ハインリヒ3世のザクセン経営
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「ザクセン戦争 (ハインリヒ4世)」の記事における「ハインリヒ3世のザクセン経営」の解説
ザリエル家とザクセン人の間の対立の芽は、すでにハインリヒ4世の父ハインリヒ3世の治下において潜在的に形成されていた。 「黒王」ハインリヒ3世は、本拠地フランケン大公領のほか、相互相続契約などによってシュヴァーベン大公領やバイエルン大公領を手に入れ、それを直轄地とし、隣接するボヘミアやハンガリーまで臣従させた。また、ハインリヒ3世はクリュニー会の改革運動を支持し、ローマ教皇庁の改革にもみずから乗り出した。1046年には、ストリの教会会議でベネディクトゥス9世とシルウェステル3世の聖職剥奪とグレゴリウス6世への辞職勧告を決め、信頼するドイツ人司教を教皇位につけてクレメンス2世とし、その手で戴冠された。 「黒王」ハインリヒ3世がもっとも意を注いだのは、ザクセン大公領の経営であった。1045年、ゴーゼック(ドイツ語版)伯アーダルベルト(ドイツ語版)をブレーメンの大司教に任じて、ヘルマン・ビルング以来世襲的ザクセン大公の地位にあったビルング家の権力を削ごうとした。また、ゴスラー周辺のハルツ山地地方に多数の王室直轄地(Krongut)をつくりだし、城塞を築いて、皇帝居城(カイザープファルツ(ドイツ語版))に多数の臣下と共に滞留した。他の城には、ヴィガンテンシュタイン、モースブルク、サッセンシュタイン(ドイツ語版)、シュパーテンベルク(ドイツ語版)、ハイムブルク(ドイツ語版)、ハーセンブルク(ドイツ語版)があった。これは、ザクセンの人びとにとっては大きな経済的負担となっていた。
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