グレゴリウス12世_(ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

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グレゴリウス12世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 05:35 UTC 版)

グレゴリウス12世
第205代 ローマ教皇
教皇就任 1406年11月30日
教皇離任 1415年7月4日
先代 インノケンティウス7世
次代 マルティヌス5世
個人情報
出生 1326年
ヴェネツィア共和国 ヴェネツィア
死去 1417年10月18日
教皇領 レカナーティ
その他のグレゴリウス
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グレゴリウス12世(Gregorius XII, 1326年 - 1417年10月18日)は、教会大分裂の時期に選出されたローマ教皇(在位:1406年 - 1415年)である。ヴェネツィア出身で、本名はアンジェロ・コレル(Angelo Coraria)。

生涯

1380年カステロ英語版司教1390年に名目上のコンスタンティノープル大司教を務め、インノケンティウス7世の秘書も任され、1405年枢機卿となる。翌1406年のインノケンティウス7世急死後のコンクラーヴェでローマ教皇に選出される[1][2]

アヴィニョン対立教皇ベネディクトゥス13世がいたため、コンクラーヴェでは出席した枢機卿全員で、分裂終結のためベネディクトゥス13世との交渉および両教皇の退位を目指すことを誓っていたが、グレゴリウス12世もベネディクトゥス13世も退位する気が無かった上、相互不信で交渉は決裂し実を結ばなかった。しかも、1408年にグレゴリウス12世は甥のガブリエッロ・コンドゥルマーロ(後のエウゲニウス4世)を含め新たに4人枢機卿を任命、アヴィニョン枢機卿会と同数維持するという誓いを破ったため人望を失った[1][2][3][4]

1409年、グレゴリウス12世及びベネディクトゥス13世の両教皇を見限ったローマフランス双方の枢機卿が集まり、教会大分裂を収束すべくピサ教会会議を開催する。当時は公会議主義の主張が高まっていた時期である。両教皇は会議に出席しなかったが、公会議は2人を廃位とし、ミラノ大司教ピエトロ・フィラルゴを新たに教皇に選出した(アレクサンデル5世)。しかし、両教皇はどちらも同意しなかった為、3人の教皇が鼎立する状態になった。アレクサンデル5世は翌1410年に急死し、ヨハネス23世がその後を継ぐ[1][3][5][6]

グレゴリウス12世にはボヘミアプラハ大司教ズビニェク・ザイーツが支持していたが、国王ヴァーツラフ4世は中立を主張するヤン・フスなどプラハ大学教授達の支持を当てにして、両教皇に対して中立という形でピサ教会会議を支持した。一方、ローマ王ループレヒトナポリラディズラーオはグレゴリウス12世を支持していたが、1410年のループレヒトの死でローマ王に選出されたジギスムントはヨハネス23世を支持、ラディズラーオもヨハネス23世支持に変わったため、グレゴリウス12世は1412年リミニへ逃亡した[7]

1414年から開催されたコンスタンツ公会議でグレゴリウス12世は欠席したが代理人を派遣、会議でグレゴリウス12世を含む3人の教皇が廃位を宣言される。グレゴリウス12世は退位に同意し、1415年7月4日に正式に退位。1417年にマルティヌス5世が選出されると、ようやく教会大分裂が解消された[1][5][8]

グレゴリウス12世は教皇退位後はポルト司教枢機卿として晩年をアンコーナで過ごし、レカナーティで死去[1][5]

脚注

  1. ^ a b c d e 新カトリック大事典編纂委員会、P640。
  2. ^ a b バンソン、P131。
  3. ^ a b スチュアート、P184。
  4. ^ 瀬原、P227。
  5. ^ a b c バンソン、P132。
  6. ^ 鈴本、P138 - P139、瀬原、P227 - P228、P248。
  7. ^ 鈴本、P160 - P161、スチュアート、P184 - P185、瀬原、P248、P259。
  8. ^ 鈴本、P143、P146、スチュアート、P185、瀬原、P249 - P252、P269。

参考文献

  • 鈴本達哉『ルクセンブルク家の皇帝たち-その知られざる一面-』近代文芸社、1997年。
  • 学校法人 上智学院 新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典 第2巻』研究社、1998年。
  • P.G.マックスウェル・スチュアート著、月森左知・菅沼裕乃訳、高橋正男監修『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年。
  • マシュー・バンソン著、長崎恵子・長崎麻子訳『ローマ教皇事典』三交社、2000年。
  • 瀬原義生『ドイツ中世後期の歴史像』文理閣、2011年。

関連項目


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