カトリック教会の動向
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「日本のキリスト教史」の記事における「カトリック教会の動向」の解説
1846年から、日本での宣教を委託されていたパリ外国宣教会は、復興当初から宣教のみならず教育事業と社会福祉事業に力を注いでいた。 なお、1884年(明治17年)には、信者数は30,230名、司祭数54名、伝道士252名、教会数は84であった。
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カトリック教会の動向
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「日本のキリスト教史」の記事における「カトリック教会の動向」の解説
高等教育や出版活動において日本のカトリック教会は、プロテスタントに大きく遅れをとっていた。 明治末期になると、パリ外国宣教会による日本の独占司牧体制に無理があることは、同会の一部でも認められ、今後の教会の発展には他の修道会の来日が必要であるとの意見が出始めた。 しかし、パリ外国宣教会の内部からは、十分な内部変革の動きが無かったこともあり、日露戦争前後の時期になると、日本人の司祭や信徒の一部から「パリ外国宣教会の宣教活動は、近代国家となった日本では十分な成果を挙げ得ないもの」として、教会改革の必要性を唱える者が現れた。例えば長崎教区で教会改革を目指した司祭の平山牧民および一部の信徒らは、慈善活動を通じて下層階級への宣教事業に力を入れる同会に不満を持ち、高等教育や学術活動に強いイエズス会の誘致運動を行い、教皇庁にその必要を主張する意見の具申を行っている。また東京大司教区では、知識人層を対象にした出版活動や青年運動が展開され、パリ外国宣教会の中には日本人の若手カトリック知識人の活発な活動に期待する宣教師も存在した。 しかし、日本人信者によるパリ外国宣教会の司牧体制に向けた批判活動は、平山牧民の追放や前田事件を引き起こし、結果的にイエズス会の招致は実現したが、教会の改革運動は低調な状態に陥ってしまった。その後、1916年に岩下壮一を中心として結成された第2次公教青年会の会長に山本信次郎が就任し、再び知識人活動や青年運動が盛り上がった。
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カトリック教会の動向
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「日本のキリスト教史」の記事における「カトリック教会の動向」の解説
カトリック教会では、1933年から1934年にかけて奄美カトリック迫害が起こったほか、1932年には上智大生靖国神社参拝拒否事件が起こり、靖国参拝の強要に反対した学生への弾圧を受けて日本のカトリック教会は「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との見解「第一聖省訓令」「祖国に対する信者のつとめ」を出し、以後戦争については沈黙した(ただ、司祭や信徒の中には天皇の神性を否定して逮捕された者もいる)。このように、軍国化していく日本において、社会的な迫害の対象に置かれるなど困難な社会的状況にあったため、1931年には、映画「殉教血史 日本二十六聖人」を製作公開するなど、キリスト教徒への偏見を払拭する試みが行われた。なお、1940年の登録信者数は119,324人であった。
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カトリック教会の動向
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「日本のキリスト教史」の記事における「カトリック教会の動向」の解説
1945年11月に全国臨時教区長会議を開催、従来の教団組織を改称し、翌12月には天主公教教区連盟を設置した。さらに1947年5月に全国教区長会議および教区連盟理事会が開かれて、今後の事業計画や活動方針を示すと共に、「教区長共同教書」が発表され、大々的に布教活動が行われた。その結果、登録信者数は1946年の108,324人から1950年には143,461人に増加し、さらに1955年には212,318人、1968年には344,343人となって戦前をはるかに凌ぐ比率で増加した。 また世界レベルでは、二つの世界大戦を防げなかったことと、戦後も冷戦構造の中で精神的な指導力を発揮できないことへの反省から、1962年以降、カトリック教会で「アジョルナメント」(現代化)を目指した公会議(第2バチカン公会議)が行われた。この会議では、カトリック教会の冷静な現状認識と今後の方向性が確認された。その中でヨーロッパ中心的な思考にとらわれすぎていたカトリック教会の姿勢が正され、もっと世界規模の視野を持って、教会のあり方を考える必要性が痛感された。 公会議のこのような精神に沿って、教会生活全体の見直しが行われたが、その一環として典礼の国語化が進められた。日本でもミサをはじめとする典礼の日本語式次第と、典礼の中で用いられる日本語聖歌(典礼聖歌)が作成された。また公会議では他宗教、特にキリスト教他教派への敬意と対話という方針がはっきりと打ち出された(「エキュメニズム」と呼ばれる宗教間対話の動きは、元々プロテスタントの中から起こったもので、1910年のエディンバラ宣教会議を嚆矢とする)。 こうしたエキュメニズムの精神にそってプロテスタント諸教派とカトリック教会の聖書学者が結集して聖書の翻訳事業が行われることになった。ここに共同訳聖書(1978年)が完成し、さらに共同訳聖書における問題点を改善して出版されたのが新共同訳聖書(1987年)である。 1981年には、史上初めてローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が来日。東京、広島、長崎を訪れ、「平和アピール」を発表するなどした。
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