サンフランシスコ平和条約締結
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「竹島問題」の記事における「サンフランシスコ平和条約締結」の解説
1951年に締結された日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の第2条(a)項において、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とあり竹島を日本の放棄する島から除外している。 韓国の主張の概略日本の主張の概略竹島を日本から切り離すことは連合国側共通の了解事項であり、1946年1月に出されたGHQのSCAPIN 677号で竹島の除外が明記されている。また1946年6月に出されたマッカーサー・ラインを示すSCAIN 1033では竹島周囲12海里以内を日本の操業区域から除外している。 1946年1月に出されたSCAPIN 677には「この指令中のいかなる規定もポツダム宣言の第八条に述べられている諸諸島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」とあり、SCAPIN 1033にも「この認可は、関係地域またはその他どの地域に関しても、日本の管轄権、国際境界線または漁業権についての最終決定に関する連合国側の政策の表明ではない」との文言が盛り込まれている。従って、SCAPIN 677、1033によって除外されていた日本の島々(小笠原諸島、奄美群島、琉球諸島)は、後にアメリカより返還されている。SCAINはアメリカの対日占領政策の一時的措置である。 SCAPIN 677 にある「この指令中のいかなる規定もポツダム宣言の第八条に述べられている諸諸島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」との文や、SCAPIN 1033の「この認可は、関係地域またはその他どの地域に関しても、日本の管轄権、国際境界線または漁業権についての最終決定に関する連合国側の政策の表明ではない」との文は、必要あれば修正することができる可能性を残したものに過ぎず、その後、竹島を日本領と修正した指令は発表されていない。この規定は最終決定ではないとされるが、サンフランシスコ条約はこの決定を継承した。継承しなかったならば、竹島は日本領になったという明記が必要であった。 1946年の日本とGHQとの会談の中で、GHQはSCAPIN 677について「鬱陵島は第二十四軍団の指揮下に在り従って本指令に依る日本の範囲の決定は何等領土問題とは関連を有せす之は他日講和会議にて決定さるへき問題なり」と回答している。 アメリカ駐日政治顧問シーボルドは当時占領国であった日本には正式な大使を置けないために政治顧問という肩書であったが、事実上その後の駐日米国大使の役割を担った。当時の吉田茂内閣は、このシーボルドに対して徹底的なロビー工作を行ったとされる。シーボルドの妻が日系人であったことが、彼に対する日本政府のロビーをより促進させる要素にもなったという。シーボルドは日本側のロビー活動により、さらに竹島が日本領土となればそこに日本がレーダー基地や気象観測基地を米国のために建てるという約束を受け入れ、竹島を日本領にすることが米国の国益に一致するという点で日本政府の要求を受け入れた。シーボルドが竹島を日本領土とすべしという電報を米国国務省に送ったのは、外交交渉から韓国が除外されていた間に起きた日米間の密約に過ぎない。また、これが竹島が日本領となったという決定的な証拠にはならない。なぜなら韓国には3000以上の小島が存在するが、そのすべてが韓国領土条項には記載されなかったからである。英国が1951年4月に作成した草案には竹島が日本の領土から明確に除外されている。連合国の中で当時一時的に竹島を日本領と主張したのは米国だけであり、英国、オーストリア、ニュージーランドなどの英連邦諸国は、竹島を韓国領とする英国草案を支持していた。 アメリカ駐日政治顧問シーボルドからバターワース国務次官補への1949年11月14日付電報で「リアンクール岩(竹島)の再考を勧告する。これらの島への日本の主張は古く、正当なものと思われる。安全保障の考慮がこの地に気象およびレーダー局を想定するかもしれない」と指摘し、「朝鮮方面で日本がかつて領有していた諸島の処分に関し、リアンクール岩(竹島)が我々の提案にかかる第3条において日本に属するものとして明記されることを提案する。この島に対する日本の領土主張は古く、正当と思われ、かつ、それを朝鮮沖合の島というのは困難である。また、アメリカの利害に関係のある問題として、安全保障の考慮からこの島に気象およびレーダー局を設置することが考えられるかもしれない」との正式な文書による意見書の提出を受け、1949年12月29日付サンフランシスコ講和条約草案では日本の領土に竹島が含まれることを明記している。 1951年6月20日には駐韓米軍ジョン・B・コウルター中将が書信を通じて大韓民国の張勉国務総理に米空軍がこの島を訓練用で使えるようにしてくれと要請した。7月7日駐韓米第8軍陸軍副司令官室が駐韓米司令官に送った報告書に“張勉総理だけでなくこの島を管轄する内務長官もこれを承認した”と言及している。これは米国が竹島=独島を韓国領と認めていた証拠である。 駐韓米軍の要請は、当時竹島周辺はマッカーサー・ラインにより日本の施政権から一時的に外されていたので、ここに入ってくる韓国人に対し排除を要請したに過ぎない。1952年4月のサンフランシスコ平和条約発効によりマッカーサーラインは廃止、1952年7月には日米安保条約に基づく行政協定において竹島を爆撃演習地とすることが日米間で合意されている。 米国国務省のディーン・ラスク次官補が、1951年8月10日付で在米韓国大使館宛に送った書簡は、連合国の承認を受けていない米国のみの見解である。従って、この書簡は連合国の決定とは見なせず、サンフランシスコ条約の結論とは見做せない。 1951年、韓国政府は米国政府へ、竹島と波浪島(実在しない島)を日本が放棄する領土とすることを要望するが、同年8月10日、米国政府の国務次官補 ディーン・ラスクは、竹島は日本領であることを韓国政府に最終的な回答として提示している。 1951年9月8日に署名されたサンフランシスコ平和条約は、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定しているが、その他の付属島ついてまでは述べられていない。竹島(独島)は古来より鬱陵島の属島であるので、連合国は韓国領であることを認めている。 サンフランシスコ平和条約において、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定しており、「竹島」を日本が放棄する地域に含めていない。
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