ヨハネス19世_(ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ヨハネス19世_(ローマ教皇)の意味・解説 

ヨハネス19世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 06:40 UTC 版)

ヨハネス19世
第144代 ローマ教皇
教皇就任 1024年4月19日
教皇離任 1032年10月9日
先代 ベネディクトゥス8世
次代 ベネディクトゥス9世
個人情報
出生 不明
教皇領、ローマ
死去 1032年10月9日
教皇領、ローマ
その他のヨハネス
テンプレートを表示

ヨハネス19世(Ioannes XIX、? - 1032年10月9日)は、ローマ教皇(在位1024年 - 1032年)。もとの名はロマーノ・デイ・コンティ・ディ・トゥスコロ(Romano dei Conti di Tuscolo)。ラテン語名はロマヌス・コメス・トゥスクリ(Romanus Comes Tusculi)。

ローマの有力者トゥスコロ家に生まれ、兄のベネディクトゥス8世(在位1012年 - 24年)のあとを継いで教皇に選出された。選出された時には、聖職者経験のない俗人で、執政官および元老院議員の肩書きしか有していなかったため、教皇に就任するにあたり、司教に任命された。

ヨハネス19世は、それまでの教会の方針に反して、多額の賄賂と引き換えにコンスタンディヌーポリ総主教庁に司教の肩書きを与えることを約束したものの、聖職者たちからの大きな反対を受け、即座に約束の撤回に追い込まれた。

1024年神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世(在位1002年 - 1024年)の死に際し、ヨハネス19世はコンラート2世(在位1024年 - 1039年)の即位を支持し、コンラート2世は1027年復活祭(3月26日)にサン・ピエトロ大聖堂にて戴冠を受けた。

同年の4月6日、ラテラノ教会会議を開き、アクイレイア総大司教に対して総大司教の地位を認め、対立していたグラード総大司教を支配下に置くことを宣言した。しかし、1029年にはこの宣言を撤回し、グラードに再びその地位を認めた。他に、バーリの大司教ビザンティウスに公開勅書を与え、その12座の属司教の聖別権を付与した。

ヨハネス19世の死後、その甥に当たるベネディクトゥス9世がその地位を継承した。この時ベネディクトゥスはまだ若年であったといわれ、史料によっては12歳であったと伝えるが、通説ではおそらく18歳から20歳程度であったとされている。

なお、ヨハネス20世は存在せず、次にヨハネスを名乗ったのは1276年に位に就いたヨハネス21世である。また、ヨハネス16世対立教皇であったため、正確にはローマ教皇としてのヨハネスは18人目であったが、同時代にはこのような認識はなく、16人目の教皇ヨハネスは自らをヨハネス17世と名乗ったため、18人目の教皇ヨハネスも19世となった。さらに一部の歴史家は、ヨハネス14世とヨハネス15世の間に、もう一人別の教皇ヨハネスがいたという伝説に基づき、ヨハネス19世を、ヨハネス20世、あるいはヨハネス19世(20世)と呼んでいる。このようなことから、教皇ヨハネスの代数は非常に複雑なものとなっている。

脚注




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヨハネス19世_(ローマ教皇)」の関連用語

ヨハネス19世_(ローマ教皇)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヨハネス19世_(ローマ教皇)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヨハネス19世 (ローマ教皇) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS