グレゴリウス6世_(ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

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グレゴリウス6世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 06:37 UTC 版)

グレゴリウス6世
第148代 ローマ教皇
教皇就任 1045年5月1日
教皇離任 1046年12月20日
先代 ベネディクトゥス9世
次代 クレメンス2世
個人情報
出生 不明
死去 1048年初頭
ケルン
その他のグレゴリウス
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グレゴリウス6世(グレゴリウス6せい、Gregorius Ⅵ、? - 1048年初頭)は、第148代ローマ教皇(在位1045年5月1日 - 1046年12月20日)。本名はヨハネス・グラティアヌス(Ioannes Gratianus)。

ラテン門の聖ヨハネ教会の首席司祭を務め、高潔な人物として高い評価を得ていた人物であった。また教皇ベネディクトゥス9世代父でもある。

ベネディクトゥス9世が教皇位を退こうと考えて代父グラティアヌスに相談(結婚が目的だったとされる)。そしてグラティアヌスに教皇位を譲り、返礼としてベネディクトゥス9世は多額の金を贈与した。そうしてグラティアヌスがグレゴリウス6世として1045年5月1日に教皇に就任した。

放蕩だったベネディクトゥス9世に代わってグレゴリウス6世が教皇に就いたことを、ペトルス・ダミアニなどは歓迎したものの、教会に安泰が訪れたわけではなかった。というのも、かつてベネディクトゥス9世をローマから追放し、教皇となり、後にベネディクトゥス9世によってローマから追放された教皇シルウェステル3世(サビーナ司教でもあった)が自らの教皇位の正当性を主張したからであった。しかもここにきてベネディクトゥス9世が教皇位を手放したことを後悔し、再び教皇座に就こうと画策したことから、事態がさらに複雑化することとなる。

グレゴリウス6世は助祭ヒルデブランド(後のグレゴリウス7世)の助言を借りつつ、ベネディクトゥス9世には手紙や教会会議での呼びかけでもって、シルウェステル3世には武力でもって事態を収めようとした。しかしますます混乱の度を深めるだけであった。

この宗教界の混乱を収拾するために、ローマ王ハインリヒ3世が1046年秋にアルプスを越えて進軍した。グレゴリウス6世はイタリアに入ったハインリヒ3世と面会し、王の要請に基づいてストリにて教会会議を招集、1046年12月20日に会議が開催される。会議ではベネディクトゥス9世とシルウェステル3世の聖職剥奪とグレゴリウス6世への辞職勧告、およびシルウェステル3世の修道院送致が可決された。会議でグレゴリウス6世は「私の罪状がシモニアというのであれば、私の名の下に開催されたこの宗教会議もシモニア的である」と述べたものの、結局は辞職をした。後任にバンベルク司教スイドガーがクレメンス2世として教皇に即位した。

グレゴリウス6世は皇帝によって1047年5月にケルンへ連れられ、1048年初頭に当地で死去した。グレゴリウス6世に付き従ったヒルデブランドはグレゴリウス6世が死ぬまでケルンに滞在、この間にクリュニー会の思想に触れたと推測されるが、その後1049年1月にローマに戻った。




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