グレゴリウス11世_(ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

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グレゴリウス11世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/08 02:34 UTC 版)

グレゴリウス11世
第201代 ローマ教皇
教皇就任 1370年12月30日
教皇離任 1378年3月27日
先代 ウルバヌス5世
次代 ウルバヌス6世
個人情報
出生 1336年
フランス王国 リムーザン、ロジエ=デグルトン
死去 1378年3月27日
教皇領 ローマ
その他のグレゴリウス
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グレゴリウス11世(Gregorius XI, 1336年? - 1378年3月27日)は、14世紀後半の教皇(在位:1370年 - 1378年)。フランス人で本名はピエール・ロジェ・ド・ボーフォール(Pierre Roger de Beaufort)。クレメンス6世の甥に当たる。アヴィニョンで即位するが、1377年ローマに帰還し、アヴィニョン捕囚は終わる。

インノケンティウス6世の代に教皇領が回復されたが、再び各地で反乱が起こり、教皇庁の指令が行き届かなくなった。教皇は反乱の中心であったフィレンツェ破門にした。また、チェゼーナにロベール枢機卿(後のアヴィニョン対立教皇クレメンス7世)を派遣したが、傭兵隊長ジョン・ホークウッドが虐殺事件を起こしている。

教皇にローマ帰還を訴えたのはドミニコ会のカテリーナ・ベニンカーサ(シエナのカタリナ)である。キリストと同じ聖痕が現れたとされ、後に列聖されるほど信望を集めていた女性であり、1376年、アヴィニョンを訪れ、当時破門されていたフィレンツェの許しと教皇のローマ帰還を訴えた。フランス百年戦争中でアヴィニョン周辺も次第に不穏となり、ローマも反乱側に回るおそれがあったことから、教皇もついに帰還を決意し、1377年1月にローマへ戻る[1]

しかし、帰還に反対するフランス人の勢力も強く、グレゴリウス11世の死後、就任したウルバヌス6世に反発したフランス人枢機卿がロベール枢機卿をクレメンス7世に選出、教皇が並び立つという教会大分裂(シスマ)の時代を迎えることになる。

家系図

家系図
  • クレメンス6世 - 叔父
  • レーモン・ド・テュレンヌフランス語版 - 甥。プロヴァンスの惨劇とも呼ばれる。Capitaine pontifical(アヴィニヨン教皇庁城主?)

脚注

  1. ^ 荒木成子 著「カタリナ(シエナの)」、加藤周一 編『世界大百科事典』(改訂新版)平凡社、2014年。 



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