講和会議
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講和会議の公式会場はメイン州キタリーに所在するポーツマス海軍工廠86号棟であった。海軍工廠(ポーツマス海軍造船所)はピスカタカ川の中洲にあり、水路の対岸がニューハンプシャー州ポーツマス市である。日本とロシアの代表団は、ポーツマス市に隣接するニューカッスル(英語版)のホテルに宿泊し、そこから船で工廠に赴いて交渉を行った。 交渉参加者は以下の通りである。 日本側 全権委員:小村寿太郎(外務大臣)、高平小五郎(駐米公使) 随員:佐藤愛麿(駐メキシコ弁理公使)、山座円次郎(外務省政務局長)、安達峰一郎(外務省参事官)、本多熊太郎(外務大臣秘書官)、落合謙太郎(外務省二等書記官)、小西孝太郎(外交官補)、立花小一郎陸軍大佐(駐米公使館付陸軍武官)、竹下勇海軍中佐(駐米公使館付海軍武官)、ヘンリー・デニソン(外務省顧問) ロシア側 全権委員:セルゲイ・ウィッテ(元蔵相・伯爵)、ロマン・ローゼン(駐米大使、開戦時の駐日公使) 随員:ゲオルギー・プランソン(ロシア語版)(外務省条約局長)、フョードル・フョードロヴィチ(ペテルブルク大学国際法学者・外務省顧問)、イワン・シポフ(ロシア語版)(大蔵省理財局長)、ニコライ・エルモロフ(ロシア語版)陸軍少将(駐英陸軍武官)、ウラジーミル・サモイロフ(ロシア語版)陸軍大佐(元駐日公使館付陸軍武官)、イリヤ・コロストウェツ(ロシア語版)(ウィッテ秘書、後に駐清公使)、コンスタンチン・ナボコフ(ロシア語版)(外務省書記官) 講和会議は、1905年8月1日より17回にわたって行われた。8月10日からは本会議が始まった。また、非公式にはホテルで交渉することもあった。 8月10日の第一回本会議冒頭において小村は、まず日本側の条件を提示し、逐条それを審議する旨を提案してウィッテの了解を得た。小村がウィッテに示した講和条件は次の12箇条である。 ロシアは韓国(大韓帝国)における日本の政治上・軍事上および経済上の日本の利益を認め、日本の韓国に対する指導、保護および監督に対し、干渉しないこと。 ロシア軍の満州よりの全面撤退、満州におけるロシアの権益のうち清国の主権を侵害するもの、または機会均等主義に反するものはこれをすべて放棄すること。 満州のうち日本の占領した地域は改革および善政の保障を条件として一切を清国に還付すること。ただし、遼東半島租借条約に包含される地域は除く。 日露両国は、清国が満州の商工業発達のため、列国に共通する一般的な措置の執行にあたり、これを阻害しないことを互いに約束すること。 ロシアは、樺太および附属島、一切の公共営造物・財産を日本に譲与すること。 旅順、大連およびその周囲の租借権・該租借権に関連してロシアが清国より獲得した一切の権益・財産を日本に移転交附すること。 ハルビン・旅順間鉄道とその支線およびこれに附属する一切の権益・財産、鉄道に所属する炭坑をロシアより日本に移転交附すること。 満州横貫鉄道(東清鉄道本線)は、その敷設にともなう特許条件にしたがい、また単に商工業上の目的にのみ使用することを条件としてロシアが保有運転すること。 ロシアは、日本が戦争遂行に要した実費を払い戻すこと。払い戻しの金額、時期、方法は別途協議すること。 戦闘中損害を受けた結果、中立港に逃げ隠れしたり抑留させられたロシア軍艦をすべて合法の戦利品として日本に引き渡すこと。 ロシアは極東方面において海軍力を増強しないこと。 ロシアは日本海、オホーツク海およびベーリング海におけるロシア領土の沿岸、港湾、入江、河川において漁業権を日本国民に許与すること。 それに対してウィッテは、8月12日午前の第二回本会議において、2.3.4.6.8.については同意または基本的に同意、7.については「主義においては承諾するが、日本軍に占領されていない部分は放棄できない」、11.については「屈辱的約款には応じられないが、太平洋上に著大な海軍力を置くつもりはないと宣言できる」、12.に対しては「同意するが、入江や河川にまで漁業権は与えられない」と返答する一方、5.9.10については、不同意の意を示した。この日は、第1条の韓国問題についてさらに踏み込んだ交渉がなされた。