ハインリヒ6世と死後の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 03:17 UTC 版)
「ホーエンシュタウフェン朝」の記事における「ハインリヒ6世と死後の混乱」の解説
フリードリヒ1世の死後は子のハインリヒ6世が後を継いだ。ハインリヒ6世は妻がシチリア王女コスタンツァであったことから、シチリア王グリエルモ2世の死後、シチリア王位を狙った。これに対してグリエルモ2世の後を継いだタンクレーディはリチャード1世やローマ教皇、そして反ハインリヒ的なドイツ諸侯と連合して対抗した。このため一時ハインリヒ6世は危機に陥ったが、フランス王フィリップ2世(尊厳王)と連合することでこれに対抗し、さらに1192年には十字軍から帰国途中にあったリチャード1世を逮捕した。 1194年にタンクレーディが死去して幼いグリエルモ3世が後を継いだなどの諸事情もあって、ハインリヒ6世は優位となり、遂にシチリアに遠征して同地を征服し、シチリア王として即位したのであった。さらにハインリヒ6世は、当時弱体化していた東ローマ帝国の征服にも乗り出し、1197年には遠征準備に入ったが、同年のうちに急死してしまった。有能な皇帝であったが、あまりに若すぎる33歳の死であった。 ハインリヒ6世の若すぎる死は、帝国に混乱をもたらした。ハインリヒ6世にはコスタンツァとの間にフリードリヒ(後の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世)がいたが、3歳の幼少であったために父の後を継ぐことができず、皇位は空位となってしまった。このため、次の皇位をめぐってハインリヒ6世の弟フィリップとヴェルフ家のオットー4世(ハインリヒ獅子公の子)との間で皇位をめぐっての争いが起こる。この皇位争いにはフィリップが勝利したが、1208年に娘との結婚を反対されたヴィッテルスバッハ家のバイエルン宮中伯オットー8世に暗殺された。その後、皇位はヴェルフェン朝のオットー4世の手に渡り、ホーエンシュタウフェン朝は一時的に歴史の表舞台から姿を消した。
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