サンフランシスコ‐こうわじょうやく〔‐カウワデウヤク〕【サンフランシスコ講和条約】
サンフランシスコ平和条約(さんふらんしすこへいわじょうやく)
1951年9月8日、サンフランシスコで第二次世界大戦の講和会議が開かれた。この場所で、第二次吉田内閣は世界49カ国との間に平和条約を調印した。この条約により、日本は主権を回復した。第二次大戦後、日本は連合軍の占領下にあったのだが、それがやっと終わることになった。
このさい、朝鮮の独立、台湾・千島・南樺太の放棄を、日本は承認した。沖縄、奄美、小笠原諸島についてはアメリカが統治を続けることになった。
さて、当時は冷戦が激化していた時代だ。ソ連とアメリカは、間柄が極めて悪くなっていた。このため、日本は、ソ連や中国とは平和条約を締結できなかった。つまり、サンフランシスコ平和条約は、社会主義諸国を除く諸国との調印だったのだ。
これに関し、日本国内でも「全面講和」がいいのか、それとも「多数講和」がいいのかで意見が分かれていた。
「全面講和」というのは「ソ連も含めてすべての国と平和条約を締結する」というものだ。これを望んでいたのは、共産党などの左翼的文化人のグループだ。このグループは国会乱闘など、激しく主張を展開した。
対して、「多数講和」は「ソ連ぬきでもいいじゃないか」というものだ。吉田内閣などの与党がこちらを目指した。結果的には、吉田内閣は反対論を押しきって条約を調印した。
(2000.10.14掲載)
日本国との平和条約
(サンフランシスコ平和条約 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 01:51 UTC 版)
日本国との平和条約(にっぽんこくとのへいわじょうやく、英語: Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)は、1951年9月8日に第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約。通称はサンフランシスコ平和条約。サンフランシスコの英語の頭文字(San Francisco)を取ってSF条約とも呼ばれる)。
注釈
- ^ 写真上から順に一万田尚登(日本銀行総裁)、徳川宗敬(参議院緑風会)、星島二郎(自由党)、苫米地義三(国民民主党)、池田勇人(蔵相)。一番手前側にいる背広の人物は不明(全権委員ではない)。
- ^ 第1条(b)
- ^ 日本語では「及び」と「並びに」の違いがわかりにくいが、英文では明解で“DONE at the city of San Francisco this eighth day of September 1951, in the English, French, and Spanish languages, all being equally authentic, and in the Japanese language”(太字編者)となっている。この太字の文言が「ひとしく正文である」にあたり、仮に日本語も正文だとするとこの部分は文章の最後に来ることになる。
- ^ アラビア語が国連公用語に加わるのは後になってからのことである。
- ^ 中国を代表する政府として中華人民共和国と中華民国のいずれを招へいするか連合国内で意見が一致しなかったため、いずれも招へいされなかった。
- ^ これによればそれ以前に始まっていた日中戦争(支那事変)は含まれない
- ^ アメリカはこれにより日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧)、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(現行)を締結して在日米軍を駐留させ現在に至る。「吉田・アチソン交換公文」で朝鮮国連軍も対象。
- ^ 独島と波浪島の位置について問われた韓国大使は「大体鬱陵島の近くで日本海にある小島である」と返答。(しかしその後の米調査では「ワシントンの総力を挙げた」("tried all resources in Washington")にも関わらず、これらの島を発見することはできなかった。その後、独島については竹島に同定されることになったが、波浪島は現在に至るまで発見されていない。)ダレス米大使はこれらの島が日本の併合前から韓国の領土であったかと尋ねたところ、韓国大使はこれを肯定、ダレスはもしそうであればこれらの島を日本の放棄領土とし韓国領とするに問題はないと答えた。
- ^ 訓読文では「学を曲げ世に阿る」、つまり「世間に迎合するため、学問的真理を曲げる」という意味
- ^ この時の池田訪米に秘書官として同行した宮澤喜一の述懐による。
- ^ なお「War Memorial」は「戦没者追悼記念」ではなく、正確には「第一次世界大戦従軍兵記念」を意味する。また日本語での一般的な表記は現地・日本ともに「サンフランシスコ・オペラハウス」「ウォーメモリアル・オペラハウス」または単に「オペラハウス」。
