ノウァティアヌス_(対立教皇)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ノウァティアヌス_(対立教皇)の意味・解説 

ノウァティアヌス (対立教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/17 23:41 UTC 版)

ノウァティアヌス(Novatianus, ? - 258年)は、コルネリウスルキウスステファヌス1世シクストゥス2世の4代にわたっての対立教皇である(在位:251年 - 258年)。

生涯

ノウァティアヌス派の創始者で、改宗キリスト教徒であった。著書にラテン語による『三位一体論』がある。この『三位一体論』はローマで書かれた最初の本格的神学書であり、神学史上重要な作品である[1]

ローマの教会は211年から249年の間、迫害もなく比較的平穏な時代を送っていた。ところが250年、デキウス帝の迫害が勃発する。この迫害で司教ファビアヌスが殉教する。その司教不在の状態の時に、カルタゴの司教キプリアヌスから「背教者」の処置に関する手紙がローマ教会に届く。この手紙に対して「ローマに在住する司祭と助祭たち」の名において返書を書いたのがノウァティアヌスであった。この返書でノウァティアヌスはキプリアヌスの見解に基本的に賛同している。ただし、「臨終の際を除いて、悔悛の情を十分示した者には、教会との和解が確実に与えられる」という問題に関しては、教会会議を開き、司教を選出してから最終決定を下すとした。[1]

この時、ノウァティアヌスは自分が司教に就くことを希望していたが、251年3月にコルネリウスが司教に選出される。すると、ノウァティアヌスは背教者にはいかなる和解も是認されるべきではないとする非情に厳格な立場を主張してコルネリウスと対立した。そして自ら対立司教としてノウァティアヌス派を形成することになった。この分派形成は教理上の見解の相違ではなく、人間性の相違から生じたものと思われる。彼に同調する人々はかなり多く、スペインからシリアにまで拡大し、数世紀にわたって存続した。[1]

258年頃にローマ皇帝のウァレリアヌスの迫害を受けて彼は殉教したと伝えられる。

当時、ローマ皇帝の迫害に屈して信仰を捨てたラプス(いわゆる離教者)の復帰を認めない強硬派だったことからノウァティアヌスに対する反感は根強く、生前にはローマ教会会議で正統性を否定された。死後67年たった325年に開かれた第1ニカイア公会議でもその正統性を否定されている。

脚注

  1. ^ a b c 小高毅(1999)pp.263-264

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ノウァティアヌス_(対立教皇)」の関連用語

ノウァティアヌス_(対立教皇)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ノウァティアヌス_(対立教皇)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのノウァティアヌス (対立教皇) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS