講和の成立とは? わかりやすく解説

講和の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 18:52 UTC 版)

九州平定」の記事における「講和の成立」の解説

天正14年1586年)末より水面下足利義昭木食応其豊臣秀長意向をうけて和平工作すすめており、義久天正15年4月12日には義昭使者会って講和受諾意思そのなかで表明していた。天正15年4月17日からの日向高城戦い、およびそれにつづく根白坂の戦い敗北によって島津氏組織的抵抗最後となった4月21日、ついに島津義久伊集院忠棟平田増宗人質として秀長に和睦申し入れた26日には高城差し出すこととなり、最後まで抵抗していた山田有信開城同意して4月29日、有信は高城出た一方4月28日夕刻平佐城で抵抗していた桂忠詮のもとに当主義久からの書状届いた秀吉勢が川内川対岸もどった後のことであった書状は、義久はすでに降伏しており、これ以上島津家臣団が戦うことは島津氏戦後の処遇不利益こうむる怖れがあるため降伏するように、という内容であった山田有信高城出たのと同日4月29日、忠詮は義久の命にしたがって脇坂安治の陣に小姓海老原十郎大田兵部左衛門両名人質として出頭させ、降伏意思伝えた秀吉は、桂忠詮降伏報せをうけた翌日5月1日には出水より阿久根鹿児島県阿久根市)へ移動し3日には平佐城の川向かいにあたる川内泰平寺薩摩川内市大小路町)に本陣置いた。忠詮は泰平寺秀吉拝謁してその武勇賞され名刀宝寿を下賜された。 島津家当主義久はいったん鹿児島にもどり、5月6日には同地出発して途中伊集院鹿児島県日置市)の窓院で剃髪して名を「龍伯」と改め出家し天正15年5月8日泰平寺滞留していた秀吉のもとを訪れて降伏した秀吉は、義久降伏意思をすでに聞いており、義久もまた墨染の衣によって俗界離れる姿勢示したため、「一命捨てて走り入ってきたので赦免する」として赦免措置をとった。 秀吉その後もしばらく泰平寺滞在し5月18日には同寺をはなれて筑前向かった

※この「講和の成立」の解説は、「九州平定」の解説の一部です。
「講和の成立」を含む「九州平定」の記事については、「九州平定」の概要を参照ください。

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