- ^ オーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、インドネシア、オランダ、ニュー・ジーランド、パキスタン、フィリピン、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国。
- ^ セイロンが批准書を寄託した旨の1952年5月10日付け外務省告示第14号は、セイロンが1952年4月28日のアメリカ合衆国東部標準時で13時30分に批准書を寄託した旨を告示するのみで発効日については言及していない。
- ^ 1989年に廃止・閉鎖。跡地はゴールデンゲート国立レクリエーション地域の一部になっている
- ^ この条約は、日本国を含めて、これに署名する国によつて批准されなければならない。この条約は、批准書が日本国により、且つ、主たる占領国としてのアメリカ合衆国を含めて、次の諸国、すなわちオーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、インドネシア、オランダ、ニュー・ジーランド、パキスタン、フィリピン、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国の過半数により寄託された時に、その時に批准しているすべての国に関して効力を生ずる。この条約は、その後これを批准する各国に関しては、その批准書の寄託の日に効力を生ずる。
- ^ サンフランシスコ講和条約ではマッカーサー・ラインも廃止される予定であった。
出典
- ^ 正文の項参照
- ^ 日本国との平和条約及び関係文書 (日本法令索引)
- ^ ブラウンリー 1992, p. 121
- ^ ブラウンリー 1992, p. 100
- ^ Wikisourceの竹島に関するサンフランシスコ平和条約草案の変遷(英語)参照。
- ^ United States Department of State (1976) (英語). Foreign relations of the United States, 1949. The Far East and Australasia (in two parts). Volume VII, Part 2. pp. pp. 898-900(アメリカ合衆国国務省『合衆国の外交関係:1949年』―「極東とオーストララシア」、1976年)
- ^ 最大判昭和36年4月5日民集15巻4号657頁
- ^ 最大判昭和37年12月5日刑集16巻12号1661頁
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年
- ^ a b c d e 伊藤祐子「日米安保体制の50年-日米安全保障政策と日本の安全保障観の変容」亜細亜大学国際関係紀要第11巻第1号,2001年
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- ^ 1951年 サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約の調印(法学館憲法研究所)
- ^ a b 都留重人「講和と平和」『世界』1951年10月号
- ^ KOTOBANK全面講和愛国運動協議会(世界大百科事典)、日立ソリューションズ。
- ^ 『岩波書店と文藝春秋』(毎日新聞社1995年)p52-57.
- ^ a b c d クリック20世紀「吉田首相、南原東大総長の全面講和論を「曲学阿世」論と非難」 2013年1月27日閲覧。信夫清三郎『戦後日本政治史Ⅳ』勁草書房,p.1112
- ^ 『文藝春秋』1952年1月号
- ^ 竹内洋『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年。ISBN 9784120043000。p86
- ^ 竹内洋『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年。ISBN 9784120043000。p100
- ^ 「講和問題に関する吉田茂首相とダレス米大使会談,日本側記録」東大東洋文化研究所田中明彦研究室「サンフランシスコ平和会議関連資料集」所収。原資料は外務省、外交史料館所蔵。
- ^ 朝日新聞1951年8月17日
- ^ a b 中村麗衣「日印平和条約とインド外交」(PDF)『史論』第56号、東京女子大学学会史学研究室 / 東京女子大学史学研究室、2003年、pp.56-73、NAID 110007411152。
- ^ 「対日講和問題に関する周恩来中国外相の声明」 東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室「サンフランシスコ平和会議関連資料集」所収。外務省アジア局中国課監修「日中関係基本資料集」p19-25.
- ^ s:韓国政府の要求に対する1951年5月9日付米国側検討意見書, 4. 在日韓国人は連合国国民の地位を与えられるべき.
