ケレスティヌス2世_(ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ケレスティヌス2世_(ローマ教皇)の意味・解説 

ケレスティヌス2世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 06:29 UTC 版)

ケレスティヌス2世
Caelestinus II
第165代ローマ教皇
教皇就任 1143年9月26日
教皇離任 1144年3月8日
先代 インノケンティウス2世
次代 ルキウス2世
個人情報
出生 不明
チッタ・ディ・カステッロ
死去 1144年3月8日
埋葬地 ラテラノ
その他のケレスティヌス
テンプレートを表示

ケレスティヌス2世(Caelestinus II, ? - 1144年3月8日)は、第165代ローマ教皇(在位:1143年9月26日 - 1144年3月8日)。本名グイード・ディ・カステッロ(Guido di Castello)。イタリアチッタ・ディ・カステッロ出身。

教皇になる前は親友ピエール・アベラールの下で神学を学び、1127年助祭枢機卿1134年司祭枢機卿に任命された。教皇特使として出席した1140年サンス教会会議英語版でアベラールを弁護、以後もアベラールと親友であり続けたため、アベラールと対立していたクレルヴォーのベルナルドゥスから叱責された。インノケンティウス2世対立教皇アナクレトゥス2世の政争ではベルナルドゥスと共にインノケンティウス2世を擁護した[1][2][3]

1143年9月24日のインノケンティウス2世亡き後、2日後の9月26日に教皇に選出されたが、わずか5か月と13日後の1144年3月8日に亡くなり、ラテラノの墓地に葬られた[1][2][4]

教皇としての主要な働きの1つは、前教皇が命令したフランスルイ7世破門を解き、3年にわたって続けられていたフランスの聖務停止命令も解除したことだった。また、シチリアルッジェーロ2世と結んだ和睦協定の再交渉も図ったりしている。友人でアベラールの弟子でもあったジャチント・ボボーネを助祭枢機卿に任命、彼は1191年に教皇ケレスティヌス3世に選出された[1][5]

脚注

  1. ^ a b c キリスト教人名辞典、P559。
  2. ^ a b 新カトリック大事典編纂委員会、P763。
  3. ^ バンソン、P98 - P99。
  4. ^ スチュアート、P121 - P122。
  5. ^ スチュアート、P122、バンソン、P99、P106 - P107。

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ケレスティヌス2世_(ローマ教皇)」の関連用語

ケレスティヌス2世_(ローマ教皇)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ケレスティヌス2世_(ローマ教皇)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのケレスティヌス2世 (ローマ教皇) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS