アレクサンデル5世 (対立教皇)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 15:00 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動アレクサンデル5世 | |
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対立教皇 | |
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教皇就任 | 1409年6月26日 |
教皇離任 | 1410年5月3日 |
先代 |
グレゴリウス12世(ローマ) ベネディクトゥス13世(アヴィニョン) |
次代 | ヨハネス23世 |
個人情報 | |
本名 |
ピーター・フィランジェ・デ=カンディア Peter Philarges de Candia |
出生 |
1339年![]() |
死去 |
1410年5月3日![]() |
その他のアレクサンデル |
アレクサンデル5世(Alexander V, 1339年 - 1410年5月3日、在位:1409年 - 1410年)は教会大分裂の時期の教皇の1人。ピサ教会会議で教皇に選出されるが、正式な選出とはみなされず、カトリック教会では対立教皇とされている。但し、1492年に教皇に選出されたロドリゴ・ボルジアはアレクサンデルを名乗ったが、彼はアレクサンデル6世となっている。
クレタ島生まれのギリシャ人で本名はピーター・フィランジェ・デ=カンディア(Peter Philarges de Candia) 、イタリアではピエトロ・フィラルゴ(Pietro Filargo)と呼ばれていた。
生涯
浮浪児だったとされるがフランシスコ会修道士に拾われ、1357年頃にクレタ島のフランシスコ会修道士になり、パドヴァ大学、オックスフォード大学、パリ大学で学んだ後、パリ大学で神学を教えた。1386年からパドヴァ大学神学教授になり、パトロンとなったミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの計らいで出世して1386年にピアチェンツァ司教、1388年にヴィチェンツァ司教、1389年にノヴァーラ司教になり、1402年にはミラノ大司教、1405年にはローマ教皇インノケンティウス7世により枢機卿と教皇特使になっている[1][2][3]。
当時の教会大分裂という事態収拾の為、1409年にピサ教会会議が開催されるが、2人の教皇(グレゴリウス12世・ベネディクトゥス13世)が廃位された後、全会一致で新たに教皇に選出される。しかし、2人の教皇は納得せず、3人の教皇が鼎立する事態になった。アレクサンデル5世がピサ教会会議で選出された背景として、ギリシャ正教会と合一への期待があったというが、アレクサンデル5世は友人贔屓が酷く枢機卿達を失望させた。とはいえボヘミア王ヴァーツラフ4世、ハンガリー王ジギスムント兄弟とイングランド・フランスがアレクサンデル5世を支持していた[1][2][3][4]。
ローマはグレゴリウス12世派のナポリ王ラディズラーオが占領していたが、アレクサンデル5世はラディズラーオを破門、ルイ2世・ダンジューを新たなナポリ王として支持、ラディズラーオはローマから退去したが、教皇選出の翌年の1410年、ボローニャで逝去。バルダッサレ・コッサ(後継者のヨハネス23世)に毒殺されたとも噂された[1][2][5]。
脚注
- ^ a b c 新カトリック大事典編纂委員会、P239。
- ^ a b c スチュアート、P183。
- ^ a b バンソン、P132。
- ^ 瀬原、P227 - P228、P241。
- ^ バンソン、P132 - P133、瀬原、P242 - P243。
参考文献
- 学校法人 上智学院 新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典 第1巻』研究社、1996年。
- P.G.マックスウェル・スチュアート著、月森左知・菅沼裕乃訳、高橋正男監修『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年。
- マシュー・バンソン著、長崎恵子・長崎麻子訳『ローマ教皇事典』三交社、2000年。
- 瀬原義生『ドイツ中世後期の歴史像』文理閣、2011年。
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