日露戦争前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 08:17 UTC 版)
1904年(明治37年)、第1次桂内閣はロシアとの開戦を決意し、同年2月日露戦争が勃発すると、ハーバード留学時代にセオドア・ルーズベルトアメリカ大統領と面識があった金子は、伊藤博文枢密院議長の説得を受けて同月末出帆の船で渡米、ルーズベルト大統領に常に接触するのみならず、全米各地で講演を行い、アメリカ世論に日本の立場を訴えた。 「日本は領土的野心のために戦っているのではない。ペリー提督がもたらした門戸解放のために戦っている。将来は世界皆兄弟という東洋西洋の聖教の本旨を実現させる希望を日本人は抱いている」 1905年(明治38年)8月、ポーツマス会議(第7回本会議)において、償金問題と樺太割譲問題で日露双方の意見が対立して交渉が暗礁に乗り上げたとき、外相でもあった小村壽太郎全権より依頼を受け、ルーズベルト大統領と会見してその援助を求め、講和の成立に貢献している。金子が帰国したのは、同年10月のことであった。 翌1906年(明治39年)には枢密顧問官に任じられ、自ら「憲法の番人」と称した。
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