遠征後の経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/02 05:04 UTC 版)
「アーネスト・ジョイス」の記事における「遠征後の経歴」の解説
ジョイスはニュージーランドに戻った後、主に雪盲の症状から入院させられ、ジョイス自身の証言ではその後18か月間サングラスを付けさせられた。この期間にクライストチャーチ出身のベアトリス・カートレットと結婚した。おそらく、その後は極圏での作業に適していなかったが、1918年に再度海軍に入隊しようとして失敗した。1919年9月、自動車事故で重傷を負い、数か月間快復に要した後でイングランドに戻った。1920年、ロス海支隊に参加していたジョン・コープが率いる新しい南極遠征と契約したが、この計画は中止された。その後シャクルトンからの賠償を要求し続け、シャクルトンとの仲が決裂した。その結果、シャクルトンが次に計画し、1921年に出発したクエスト遠征には招かれなかった。1921年から1922年のイギリスのエベレスト山遠征に応募したが、選に漏れた。 1923年、1916年の補給所設置の旅の帰りにマッキントッシュとスペンサー・スミスの命を救ったことで、アルバート・メダルを贈られ、再び大衆の前に現れた。リチャーズも同じ賞を受けた。ヘイワードとアーネスト・ワイルドは1918年に地中海で海軍任務にあるときにチフスで死んでいたが、彼らも死後受賞となった。1929年、ジョイスはその日記を『南極の道』と題して出版したが、大いに議論を呼ぶことになった。この作品では自分の役割を大きく吹聴し、他の者の貢献を低く評価し、創作的な詳細を付け加えていた。その後、様々な遠征計画に関わり、その経験に基づく多くの記事や話を書き、最後はホテルのポーターとして静かな余生に落ち着いた。1940年5月2日、65歳で自然死を遂げた。ジョイスが80歳代まで生きたという主張もある。これはヴィヴィアン・フックスとその隊が最初に南極大陸を横断したとされる1958年を過ぎたことになるが、この説は他の資料で支持されていない。ジョイスは南極の座標南緯75度36分 東経160度38分 / 南緯75.600度 東経160.633度 / -75.600; 160.633 (Mount Joyce)にあるジョイス山に、その名を記念されている。
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