カトリック教会の刷新改革とは? わかりやすく解説

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カトリック教会の刷新改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 16:12 UTC 版)

ピウス5世 (ローマ教皇)」の記事における「カトリック教会の刷新改革」の解説

ギスリエーリが任地へ向かう前にピウス4世死去し1566年1月7日教皇選挙ピウス4世の甥カルロ・ボッロメーオ枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿大多数支持でギスリエーリを新教皇に選出10日後の彼の誕生日教皇として戴冠式が行われた。ピウス5世名乗った教皇厳格かつ敬虔で、個人生活では托鉢修道士としての活動続けたが、教皇として抜本的な改革案を次々実行移してローマ風紀刷新乗り出した。それは教皇宮廷経費削減宿屋規制娼婦追放儀式尊重司教教区居住徹底などである。教皇は広い視野をもって、ボッロメーオ枢機卿らの助けトリエント公会議決議推進教会法実施徹底各国推し進めたまた、ローマ・カトリック要理問答出版1566年)、『ローマ聖務日課書』(1568年)と『ローマ・ミサ典礼書』(1570年)の公布ドミニコ会士で聖人トマス・アクィナス教会博士称号贈与1567年)、および著作刊行1570年 - 1571年)にも尽力した一方で異端審問所活用しプロテスタントユダヤ人に対して厳しく当たったピウス5世イエズス会との繋がり深く教皇選出前に会の内紛調停したことがあり、会の創立者1人不平不満唱えたニコラス・ボバディリャ説得してなだめ、1558年ディエゴ・ライネス第2代総長選出手助けした教皇選出後は第3総長フランシスコ・ボルハ協力してイエズス会内部関与1568年ボルハ要望応え1日1時間祈り聖務日課朗唱修道士義務付けたが、両方とも後に修正あるいは破棄された。またボルハ提案で、海外宣教活動枢機卿からなる中央委員会に置くことを勧められ1622年布教聖省福音宣教省設置結実した。更に1570年オスマン帝国ヨーロッパ遠征派遣対抗してカトリック諸国結集計画したピウス5世は、教皇特使各国派遣することを決めボルハ随行者選び、彼は1571年6月30日使節団加わって出発したが、病気だったため諸国訪問中に体調悪化し1572年ローマへ引き返した後に亡くなったピウス5世の手による回勅の中で最も有名なものが、1568年の「イン・コエナ・ドミニ」であるが、それ以外教皇文書教皇令にこそ彼の人となりをうかがわせるものがある。たとえば、教皇への上訴の禁止1567年2月および1570年1月)、ルーヴァン大学教授論議呼んでいたミシェル・バイウスの弾劾1570年)、聖務日課改訂1568年7月)、ローマアンコーナ以外の教皇領からのユダヤ人追放1569年)、新ミサ典書使用徹底命令1570年7月)、異端審問所からの十字軍将兵保護1570年10月)、聖母懐胎についての議論禁止1570年11月)、不正な経理の噂があった組織である謙遜兄弟団Fratres Humiliati)への制限強化1571年2月)、聖務日課の共唱の徹底1571年9月)、全免償の提供と引き換えによる対オスマン帝国戦への財務援助1572年3月)などである。

※この「カトリック教会の刷新改革」の解説は、「ピウス5世 (ローマ教皇)」の解説の一部です。
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