ベル島の攻略と対スペイン戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 14:14 UTC 版)
「エドワード・ホーク」の記事における「ベル島の攻略と対スペイン戦」の解説
詳細は「ベル島の攻略」を参照 フランスの足元を崩す試みとして、ピットはブルターニュ半島の沖にあるベル島を包囲する案を思いつき、海軍にそのための遠征準備を整えるよう指示した。ホークはアンソンへの手紙で、この案への反対を明らかにした、これは後に広く流布されることになった。ピットはこれに対して激高し、ホークが自分の職権を踏み越えたと考えた。それでもなおピットはベル島への遠征への準備を迫った。1761年4月、最初の襲撃は撃退されて完敗したが、援軍により、イギリスは6月にベル島を手中に収めることができた。 このベル島の攻略により、ピットは新たな勝利を得て、フランス国民は、イギリスに地中海の島を取られたことで大いに士気が下がった。しかし、この攻略での戦術の有用性に対するホークの批判も裏付けられた。フランス沿岸へのさらなる襲撃には、使える戦術ではなかった。フランスは敗戦を特に気にかけず、七年戦争後の和平交渉でイギリスに、この島と交換したいものはない、お望みならばイギリスが持っていてよろしいと伝えた 。 後にフランス、スペインが同族同盟を締結してイギリスに宣戦した。これはジョージ3世によって却下されたが、結局は両陣営の対戦となり、この時はポーコックの艦隊が主戦力となったが、この戦争では損害が大きかった。また、やはり戦場となったインドにおいてはすでに敵がいなかったため、イギリスはマニラ沖に艦隊を進め、スペイン領であったフィリピンの攻略に成功した。
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