遠征準備
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隆和元年(362年)、前燕の将軍呂護が洛陽を攻めると、河南郡太守戴施は城を捨てて逃走した。冠軍将軍陳祐が使者を送って危急を告げると、桓温は将軍庾希と竟陵郡太守鄧遐に水軍3000を与えて河南を救援させた。また、洛陽に都を戻すよう再び朝廷へ上疏し、さらに永嘉の乱により河南に逃れてきた者たちを郷里へ還すよう進言した。朝廷はみな桓温を恐れていたので敢えて異議を挟まなかったが、ただ散騎常侍領著作郎孫綽だけはこれに猛然と反対した。桓温は孫綽の上表文を見て憤ったが、結局誰も北への帰還を望むものはいなかったので、洛陽への遷都も実行には移されなかった。さらに、朝廷は交州・広州が遠方であることを理由に桓温の交州・広州の都督職を解任し、改めて都督并司冀三州諸軍事に任じたが、桓温はこれを受けなかった。 興寧元年(363年)、侍中・大司馬・都督中外諸軍事・仮黄鉞を加えられた。桓温は撫軍司馬王坦之を長史に抜擢し、袁真を都督并司冀三州諸軍事に、庾希を都督青州諸軍事に任じた。こうして、桓温は内外を総督する立場となったが、自身は遠方にいたので、上疏して7つの建言をした。「一.私党(派閥)が結成される事により私議が沸騰するので、これを抑え込み政治を正す事。二.戸口が少なく漢代の1郡に満たない地域は、余分な官を統合して職を縮減し、また長く職務に当たらせる事。三.機密の政務を重視し、公文書の処理に期限を設ける事。四.長幼の礼儀を明確にし、国への忠を奨励する事。五.褒貶や賞罰は実体に即して行う事。六.前典に則り、学業を盛んにする事。七.史官を立て、晋書を編纂する事」。役人は全てを奏行した。桓温は羽葆鼓吹を加えられ、左右長史・司馬・従事中郎の4人を置くことを許されたが、桓温は鼓吹のみを受けてそれ以外は全て辞退した。 また、この時期に土断を実行した。亡命政権である東晋では北から逃れてきた流民と元からこの地にいた人間とが混在しており、これらの流民は税役逃れのために戸籍に登録される事を逃れる傾向があった。そこで流民を現在の居住地に住む者として戸籍に登録し、税と兵役の義務を課す為に行われたのが土断であった。東晋の約100年の歴史の中で土断は記録のあるものだけでも9回行われているが、桓温によるものはその中でも規模・徹底性ともに最大級の物で、3月の庚戌に行われたので庚戌土断と呼ばれた。この土断は財政に寄与する所が極めて大きかったとされる。 興寧2年(364年)2月、前燕の太傅慕容評・龍驤将軍李洪が河南へ侵攻した。4月、李洪らは許昌・汝南・陳郡を攻略して晋軍を度々破った。桓温は袁真を派遣して防御させ、さらに自ら水軍を率いて合肥まで進んだ。5月、揚州牧・録尚書事を加えられた。侍中顔旄は宣旨を携えて桓温の下へ赴き、桓温を建康に呼び戻して朝政に参画させようとした。桓温はこれに上疏して、中原が未だ奪還できていないのを理由に辞退したが、朝廷はこれを許さずに再び詔を下した。桓温がさらに赭圻へ軍を進めると、尚書車灌が派遣され、詔により桓温の進軍は止められた。桓温はこれに応じて赭圻に留まり、この地に城を築いた。また、録尚書事を辞退して揚州牧のみを領した。 興寧3年(365年)、前燕が洛陽を攻略し、洛陽の守将陳祐は逃走した。当時執政をしていた司馬昱は桓温と洌洲において会合し、桓温の拠点を姑孰に移して征討の準備をさせることにした。だが、哀帝が崩御した事により取りやめとなった。 太和3年(368年)、殊礼を加えられ、その位は諸侯王の上となった。
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