公会議の開会まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:06 UTC 版)
「トリエント公会議」の記事における「公会議の開会まで」の解説
宗教改革運動の立役者であるマルティン・ルターは決して最初から新しい教会を作ろうとしていたわけではなく、カトリック教会の自己改革をしきりに呼びかけていた。その中で彼は公会議の開催をも要求していた。しかし15世紀は公会議主義と教皇首位説のせめぎあいの時代であり、一度は公会議主義が勝利をおさめたかにも見えた時期もあった。このため教皇側は公会議を危険視、開催に対しては過度に慎重になっていた。 しかしカトリック教会内部の停滞と宗教改革運動の高まりの中で、事態の緊急性を認識した教皇パウルス3世は神聖ローマ皇帝カール5世の協力の申し出もあって公会議の開催を決断。はじめはイタリアのマントヴァを開催地として選んだが、フランスの反対によって挫折したため、神聖ローマ帝国領の自由都市トレント(トリエント)を改めて開催地とした。
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