く、器体の赤褐色は大量の酸素が供給されて燃焼したこと(酸化炎焼成)によるものである。氏姓制度において土師器製作を担当する部(専業者)の集団を「土師部(はじべ)」と呼び、埴輪も土師部により土師器の製法でつくられた。弥生土器との比較で大きく異なるのは、土器の斉一性(地域性の消失)という点である。7世紀以降は、仏具として佐波理製の銅器がもたらされるが、土師器や須恵器の形態にも大きな影響を与えた。土師器は、庶民もふくむ一般的な使用が多いが、律令制度が整備されるに従い須恵器工人との交流が生まれ、ロクロ使用が採り入れられる。しかし、手づくね土器には独特の祭祀的意味が付加され、これが中世以降のかわらけにつながっている。 須恵器は、朝鮮半島とくに伽耶から技術を導入した土器で、ロクロを用いて作られ、密閉された窯で還元炎焼成された灰色の硬質の土器である。古墳時代から11世紀にかけて多く作られ、坏・高坏、壺・長頸壺、平瓶・提瓶・横瓶、埦(まり)、𤭯(はそう)、器台・盤など、器形は変化に富んでいる。担当する部は「陶作部(すえつくりべ)」である。焼く技術(窯)と作る技術(ロクロ)は一連のものとして同時に日本に入ってきたものである。窯は窖窯(あながま)で、斜面にトンネルをつくって焼成のための部屋を設けたものであり、これにより硬質で水漏れのしない土器の大量生産が可能となった。ロクロを用いた製作技術には底部円盤作り、風船技法、底部円柱作りなどがあり、器種としては食事用のもの、特に蓋付のものが増加した。すでに歴史時代に入っており、日本各地から器面に墨で文字を書いた土器(墨書土器)が出土している。一方では、官衙遺跡などにおいては、割れた須恵器の破片が硯に転用されること(転用硯)も少なくなかった事実が判明している。律令制度が定着するに従い土師器工人との交流が生まれて相互の技術交流がなされるようになった。土師器にくらべ支配階級や官人の使用が多いとされている。ただ、『正倉院文書』のなかに土器の器種別の価格表を記録した文書があるが、それによれば須恵器と土師器の間の価格差はほとんどなく、蓋付のものはないものに比較しておよそ倍の価格がついている。なお、律令国家の研究においては宮廷や官司が使う工業製品を作る「官営工房」についての議論がされているが、須恵器を中心とした土器に関しては儀式や神事・仏事に用いる高級品はそうした工房で作られたと考えられる一方で、通常使う物は調を介在させた租税としての徴収や交易を介在させた民間からの購入で賄っていたとみられている。須恵器は、珠洲焼、常滑焼、瀬戸焼など中世陶器へとつながる土器である。 中世土器であるかわらけは瓦器に類似し、製法も似通っているため、この名があり、「土師器の末裔」という性格を持つ。多く酒杯などとして用いられて一括廃棄され、平泉、京都、鎌倉などの都市遺跡では大量に出土するが、それ以外の場所ではほとんど出土しない。現代でも一部の神社などの祭祀で御神酒をいただく際の使い捨ての酒杯として残る。かわらけはまた、まれにではあるが、燈明皿としても用いられた。 縄文前期の片口付深鉢形土器(埼玉県出土、関山式) 縄文中期の深鉢形土器(新潟県出土、馬高式) 縄文後期の注口土器(東北地方出土、十腰内式) 縄文後期の壺形土器(東北地方出土、十腰内式) 縄文後期の巻貝形土製品(新潟県出土) 縄文後期の人形装飾付異形注口土器(北海道出土) 縄文晩期の鉢形土器(出土地不明、赤漆塗彩) 縄文晩期の注口土器(出土地不明、大洞式) 弥生時代の脚付甕(愛知県出土) 弥生時代の甕(出土地不明) 古墳時代の埴輪「挂甲武人」(群馬県出土) 古墳時代の須恵器(和歌山県出土):左が家形容器、右が脚付短頸壺 古墳時代後期の須恵器横瓶(出土地不明) 古墳時代の須恵器長頸壺(出土地不明、自然釉がかかる) 古墳時代の須恵器環状瓶(広島県出土)
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日本列島
「日本列島」の例文・使い方・用例・文例
- 日本列島
- 日本列島を占める立憲君主国
- 妹の伊邪那美とともに日本列島と神々を生んだ神
- 日本列島太平洋沿岸に連なる地震多発地域
- 外帯という,日本列島の太平洋側の地域
- 南方から日本列島に舌状に入ってくる,湿った気流
- 日本列島を中央構造線で分けた時の日本海側の地帯
- 日本列島という列島
- 本州という,日本列島の中の最大の島
- KAIKOという,日仏共同の日本列島沿いの深海底調査
- 日本海流という日本列島に沿って太平洋を北上する暖流
- 日本列島の日本海側地域
- セーリングカヌーに乗って,日本列島に沿って旅をするのだ。
- 沖縄戦は第二次世界大戦中,日本列島で戦われた唯一の地上戦であり,約3か月続いた。
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