- ^ エモンズによる会談覚書、および竹島問題参照。
- ^ United States Department of State (1951). United States Department of State / Foreign relations of the United States, 1951. Asia and the Pacific (in two parts). VI, Part 1. pp. p. 1296
- ^ 塚本孝「韓国の対日平和条約署名問題」『レファレンス』 494巻、国立国会図書館調査立法考査局、1992年3月、95-101頁。
- ^ アメリカ占領下の日本 第4巻 アメリカン・デモクラシー企画・制作:ウォークプロモーション NPO法人科学映像館
- ^ 吉田茂参照
- ^ (外務省 外交史料 Q&A 昭和戦後期)。原稿は、外務省(1970年118~122ページ)、田中(刊日不明)で閲覧可。
- ^ 昭和27年4月28日付内閣告示第1号、昭和27年4月28日付外務省告示第10号
- ^ 〔備考〕外交関係の回復に関する書簡について - 外務省
- ^ 1952年(昭和27年)8月5日発効。
- ^ 日本国とビルマ連邦との間の平和条約 - 外務省
- ^ a b Dr. Manmohan Singh's banquet speech in honour of Japanese Prime Minister Archived 2005年12月12日, at the Wayback Machine. National Informatics Centre Contents Provided By Prime Minister's Office April 29, 2005
- ^ a b 1956年8月15日付け官報第8890号付録資料版、1972年3月8日付け官報第13561号付録資料版
- ^ 日本国とインドネシア共和国との間の平和条約 - 外務省
- ^ 日本国とチェッコスロヴァキア共和国との間の国交回復に関する議定書 - 外務省
- ^ 日本国とポーランド人民共和国との間の国交回復に関する協定 - 外務省
- ^ 1953年7月1日付け官報第7945号付録資料版
- ^ 1953年7月1日付け官報第7945号付録資料版、1972年3月8日付け官報第13561号付録資料版
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- ^ a b 米原謙「日本型社会民主主義の思想――社会党左派理論の形成と展開」 大阪大学大学院国際公共政策研究科, 2002
- ^ “対日講和発効60年/人権蹂躙を繰り返すな 許されぬ米軍長期駐留”. 琉球新報. (2012年4月28日) 2012年11月25日閲覧。
- ^ “沖縄の40年<屈辱の日>”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2012年5月1日) 2012年11月25日閲覧。
- ^ 「対日講和 50年の意味」『朝日新聞』2001年9月6日
- ^ “戦後50年メモリアルシリーズ 第1集郵便切手”. 日本郵趣協会. 2012年6月5日閲覧。
- ^ サンフランシスコ平和条約50周年記念郵便切手
- ^ “自民有志、「4月28日」主権回復記念日議連を設立 サンフランシスコ平和条約発効”. MSN産経ニュース(産経新聞). (2011年2月25日) 2011年3月6日閲覧。
- ^ a b イリナ・イワノワ (2012年11月15日). “反日統一共同戦線を呼びかける中国” (日本語). ロシアの声 2012年11月25日閲覧。[1][リンク切れ]
サンフランシスコ平和条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 08:16 UTC 版)
「千島列島」の記事における「サンフランシスコ平和条約」の解説
日本は第二次世界大戦に敗北し、1951年(昭和26年)9月8日に連合国諸国との講和条約であるサンフランシスコ平和条約を締結した。同条約によって日本は『千島列島』を放棄した。 そのため、もし4島が『千島列島』に含まれる場合には、日本は4島の領有権を放棄したことになる。一方で含まれない場合には、日本は領有権を放棄していないことになる。 その「千島列島を放棄する」旨の文言について、日本国政府は1951年当時、『千島列島』の範囲には国後島・択捉島が含まれると説明している 。一方で、「色丹島および歯舞諸島は北海道の一部を構成する"属島"」 と解釈している。 しかし、この説明は1956年2月に撤回され、 日本国政府は「サンフランシスコ平和条約にいう千島列島のなかにも(国後島と択捉島の)両島は含まれない」と述べた。 以降、2021年現在まで日本政府は「北方四島は千島列島には含まれず、日本は放棄していない」と主張している。 ただし、ソビエト連邦および現ロシア連邦はそのサンフランシスコ平和条約への署名を拒否し、調印していない。
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サンフランシスコ平和条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:04 UTC 版)
