カトリック教会の復興とキリスト教解禁
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「日本のキリスト教史」の記事における「カトリック教会の復興とキリスト教解禁」の解説
カトリック教会のローマ教皇庁は、鎖国期を通じて日本への再宣教の方策を模索していたが、19世紀半ばには日本に開国の兆しありと見て、フランスに本部を置くパリ外国宣教会 (Missions Étrangères de Paris; M.E.P.) に日本への宣教師派遣を依頼した。こうして1844年にテオドール・フォルカード (Théodore-Augustin Forcade) 神父(司祭)が那覇に派遣され、2年滞在して日本への渡航許可を再三求めたが、果たせず1846年に帰国した。しかし、同年にフォルカードを初代教区長として日本使徒座代理区が設立され、その後1855年からユジェンヌ・エマニュエル・メルメ・カション (Eugène-Emmanuel Mermet-Cachon)、プリュダンス・セラファン=バルテルミ・ジラール (Prudence Séraphin-Barthélemy Girard)、ルイ・テオドル・フューレ (Louis-Théodore Furet) の3人の司祭が那覇に赴任して日本語を学んでいたが、1858年に日仏修好通商条約が結ばれたことで、日本入国が可能になった。メルメ・カションは函館に赴き、ジラールは江戸を経て横浜に拠点を構えた。ジラールは1862年、横浜に開国以来最初のカトリック教会となる聖心教会(その後移転し、現在の山手教会)を建てた。このころ、ヨーロッパのカトリック教会の強い関心が日本に寄せられていた証左として、1862年に「日本二十六聖人」の列聖が行われたことがあげられる。 1864年になってフューレは長崎に土地を購入、後から加わったベルナール・プティジャン (Bernard-Thadée Petitjean) 神父(後に司教)と共に1865年に教会堂を建てた。これが大浦天主堂である。一か月後、教会を訪れた婦人たちが自分たちは禁教下で信仰を守り続けた潜伏信徒(隠れキリシタン)であることを告白、神父は驚愕した。これを「長崎の信徒発見」という。信仰を表明した信徒の多くはカトリック教会に復帰して司祭の指導を受けるようになった。 詳細は「ベルナール・プティジャン#信徒発見」および「浦上四番崩れ#発端」を参照 しかし、彼らは同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治新政府も慶応4年3月15日(1868年4月7日)に五榜の掲示という高札を掲示してキリスト教禁教を継続したため、信徒への拷問や流刑などが行われた。明治政府が刑事罰を与えたキリスト教徒はカトリックに留まらず、他の地方でも東北で正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。 詳細は「五榜の掲示#第三札」および「浦上四番崩れ#流配」を参照 だが、明治政府の予想に反して、キリスト教禁止と信徒への弾圧は諸外国の激しい抗議と反発を引き起こした。岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、キリスト教の解禁が条約改正の条件であるとされ、1873年(明治6年)にキリスト教禁止令は解かれた。 詳細は「禁教令#明治政府による禁教令とその廃止」および「高札#高札・制札の廃止」を参照
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