きょう‐ふ〔ケウ‐〕【教父】
教父
データは、いくつかの形式の用紙 1や伝票 1を使って教区登録簿から抜き出される。これらは、洗礼伝票 2、婚姻伝票 3や、埋葬伝票 4を含んでいる。記録の対象者 5(すなわち、洗礼を受け、埋葬され、あるいは結婚した人達)の名前がこれらの伝票に記載されており、そして両親および教父 6、教母 7や立会い人 8のような他の人達に関する情報が記録されている。対象者の名前の有無にかかわらず、データの要約的な抽出のためには、他の転記用紙 11も用いられる。家族復元(638-2)のために、家族復元用紙(638-1)が用いられる。系図学 12において個人や家族の系図を復元する場合には、それらはある条件の下で、上流階級の人口学的特性に関する貴重な情報源となる。
教父
教父
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 05:52 UTC 版)
『教会史(英語版)』で知られるカエサレアのエウセビオスが4世紀に報告しているところによると、教父の文書のうち地上のイエスを見た人に会ったことに言及している可能性のあるものは、パピアス(英語版)とクアドラトス(英語版)の著作である。 パピアスの著作は現存していないが、カエサレアのエウセビオスがその言葉を引用している。 わたしは長老たちに従った者に会えばいつでも、長老たちの言葉を調べたものである。すなわち、アンデレや、ペテロ、ピリポ、トマス、ヤコブ、ヨハネ、マタイ、そしてそれ以外の主の弟子がどのように言い、また主の弟子であるアリスティオン(英語版)や長老のヨハネがどのように言っていたか〔を調べたのである〕。 パピアスが情報を集めていた紀元90年頃には、イエスの弟子であるアリスティオンや長老ヨハネが小アジアで生存して教えを授けていて、彼らを知る者たちからパピアスは情報を集めていたと、Richard Bauckhamは述べている。しかし長老ヨハネの確かな正体は『ヨハネによる福音書』の著者問題にからんで学者間でも意見が分かれている。例えばJack Fineganは、エウセビオスはパピアスの書いたものを誤解した可能性があり、長老ヨハネは『ヨハネによる福音書』の著者ではないが、イエスの弟子である可能性があると述べている。Gary M. Burgeは、長老ヨハネは使徒のヨハネとは別人で、エウセビオスは混同しているとする。 最古のキリスト教護教家とされるクアドラトスがハドリアヌス帝(在位:117年 - 138年)に宛てた手紙があり、エウセビオスが『教会史』で引用している。 わたしたちの救い主の業(わざ)はつねに真実だったので、癒されたり死人から甦った者たちは、〔人びとに〕見られたばかりか、救い主が〔この世に〕あったときも〔この世を〕去った後も、しばらくの間〔人びとの前に〕たえず現れ、その中のある者はわたしたちの時代まで生き残っている。 クアドラトスの言う「わたしたちの救い主」とはイエスを意味し、この手紙は西暦124年以前に書かれた可能性が高い。「わたしたちの時代」というのは、クアドラトスが手紙を書いた117年から124年ではなく、クアドラトスの若い時を指しているのではないか、すなわちパピアスと同時代ではないかと、Bauckhamは述べている。さらにBauckhamは、この記述の重要性はイエスと交わったことに関する証言の目撃者としての性質を強調していることにあると述べている。初期キリスト教の著作、特に偽典の福音書や手紙などには信憑性を持たせるため、このような「目撃証言」が多く盛り込まれている。
※この「教父」の解説は、「史的イエスの資料」の解説の一部です。
「教父」を含む「史的イエスの資料」の記事については、「史的イエスの資料」の概要を参照ください。
教父
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 08:20 UTC 版)
アウグスティヌスは神の怒りとは、罪に対して罰が科せられる裁きであるとする。キリスト者はやがて来るべき日に御国に入れられるが、神なしになにもすることはできず、神の怒りに落ちる他はなかったと述べている。
※この「教父」の解説は、「神の怒り」の解説の一部です。
「教父」を含む「神の怒り」の記事については、「神の怒り」の概要を参照ください。
教父
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 09:25 UTC 版)
「ローマ世界と仏教」も参照 教父たちが仏教の信仰や慣習に精通していたと主張するものもいる。2世紀のキリスト教神学者アレクサンドリアのクレメンスは言う: 「それゆえ哲学、つまりもっとも実利性に富んだものは異邦人の間で古代に栄え、諸国に光を放った。そののちに哲学はギリシアに到達した。それらの内で最初にくるのはエジプトの預言者である。それに続いてアッシリア人の中でもカルデア人、ガリア人のドルイド、バクトリア人のサルマナ、ケルト人の哲学者、ペルシアのマギがいて救世主の誕生を予言し、星に導かれてユダの地へ来た。インドの苦行者たちもまた、こういった異邦の哲学者の中に数えられる。そしてこの中にはなお二つの階級があり、シュラマナとブラフマンという。」 —アレクサンドリアのクレメンス『ストロマテイス』、第1巻第15章 クレメンスはさらにブッダについても書いている: 「インド人の間で、こういった哲学者はその特別な聖性ゆえに神と崇めるブッダの教えに従う。」 —アレクサンドリアのクレメンス、『ストロマテイス』、第1巻第4章 ローマのヒッポリュトスやサラミスのエピファニオス(英語版)といった、3世紀初期から4世紀にかけてのキリスト教著述家が、あるスキュティアヌスについて書いている。彼は50年ごろにインドを訪れ、『doctrine of the Two Principles』を持ち帰った。彼の門人テレビントゥスは自分をブッダであると述べ(「彼は自身をブッダと呼んだ」エルサレムのキュリロス)、ユダヤ属州で有名になり、インドとの交流から得た本をもって使徒とともに改宗したという。彼の本と知識はマニにも引き継がれていて、マニ教の基礎になったと同じ著者は述べている。 「悪の門徒たるテレワィンフは既に金と書籍と異端との相続者となり、パレスチナに来りけるが、探知せられてイウデヤに於いて罪に定められたり、よりて彼はペルシヤに遠ざからんと考えたり、然れども彼処において名の為に探知せられんことを恐れ、自ら変名してウードダといへり。」 —エルサレムのキュリロス『イェルサリムに於て即席講演したる「一つの神を信ず」という言につきての説教、神の独裁の事及び諸異端の事』、22-24節 ローマに住んでいたギリシア系のキリスト教徒ヒッポリュトスは、235年ごろに異説の出所の中でインドの禁欲主義を含めて考察した: 「肉食や調理された食事をとることを断ち、自足的な生活を送るバラモンの間で哲学していたインドの異端の間に[…]が存在した。[…]彼らは、神は光であり、といっても人の目に見えるような光や太陽、炎のようなものではなく、しかしそれらに対して神は講話であり、有節音の中に表現を見出すものではなく、隠された神秘がそれを通じて賢人によって発見されるような知識(グノーシス)である。」 シリアのグノーシス主義神学者バルダイサーンが、3世紀にローマ帝国セウェルス朝の皇帝ヘリオガバルスを訪問する途上、シリアにいたインドの聖人の宣教団との交流について書き残している。彼の説明はポルピュリオス(De abstin., iv, 17 )とストバイオス(Eccles., iii, 56, 141)が引用している。 ヒエロニムス(4世紀)が、仏教徒がブッダは処女から生まれたと信じていたことについて、彼らの「意見は[…]彼らの宗教の創始者ブッダが処女から生まれたということを厳然と伝えている(ブッダは仏教徒の伝統によれば、彼の母の尻から生まれた)。」
※この「教父」の解説は、「仏教とキリスト教」の解説の一部です。
「教父」を含む「仏教とキリスト教」の記事については、「仏教とキリスト教」の概要を参照ください。
教父
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 08:26 UTC 版)
アウグスティヌスは、キリストが生ける者と死せるものを裁くために天から来られる最後の審判について「最後の」、「終りの」という語を付けるのは、神が常に人を裁いておられるからだと教えている。
※この「教父」の解説は、「最後の審判」の解説の一部です。
「教父」を含む「最後の審判」の記事については、「最後の審判」の概要を参照ください。
教父
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/24 20:10 UTC 版)
詳細は「教父」を参照 教父文書はいずれの教会、教派にとっても意味を持っているが、聖伝についての理解が異なる。
※この「教父」の解説は、「キリスト教文書」の解説の一部です。
「教父」を含む「キリスト教文書」の記事については、「キリスト教文書」の概要を参照ください。
教父
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/27 09:53 UTC 版)
アウグスティヌスは異端は偽りの教えによって信仰を傷つけ、「離教者は信仰を失わないが罪深い分裂によって兄弟としての愛からはずれる」と宣言した。
※この「教父」の解説は、「離教」の解説の一部です。
「教父」を含む「離教」の記事については、「離教」の概要を参照ください。
教父
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/04/12 14:09 UTC 版)
※この「教父」の解説は、「聖書原典」の解説の一部です。
「教父」を含む「聖書原典」の記事については、「聖書原典」の概要を参照ください。
教父
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 02:06 UTC 版)
教父は著述でキリスト教を防衛し、異教、異端と対決した。ローマのクレメンス、ポリュカルポスらがいる。
※この「教父」の解説は、「初代教会」の解説の一部です。
「教父」を含む「初代教会」の記事については、「初代教会」の概要を参照ください。
「教父」の例文・使い方・用例・文例
- 私は、大学の図書館で教父学の本を見つけることができませんでした。
- 初期の教父の文書の、または、初期の教父の文書に関する
- 教父の人生、文書、および主義の研究
- 初期キリスト教会の教父の著作
- 各一部分が、先行する、あるいは後に続く一部と密接に関連した関連した考え、一節、主題の連鎖(特にキリスト教の教義を解明する教父の論評)
- 初期のキリスト教の教会の偉大な教父のうちの1人
- 認知された異教との彼の絶え間ない戦いで知られている教父
- コンスタンティノープルの偉大な伝道者で、司教である教父
- 古代キリスト教会で,教父という,教会の公認の教えに基づいて著作した人
- >> 「教父」を含む用語の索引
- 教父のページへのリンク