遠征準備とは? わかりやすく解説

遠征準備

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:45 UTC 版)

桓温」の記事における「遠征準備」の解説

隆和元年362年)、前燕将軍呂護洛陽攻めると、河南郡太守戴施は城を捨てて逃走した冠軍将軍陳祐が使者送って危急告げると、桓温将軍庾希と竟陵郡太守鄧遐水軍3000与えて河南救援させた。また、洛陽に都を戻すよう再び朝廷上疏し、さらに永嘉の乱により河南逃れてきた者たちを郷里還すよう進言した。朝廷はみな桓温恐れていたので敢えて異議を挟まなかったが、ただ散騎常侍著作郎孫綽だけはこれに猛然と反対した。桓温孫綽の上表文見て憤ったが、結局誰も北へ帰還を望むものはいなかったので、洛陽へ遷都実行には移されなかった。さらに、朝廷交州広州遠方であることを理由桓温交州広州都督職を解任し、改め都督并司冀三州諸軍事に任じたが、桓温はこれを受けなかった。 興寧元年363年)、侍中大司馬都督中外諸軍事・仮黄鉞加えられた。桓温は撫軍司馬王坦之を長史抜擢し、袁真を都督并司冀三州諸軍事に、庾希を都督青州諸軍事に任じた。こうして、桓温内外総督する立場となったが、自身遠方にいたので、上疏して7つ建言をした。「一.私党派閥)が結成される事により私議沸騰するので、これを抑え込み政治正す事。二.戸口少なく漢代の1郡に満たない地域は、余分な官を統合して職を縮減し、また長く職務当たらせる事。三.機密政務重視し公文書の処理に期限設ける事。四.長幼礼儀明確にし、国への忠を奨励する事。五.褒貶賞罰実体に即して行う事。六.前典に則り学業盛んにする事。七.史官立て晋書編纂する事」。役人全てを奏行した。桓温は羽葆鼓吹加えられ左右長史司馬従事中郎の4人を置くことを許されたが、桓温鼓吹のみを受けてそれ以外全て辞退したまた、この時期土断実行した亡命政権である東晋では北から逃れてきた流民と元からこの地にいた人間とが混在しており、これらの流民は税役逃れのために戸籍登録される事を逃れる傾向があった。そこで流民現在の居住地に住む者として戸籍登録し、税と兵役義務課す為に行われたのが土断であった東晋の約100年の歴史の中で土断記録のあるものだけでも9回行われているが、桓温よるものその中で規模徹底性ともに最大級の物で、3月庚戌行われたので庚戌土断呼ばれた。この土断財政寄与する所が極めて大きかったとされる興寧2年364年2月前燕太傅慕容評龍驤将軍李洪河南へ侵攻した。4月李洪らは許昌汝南陳郡攻略して晋軍を度々破った桓温は袁真を派遣して防御させ、さらに自ら水軍率いて合肥まで進んだ5月揚州牧・録尚書事加えられた。侍中顔旄は宣旨携えて桓温の下へ赴き、桓温建康呼び戻して朝政参画させようとした。桓温はこれに上疏して、中原未だ奪還できていないのを理由辞退したが、朝廷はこれを許さずに再び詔を下した桓温がさらに赭圻へ軍を進めると、尚書車灌が派遣され、詔により桓温進軍止められた。桓温はこれに応じて赭圻に留まり、この地に城を築いたまた、録尚書事辞退して揚州牧のみを領した興寧3年365年)、前燕洛陽攻略し洛陽の守将陳祐は逃走した当時執政をしていた司馬昱桓温と洌洲において会合し桓温拠点姑孰移して征討準備をさせることにした。だが、哀帝崩御した事により取りやめとなった太和3年368年)、殊礼を加えられ、その位は諸侯王の上となった

※この「遠征準備」の解説は、「桓温」の解説の一部です。
「遠征準備」を含む「桓温」の記事については、「桓温」の概要を参照ください。

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