ウィッテは、日露両国の盟約によって一独立国を滅ぼしては他の列強からの誹りを受けるとして、これに反対した。しかし、強気の小村はこれに対し、今後、日本の行為によって列国から何を言われようと、それは日本の問題であると述べ、国際的批判は意に介せずとの姿勢を示した。ウィッテも譲らず、交渉は初手から難航した。これをみてとったロマン・ローゼンは、この議論を議事録にとどめ、ロシアが日本に抵抗した記録を残し、韓国の同意を得たならば、日本の保護権確立を進めてもよいのではないかという妥協案をウィッテに示した。小村もまた、韓国は日本の承諾がなければ、他国と条約を結ぶことができない状態であり、すでに韓国の主権は完全なものではないと述べた。ウィッテは小村の主張を聞いて、ローゼンの妥協案を受け入れた。こうして、1.についても同意が得られた。 8月14日の第3回本会議では第2条・第3条について話し合われ、難航したものの最終的に妥結した。15日の第4回本会議では第4条の満州開放問題が日本案通りに確定され、第5条の樺太割譲問題は両者対立のまま先送りされた。16日の第5回本会議では第7条・第8条が討議され、第7条は原則的な、第8条は完全な合意成立に至った。 8月17日の第6回本会議、18日の第7回本会議では償金問題を討議したが、成果が上がらず、小村全権の依頼によって、かねてより渡米し日本の広報外交を担っていた金子堅太郎がルーズベルト大統領と会見して、その援助を求めた。ルーズベルトは8月21日、ニコライ2世あてに善処を求める親電を送った。 8月23日の第8回本会議では、ウィッテは小村に対し「もしロシアがサハリン全島を日本にゆずる気があるならば、これを条件として、日本は金銭上の要求を撤回する気があるか」という質問をなげかけた。ロシアとしては、これをもし日本が拒否したならば、日本は金銭のために戦争をおこなおうとする反人道的な国家であるという印象を世界がいだくであろうと期待しての問いであった。それに対し、小村は樺太はすでに占領しており、日本国民は領土と償金の両方を望んでいると応答した。ルーズベルトは日本に巨大な償金の要求をやめよと声をかけた。 ルーズベルトは再び斡旋に乗りだしたが、ニコライ2世から講和を勧める2度目の親書の返書を受け取ったとき「ロシアにはまったくサジを投げた。講和会議が決裂したら、ラムスドルフ外相とウィッテは自殺して世界にその非を詫びなければならぬ」と口荒く語ったといわれている。8月26日午前の秘密会議も午後の第9回本会議も成果なく終わった。しかし、このとき高平との非公式面談の席上、ロシアは「サハリン南半分の譲渡」を示唆したといわれる。しかし、小村らはロシアは毫も妥協を示さないとして、談判打ち切りの意を日本政府に打電した。 政府は緊急に元老および閣僚による会議を開き、8月28日の御前会議を経て、領土・償金の要求を両方を放棄してでも講和を成立させるべし、と応答した。全権事務所にいた随員も日本から派遣された特派記者もこれには一同たいへんな衝撃を受けた。 これに前後して、ニコライ2世が樺太の南半分は割譲してもよいという譲歩をみせたという情報が同盟国イギリスから東京に伝えられたため、8月29日午前の秘密会議、午後の第10回本会議では交渉が進展し、南樺太割譲にロシア側が同意することで講和が事実上成立した。これに先だち、ウィッテはすでに南樺太の割譲で合意することを決心していた。第10回会議場から別室に戻ったウィッテは「平和だ、日本は全部譲歩した」とささやき、随員の抱擁と接吻を喜んで受けたといわれている。 アメリカやヨーロッパの新聞は、さかんに日本が「人道国家」であることを賞賛し、日本政府は開戦の目的を達したとの記事を掲載した。皇帝ニコライ2世は、ウィッテの報告を聞いて合意の成立した翌日の日記に「一日中頭がくらくらした」とその落胆ぶりを書き記しているが、結局のところ、ウィッテの決断を受け入れるほかなかった。9月1日、両国のあいだで休戦条約が結ばれた。 以上のような曲折を経て、1905年9月5日(露暦8月23日)、ポーツマス海軍工廠内で日露講和条約の調印がなされた。ロシア軍部には強い不満が残り、ロシアの勝利を期待していた大韓帝国の皇帝高宗は絶望した。
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