トリエント公会議とは? わかりやすく解説

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トリエント‐こうかいぎ〔‐コウクワイギ〕【トリエント公会議】


トリエント公会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/05 08:34 UTC 版)

トリエント公会議(トリエントこうかいぎ、ラテン語: Concilium Tridentinum, ドイツ語: Konzil von Trient)は教皇パウルス3世によって1545年3月15日にトリエント(現在のイタリア共和国トレンティーノ=アルト・アディジェ州トレント)で召集され、1563年12月4日ピウス4世のもとで第25総会を最後に終了したカトリック教会の第19回公会議[1]トレント公会議(とれんとこうかいぎ、イタリア語: Concilio di Trento[2]とも。




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トリエント公会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 01:45 UTC 版)

対抗宗教改革」の記事における「トリエント公会議」の解説

詳細は「トリエント公会議」を参照 パウルス3世治世最大出来事であるトリエント公会議では、教会の組織的な問題解決すべく枢機卿委員会任命されたが、そこでは教義的な改革や、金儲けに走る司教たちや世俗どっぷり浸かった司祭たちの問題贖宥状引き起こした混乱解決、および財政的問題に関して討議されなかった。その分差し引いて考えても、1545年から1563年まで三会期にわたっておこなわれたトリエント公会議は、カトリック改革頂点といえる出来事である。 公会議は、はっきりとプロテスタント主張一部誤りであると定め中世教会保持していた基本構造ともいえる秘跡思想修道会特定の教義重要性再確認した。教義においてはプロテスタント対す一切歩み寄り示さず従来教義再確認した。公会議の決定重要なことは、救いにおける信仰協働の関係を示し伝承重要性認めたことである。パンワイン聖変化シンボリックなものでなく、真にイエスの体と血に変化する考える「実体変化」の思想が、秘跡とともに支持された。また、宗教改革者が批判したカトリック伝統的な信心である贖宥巡礼聖人聖遺物への崇敬聖母マリアへの信心などが霊的に味のあるものとして再び認められ、この点でカトリック教会プロテスタントにはっきりと一線を画すことになった

※この「トリエント公会議」の解説は、「対抗宗教改革」の解説の一部です。
「トリエント公会議」を含む「対抗宗教改革」の記事については、「対抗宗教改革」の概要を参照ください。

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