カトリック教会の対処
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「メジュゴリエの聖母」の記事における「カトリック教会の対処」の解説
1987年、ユーゴ司教協議会会長のクハリック枢機卿と現地モスタル教区のジャニッチ司教は、「メジュゴリエに対する超自然的性格に動機付けられた巡礼やその他の表明行為を組織することは、許可しない」とする、禁止声明を発表した。また、1987年同じくジャニッチ司教は、調査の結果、超自然的なものは何もなかった、と発表し、1990年には調査の結果を細かく説明した。1991年にはユーゴスラビア司教団が同じく、出現を否定し、ジャニッチの後を受けて、モスタル教区の司教となったラトゥコ・ペリッチも、1998年と2004年、その真実性をあらゆる角度から否定する、という声明を出し、合わせて信徒にこの運動との関係を持つことを禁止した。また、ローマ教皇庁は、この運動への対応として、教理省秘書タルチジオ・ベルトーネ大司教が、フランス・ランジュのレオン・タヴェデル司教からの質問に答える形で、1996年、現地司教区の声明を引用し、巡礼等は許可されていない、とする発表を行った。 1984年3月、「教皇ヨハネ・パウロ2世は自分の図書室に訪問者(パヴォル・ヒニリカ司教)を案内した。彼はローランタン神父の一冊の本(「メジュゴルイエにおける聖母マリアの出現」)を取り上げ、聖母のいくつかのメッセージを読み、こう言った。『パヴォル、メジュゴリエはファチマの継続であり、実現なのです。』」(数年後、教皇は彼にこう言った。『今日、世界は超自然的なものへの感覚を失った。世界は祈り、断食、ゆるしの秘跡を通して、メジュゴリエにおいてその感覚を再び見出している。』)以来、司教はメジュゴリエの支持者となり、教皇は定期的に彼にこう尋ねている。『メジュゴリエの新たな情報は何ですか?』 1994年3月25日、ヒニリカ司教は奉献の10周年記念日を祝うためにメジュゴリエに来た。教皇ヨハネ・パウロ2世は、1981年5月13日に暗殺の犠牲者となりかけた時、彼を死から守られたのはファチマの聖母であったと司教に打ち明けた(40日後、聖母はメジュゴリエにおいて出現を始めた、と支持者は主張する)。 『メジュゴリエの証言者たち』p.139には、「ヨハネ・パウロ二世(中央)はミリアーナ(左側)とフラニッチ大司教(右側)を含むクロアチアのグループを接見される。ミリアナは教皇と20分間の私的な会話をした。教皇は『もし私が教皇でなかったら、私はすでにメジュゴリエに行っていたでしょう』と彼女に言った。」との解説と共に写真が掲載されている。また、p.402には「教皇ヨハネ・パウロ2世はメジュゴリエからの聖母のメッセージを広める宣教のためにシスター・エマヌエルを三度祝福される」(1996年11月15日)との解説と共に写真が掲載されている。 このようにメジュゴリエ運動の支持者達は、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がこの出現を支持した、または巡礼した、などと宣伝することがあるが、こうした風説に対して、教理省長官ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(後の教皇ベネディクト16世)は、1998年7月22日、「私と教皇の言葉を引用したとされている文章は、想像の産物に過ぎない」とそれらを全否定する発言をしている。 2010年3月教皇庁教理省が、枢機卿の指導のもと、司教、神学者、その他専門家によるメジュゴリエの聖母調査委員会を組織した。
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