朝鮮戦争勃発により内外で高まった講和促進機運により、1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結。また同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(日米安保)を結んだ。国内では全面講和論の支持者も少なくなく、吉田は政治生命を賭けて平和条約の調印に臨んだが、帰国後の内閣支持率は戦後最高の58%(朝日新聞)に上った。しかし、ここが吉田の頂点であった。 側近の白洲次郎などが独立達成を花道とした退陣を勧めるなど退陣論もあったが、吉田はなおも政権に意欲を見せ、続投した。しかし、党内に公職追放を解かれた鳩山一郎を総裁に復帰させる動きがあり、吉田は衆議院を解散(抜き打ち解散)したが、自由党の議席は過半数をわずかに上回るものだった。吉田は第4次吉田内閣を組織した。1953年(昭和28年)2月、吉田の国会で質問者(西村栄一)に対し「バカヤロー」と発言したことが問題となり、三木武吉ら反吉田グループは吉田に対する懲罰事犯やそれに続く内閣不信任案を可決させ、吉田は衆議院解散(バカヤロー解散)で対抗した。選挙の結果、自由党は少数与党に転落、改進党との閣外協力で第5次吉田内閣を発足させて延命を繋いだ。吉田内閣は鳩山グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。 1954年(昭和29年)1月から強制捜査が始まった造船疑獄では、犬養健(法務大臣)を通して、検事総長に佐藤栄作(幹事長)の収賄罪の逮捕を延期させた(後に佐藤は政治資金規正法違反で在宅起訴されるが国連加盟恩赦で免訴となる)。これが戦後唯一の指揮権発動である。当然ながら、新聞等に多大なる批判を浴びせられた。また、同年6月3日の警察庁及び道府県警察を設置する警察法全面改正をめぐる混乱では、議長堤康次郎に議院警察権を発動させて国会に警官隊を初めて投入した。同年7月1日には保安庁と保安隊を防衛庁と自衛隊に改組させており、野党が自衛隊は軍隊であるとして違憲と追及した際は吉田は「軍隊という定義にもよりますが、これにいわゆる戦力がないことは明らかであります」と答弁した。自身の体験から来る極端な軍隊アレルギーが放たせたともされている。同年12月、野党による不信任案の可決が確実となると、なおも解散で対抗しようとしたが、緒方竹虎ら側近に諌められて断念し、12月7日に内閣総辞職、翌日に自由党総裁を辞任した。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。内閣総理大臣在任期間は2616日。 造船疑獄では吉田自身が国会から証人喚問を複数回要求されたが、公務多忙や病気を理由に出頭しなかった。国会から議院証言法違反(不出頭罪)で告発されるも、吉田が首相を退いた後である1955年5月19日に検察は不起訴処分とした。
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サンフランシスコ平和条約
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「日中戦争」の記事における「サンフランシスコ平和条約」の解説
朝鮮戦争中の1951年9月8日にサンフランシスコで調印された日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)で連合国は全ての賠償請求権を放棄するとされた。しかし、国共内戦の敗北によって蔣介石ら中華民国国民党は1949年12月に台湾に移転し、同時に中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言しており、二国に分かれていた両国は、アメリカが中華民国を、イギリスが中華人民共和国を別々に承認することもあって、不参加となった。また日本は平和条約にしたがって連合国に以下賠償した。 フィリピンに5億5千万ドル ベトナムに3900万ドル相当の役務と生産物 連合国領域内の約40億ドル(日本円で1兆4400億円、昭和26年での一般会計歳入は約8954億円)の日本人資産は連合国に没収され、収益は各国国民に分配。 中立国および連合国の敵国にある財産と等価の資金として450万ポンドを赤十字国際委員会に引き渡し、14国合計20万人の日本軍元捕虜に分配。 日本財産は朝鮮702億5600万円、台湾425億4200万円、中華民国東北1465億3200万円、華北554億3700万円、華中華南が367億1800万円、その他樺太、南洋など280億1400万円、合計3794億9900万円が連合国に引き渡された。 1945年8月5日の外務省調査では日本の在中華圏資産は、中華民国921億5500万円、満州1465億3200万円、台湾425億4200万円で合計2812億2900万円で、これは現在[いつ?]の価値で56兆2458億円となる(企業物価指数戦前基準)。 このように連合国国内のみならず、中国、台湾、朝鮮にあった一般国民の在外資産まで接収され、さらに中立国にあった日本国民の財産までもが賠償の原資とされた「過酷な負担の見返り」として、請求権が放棄された。
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