公会議の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 10:46 UTC 版)
公会議が取り扱った内容を見る前に、公会議をどのように解釈するかという問題に触れなければならない。その理由は、公会議をどのように解釈するかに、その内容も委ねられているからである。 第2バチカン公会議の第1にめざすべき目標として教会の教えが現代人にも理解できるように「現代の要求する方法で探求され、説明され」ること、現代人によく伝わるように新しい言い方を用いて「司牧的な性格を持つ教会の教導の任務にもっともよく合致する表現法」による説明をめざした。 しかし、理解しやすい説明をしたはずだった公会議は、その正しい理解の仕方と解釈が問題とされている。公会議の20周年にあたる1985年、ラッツィンガー枢機卿(後の教皇ベネディクト16世)は、第2バチカン公会議は正しく理解されていないと訴えてこう発言している。 この二十年間(1965~85年)がカトリック教会にとって決定的に不利であった、ということには議論の余地がない。公会議に続く結果は、ヨハネ23世やパウロ6世を始めとするみんなの期待を無惨にも裏切ったかに見える。キリスト教徒は、再び、古代末期以来かつてない少数派になってしまった。…公会議の教皇たちや教父達は、カトリック的な新たな一致を期待していたのに、--パウロ6世の言葉を借りて言えば--自己批判から自己破壊になりかねない不一致に直面した。…躍進をこそ期待したのに、結果的には衰退を見せつけられ、それは公会議の真の精神の権威を失墜させる自称"公会議精神"の掛け声のもとで蔓延していった。 — 『信仰について』、40-41頁。 公会議の本来の顔を示すのは今後の大仕事である。 — 『信仰について』、45頁。 この「真の」公会議に対して、実際には真の「反精神」である偽称「公会議精神」が張り合った。この致命的な反公会議精神--ドイツ語で言うとKonzils-Ungeist--によれば、すべて「新しいもの」、あるいは新しいと推定されるものは、今まであったもの、あるいは今あるものよりも常に、何はともあれいいものなのだ。 — 『信仰について』、46-47頁。 第2バチカン公会議の真の時はまだ来ていないのかもしれないし、その真正の受信はまだ始まっていないのかもしれない。公会議諸文書の明文の再読は必ずや私たちにその真の精神を再発見させるだろう。 — 『信仰について』、54頁。 公会議が閉会して40年が経過した後でさえ、ベネディクト16世は第2バチカン公会議の真正な理解と解釈について問題にした。 ふさわしい公会議の理解とは何でしょうか。また、不適切な、あるいは間違った公会議理解とは何でしょうか。まだしなければならないことは何でしょうか。教会のかなりの部分において、公会議の実施がある意味で困難だったことを誰も否定できません。偉大な教会博士、聖バジリオは、ニケア公会議後の教会の状況について次のように述べています。やろうと思えば、このことばは、過去40年の間に起こったことにあてはめることができます。バジリオは、教会の置かれた状況を嵐の暗闇の中で行われる海戦になぞらえます。「意見が対立し、互いにいがみ合う者たちの騒がしい叫び声、理解を超えた流言、絶え間なく騒ぎ立てる混乱した話し声―これが、今やほとんど教会全体を満たし、行き過ぎや誤謬によって信仰の正しい教えを歪めている」。わたしたちは公会議後の状況にこの劇的な記述をそのままあてはめたいとは思いませんが、すべての出来事のいくぶんかはこの記述に反映されています。ここで疑問が生じます。なぜ、教会の多くの部分において、これまで公会議の実施がそれほど難しかったのでしょうか。この疑問に答えるには、何よりも、公会議の正しい解釈が必要です。あるいは、今日、そういってよければ、適切な解釈法、すなわち公会議の解釈と適用の鍵となる正しい方法が必要です。公会議の実施における諸問題は、2つの相対立する解釈法が互いに反目し、論争し合うことから生じました。 ベネディクト16世によれば、最初の解釈法は、「不連続と断絶による解釈法」である。もう一つの解釈法は「改革による解釈法」である。
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