ウルバヌス4世_(ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ウルバヌス4世_(ローマ教皇)の意味・解説 

ウルバヌス4世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 05:57 UTC 版)

ウルバヌス4世
第182代 ローマ教皇
教皇就任 1261年8月29日
教皇離任 1264年10月2日
先代 アレクサンデル4世
次代 クレメンス4世
個人情報
出生 1200年
フランス王国 トロワ
死去 1264年10月2日
教皇領 ペルージャ
その他のウルバヌス
テンプレートを表示

ウルバヌス4世(Urbanus IV,1200年 - 1264年10月2日)は、ローマ教皇(在位:1261年 - 1264年)。フランスシャンパーニュトロワ出身で、本名はジャック・パンタレオン(Jacques Pantaléon)。

生涯と業績

靴職人の子として生まれ、パリで神学と法学を学び、リエージュの副司祭を務めた後、第1リヨン公会議に参加してインノケンティウス4世の目に留まり、1249年プロイセンに派遣されドイツ騎士団プロイセン人の間に条約を締結した。1253年ヴェルダン司教に任命、1255年にはアレクサンデル4世エルサレム主教に任命された。1261年のアレクサンデル4世の死後に教皇に選出、ウルバヌス4世を名乗った。

イタリアシチリア王国神聖ローマ帝国を治めていたホーエンシュタウフェン朝と教皇との対立の場となり、都市国家と貴族もそれぞれ教皇派と皇帝派に分かれて抗争を続けていた。ウルバヌス4世はシチリア王マンフレーディを討ち取る為にフランスルイ9世の弟・シャルル・ダンジュー1263年7月にシチリア王に封じた。しかし、シャルルが準備に手間取る間にマンフレーディが中部イタリアへ侵攻、ウルバヌス4世はペルージャへ避難したが、そこで死亡した。打倒ホーエンシュタウフェン朝の願いは次の教皇クレメンス4世に託される事になった。

外交では東ローマ帝国皇帝ミカエル8世パレオロゴスアカイア公ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンの講和に尽力した。また、タンホイザー伝説の登場人物の1人に数えられている。




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ウルバヌス4世_(ローマ教皇)」の関連用語

ウルバヌス4世_(ローマ教皇)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ウルバヌス4世_(ローマ教皇)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのウルバヌス4世 (ローマ教皇) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS