講和の成立
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天正14年(1586年)末より水面下で足利義昭や木食応其が豊臣秀長の意向をうけて和平工作をすすめており、義久も天正15年4月12日には義昭の使者に会って講和受諾の意思はそのなかで表明していた。天正15年4月17日からの日向高城の戦い、およびそれにつづく根白坂の戦いの敗北によって島津氏の組織的抵抗は最後となった。4月21日、ついに島津義久は伊集院忠棟と平田増宗を人質として秀長に和睦を申し入れた。26日には高城を差し出すこととなり、最後まで抵抗していた山田有信も開城に同意して、4月29日、有信は高城を出た。 一方4月28日夕刻、平佐城で抵抗していた桂忠詮のもとに当主義久からの書状が届いた。秀吉勢が川内川の対岸にもどった後のことであった。書状は、義久はすでに降伏しており、これ以上島津家臣団が戦うことは島津氏の戦後の処遇で不利益をこうむる怖れがあるため降伏するように、という内容であった。山田有信が高城を出たのと同日の4月29日、忠詮は義久の命にしたがって脇坂安治の陣に小姓の海老原市十郎、大田兵部左衛門両名を人質として出頭させ、降伏の意思を伝えた。 秀吉は、桂忠詮降伏の報せをうけた翌日の5月1日には出水より阿久根(鹿児島県阿久根市)へ移動し、3日には平佐城の川向かいにあたる川内の泰平寺(薩摩川内市大小路町)に本陣を置いた。忠詮は泰平寺で秀吉に拝謁してその武勇を賞され、名刀宝寿を下賜された。 島津家の当主義久はいったん鹿児島にもどり、5月6日には同地を出発して途中伊集院(鹿児島県日置市)の雪窓院で剃髪して名を「龍伯」と改めて出家し、天正15年5月8日、泰平寺に滞留していた秀吉のもとを訪れて降伏した。秀吉は、義久の降伏の意思をすでに聞いており、義久もまた墨染の衣によって俗界を離れる姿勢を示したため、「一命を捨てて走り入ってきたので赦免する」として赦免の措置をとった。 秀吉はその後もしばらく泰平寺に滞在し、5月18日には同寺をはなれて筑前に向かった。
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