ウィクトル3世_(ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

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ウィクトル3世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 06:33 UTC 版)

ウィクトル3世
第158代 ローマ教皇
教皇就任 1086年5月24日
教皇離任 1087年9月16日
先代 グレゴリウス7世
次代 ウルバヌス2世
個人情報
出生 1026年
ベネヴェント公国、ベネヴェント
死去 1087年9月16日
神聖ローマ帝国教皇領モンテ・カッシーノ
その他のウィクトル
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ウィクトル3世(Victor III, 1026年 - 1087年9月16日)は、11世紀ローマ教皇(在位:1086年 - 1087年)。本名はダウフェリウス(Dauferius)、あるいはデジデリウス(Desiderius)。グレゴリウス7世の後継者。やがてウルバヌス2世が彼の短い治世の後を継ぐことになる。

生涯

ダウフェリウスはベネヴェント公ランドルフォ5世の子として生まれ、13歳でモンテ・カッシーノ修道院に入った。そこでデジデリウスを名乗り、院長になった。1059年には教皇ニコラウス2世によって枢機卿にあげられている。グレゴリウス7世の側近として仕え、その後継者の一人と目されていた。

1086年5月24日に教皇に選ばれたが、教皇職を引き受ける気がほとんどなかったため、教皇着座式が行われたのは選挙の1年も後になった。彼は当時ローマにいた対立教皇クレメンス3世の圧迫を嫌ってモンテ・カッシーノにひきこもってしまい、トスカーナ公妃マティルデにローマ帰還を説得されている。1087年8月にベネヴェントで教会会議を開き、対立教皇クレメンス3世の破門、俗人による叙任の禁止、アフリカでのサラセン人への軍事行動などを決議した。教皇自身は会議中に病にかかり、9月16日に同地で没した。




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