カトリック教会の刷新改革
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「ピウス5世 (ローマ教皇)」の記事における「カトリック教会の刷新改革」の解説
ギスリエーリが任地へ向かう前にピウス4世は死去し、1566年1月7日の教皇選挙はピウス4世の甥カルロ・ボッロメーオ枢機卿とアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿ら大多数の支持でギスリエーリを新教皇に選出、10日後の彼の誕生日に教皇としての戴冠式が行われた。ピウス5世を名乗った教皇は厳格かつ敬虔で、個人生活では托鉢修道士としての活動を続けたが、教皇としては抜本的な改革案を次々に実行に移してローマの風紀刷新に乗り出した。それは教皇宮廷の経費削減、宿屋の規制、娼婦の追放、儀式の尊重、司教の教区居住の徹底などである。教皇は広い視野をもって、ボッロメーオ枢機卿らの助けでトリエント公会議の決議の推進と教会法の実施の徹底を各国で推し進めた。 また、『ローマ・カトリック要理問答』出版(1566年)、『ローマ聖務日課書』(1568年)と『ローマ・ミサ典礼書』(1570年)の公布、ドミニコ会士で聖人トマス・アクィナスの教会博士称号贈与(1567年)、および著作刊行(1570年 - 1571年)にも尽力した。一方で異端審問所を活用しプロテスタントとユダヤ人に対して厳しく当たった。 ピウス5世はイエズス会との繋がりが深く、教皇選出前に会の内紛を調停したことがあり、会の創立者の1人で不平不満を唱えたニコラス・ボバディリャを説得してなだめ、1558年のディエゴ・ライネスの第2代総長選出を手助けした。教皇選出後は第3代総長フランシスコ・ボルハと協力してイエズス会内部に関与、1568年にボルハの要望に応え、1日1時間の祈りと聖務日課の朗唱を修道士に義務付けたが、両方とも後に修正あるいは破棄された。またボルハの提案で、海外宣教活動を枢機卿からなる中央委員会に置くことを勧められ、1622年の布教聖省(福音宣教省)設置に結実した。更に1570年にオスマン帝国のヨーロッパ遠征隊派遣に対抗してカトリック諸国結集を計画したピウス5世は、教皇特使を各国へ派遣することを決め、ボルハを随行者に選び、彼は1571年6月30日に使節団に加わって出発したが、病気だったため諸国訪問中に体調が悪化し1572年にローマへ引き返した後に亡くなった。 ピウス5世の手による回勅の中で最も有名なものが、1568年の「イン・コエナ・ドミニ」であるが、それ以外の教皇文書や教皇令にこそ彼の人となりをうかがわせるものがある。たとえば、教皇への上訴の禁止(1567年2月および1570年1月)、ルーヴァン大学の教授で論議を呼んでいたミシェル・バイウスの弾劾(1570年)、聖務日課の改訂(1568年7月)、ローマとアンコーナ以外の教皇領からのユダヤ人の追放(1569年)、新ミサ典書使用の徹底命令(1570年7月)、異端審問所からの十字軍将兵の保護(1570年10月)、聖母懐胎についての議論の禁止(1570年11月)、不正な経理の噂があった組織である謙遜兄弟団(Fratres Humiliati)への制限強化(1571年2月)、聖務日課の共唱の徹底(1571年9月)、全免償の提供と引き換えによる対オスマン帝国戦への財務援助(1572年3月)などである。
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