アレクサンデル4世 (ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

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アレクサンデル4世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 05:58 UTC 版)

アレクサンデル4世
第181代 ローマ教皇
教皇就任 1254年12月12日
教皇離任 1261年5月25日
先代 インノケンティウス4世
次代 ウルバヌス4世
個人情報
出生 1199年/1185年頃
イェンネ
死去 1261年5月25日
ヴィテルボ
その他のアレクサンデル
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アレクサンデル4世(Alexander IV, 1199年または1185年頃 - 1261年5月25日)は、ローマ教皇(在位:1254年 - 1261年)。

リナルド・ディ・イェンネ(Rinaldo di Jenne)としてアナーニ近郊のイェンネに生まれた。インノケンティウス3世グレゴリウス9世と同様、母方の実家がセーニの伯爵家だった。叔父のグレゴリウス9世により1227年助祭1229年カメルレンゴ1231年司教に序せられ、1244年には首席枢機卿となった。1254年にインノケンティウス4世が亡くなると、1254年12月12日にナポリでローマ教皇に選出された。

アレクサンデル4世はインノケンティウス4世を引き継いで、最後のホーエンシュタウフェン朝の王であるコッラディーノの後見人となった。

当時のローマは教皇派と皇帝派に分裂しており、アレクサンデル4世はヴィテルボに隠居した後、1261年に死去した。ヴィテルボ大聖堂に埋葬されたが、16世紀に行われた修復で墓は壊されてしまった。

彼は教皇であった間に、フランスでの異端審問托鉢修道会1259年タタールに対する十字軍の派遣などを通じて、正教会カトリック教会の融合を図った。

1261年4月12日、死去の直前にはイングランドヘンリー3世に対して大勅書を発し、オックスフォード条項の破棄を認め、これが後に第2次バロン戦争の契機となった。




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