カトリック教会の対抗宗教改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 02:18 UTC 版)
「ブレスト合同」の記事における「カトリック教会の対抗宗教改革」の解説
一方、カトリック教会はウクライナにおいてもプロテスタンティズムが爆発的な伸張をみせる事態を前にして、対抗宗教改革の一環として、イエズス会が中心となってカトリック教会のウクライナ・ロシアに対する浸透を図る諸活動が行われた。この時行われた反正教会・反プロテスタンティズムの宣伝活動と啓発活動・慈善活動は一定の成功を収めた。当初、カトリック教会は最終的に、全ルーシのカトリック化およびカトリックの元に行われる教会合同を目論んでいた。これは、フィレンツェ公会議が当時も有効だと考えていたカトリック教会の認識が基礎となっていた。 ただし1582年、正教会との事前の合意無しに教皇グレゴリウス13世が新暦(グレゴリオ暦)を導入したことは、ウクライナの正教会に動揺を引き起こし、同地の正教会は新暦の受け入れを拒否した。暦の変更は教会にとり、祝われる祭日を設定する重要なものであり、日常の奉神礼に直結するものであった。このことは本項で後述するブレスト合同の成立において、広範な教会合同が成立するのを妨げる要因の一つとなった。なおこの時、コンスタンディヌーポリ総主教イェレミアス2世も、グレゴリオ暦を否認している。1923年に、コンスタンディヌーポリ教会は使用する暦をユリウス暦からグレゴリオ暦に月日を合わせた修正ユリウス暦に変更した(他幾つかの教会が後に追随した)が、これも厳密にはグレゴリオ暦ではない。現在でもエルサレム総主教庁、グルジア正教会、ロシア正教会、セルビア正教会、日本正教会などは、修正ユリウス暦もグレゴリオ暦も使用せずにユリウス暦を使用し続けている。 さらに、教会合同を推し進める人々の行動や会議の進行が性急に過ぎた事も、ブレスト合同を不完全なものにする一因となった。
※この「カトリック教会の対抗宗教改革」の解説は、「ブレスト合同」の解説の一部です。
「カトリック教会の対抗宗教改革」を含む「ブレスト合同」の記事については、「ブレスト合同」の概要を参照ください。
- カトリック教会の対抗宗教改革のページへのリンク