ウルバヌス1世_(ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ウルバヌス1世_(ローマ教皇)の意味・解説 

ウルバヌス1世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/16 14:46 UTC 版)

ウルバヌス1世
第17代 ローマ教皇
教皇就任 222年または223年
教皇離任 230年8月21日
先代 カリストゥス1世
次代 ポンティアヌス
個人情報
死去 230年8月21日
ローマ帝国ローマ
その他のウルバヌス
テンプレートを表示
秋のフランケン地方のブドウ畑

ウルバヌス1世(Urbanus I, ? - 230年8月21日)は、ローマ教皇(在位:222年 ?- 230年8月21日?)、キリスト教聖人である。

来歴

歴史家エウセビオスもウルバヌス1世について記しているが、伝説的なエピソード以外ではあまり知られていない。聖セシリアの夫ウェレリアヌスを改宗に導いたのはウルバヌス1世だといわれている。彼の時代、ヒッポリュトスがローマ司教としての自らの正統性を主張したので、後世にはヒッポリュトスが初の対立教皇と見なされるに至った[要出典]

一方で、ドイツフランケン地方では、ブドウやワインの守護聖人として名高い。これに関しては、反対派に迫害を受け、ブドウの木の陰に隠れるが、が当たって殉教したからとも、また、難を逃れたために、死後、ワインの守護聖人になると誓ったからともいわれる。それとは別に、聖杯聖体皿にを用いることを制定し、その聖杯を侍器としたからという説もある。殉教日は5月25日である。

また、5世紀ごろのラングレーの司教にも、ウルバン(ウルバヌス)という人物がいた。こちらの殉教日は1月23日であるが、やはりブドウ園主から崇拝されており、両者がいつしか混同されて、記念日も5月25日になったと考えられる。

この日、かつては盛大な祭がおこなわれていた。当時の記録によれば、聖ウルバンに扮した人物が馬に乗って、楽隊や農家の人々と共に、町中を華やかに練り歩き、勧められるワインを飲みほして、しまいには酩酊してしまったといわれる。地域によっては、ワイン売りが聖ウルバンの像を持ち歩いたり、司教冠をつけて、馬で行進したりした。夜にはブドウ園主による宴会も行われた。この祭は、殉教記念というよりは、むしろ、この時期に咲くブドウの花によって、その年の豊作を占うための農民の行事であり、教会暦では認められていなかった。次第に、教会の厳格さと相容れない、また騒動を引き起こしかねない乱痴気騒ぎに対し、教会や領主がしばしば禁止令を出すようになる。事実、1549年に、司教エラスム・ド・リンブールや、その2年後の1551年、アノー・リシュタンベール(ハナウ・リヒテンベルク)伯により禁止されている[1][2][3]

脚注

  1. ^ 植田重雄 『ヨーロッパの祭りと伝承』 講談社学術文庫、1999年、174-180頁。
  2. ^ 植田重雄 『守護聖者 人になれなかった神々』 中公新書、1991年、172-174頁。
  3. ^ ワイン好きなウルバンスブルーダー (果物狩りじゃー!)

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ウルバヌス1世_(ローマ教皇)」の関連用語

ウルバヌス1世_(ローマ教皇)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ウルバヌス1世_(ローマ教皇)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのウルバヌス1世 (ローマ教皇) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS