補給所設置の旅とは? わかりやすく解説

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補給所設置の旅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/02 05:04 UTC 版)

アーネスト・ジョイス」の記事における「補給所設置の旅」の解説

隊は1915年9月1日2度目の旅に出た隊員訓練中でまだ半分しか適応しておらず、原始的な衣服間に合わせ装備だった。残っていたは5頭のみであり、荷物を運ぶのは人力曳くそりだった。南への旅始め前に帰りの全行程800海里 (1,500 km; 920 マイル) あったので、約3,800ポンド (1,700 kg) の物資をミンナブラフの補給所持っていく必要があった。任務この段階は12月28日まで続いたマッキントッシュは隊を2つ分け1つチームマッキントッシュ自身が、もう1つジョイス率いた。この2人方法に関する意見食い違い続いた最終的に文句なし効率良いジョイスチームの方法証拠見せられマッキントッシュ折れたジョイスその日記に「人を働かせるためにこれほど愚かなことに出くわしたことは、わたしの経験ではなかった」と記していた。 隊員の中で体力の無い者はアーノルド・スペンサー・スミスとマッキントッシュ自身だった。この頃までに肉体的衰弱兆候示していた。南に向かう長い旅はブラフ・デポから南緯8330分のマウントホープまでであり、そこに最後補給所を置く予定だった。プリマス・ストーブが故障したために3人の隊員が戻るしかなくなり隊員は6人に減った残ったのはマッキントッシュジョイスの他にスペンサー・スミス、アーネスト・ワイルド(フランク・ワイルドの弟)、ディック・リチャーズ、ビクター・ヘイワードだった。は4頭連れて行った次第凍傷雪盲最後壊血病苦しむようになった。スペンサー・スミス倒れその後はそりで運ぶ必要があった。マッキントッシュもほとんど歩けなくなっていたが、最後補給所マウントホープ設置するまで頑張り続けた帰路では、事実上指揮官次第ジョイスになっていった。マッキントッシュスペンサー・スミス同様にそりに乗せて運ぶようになっていった。旅は長引く戦いとなり、途中でスペンサー・スミス死に、他の隊員忍耐限界来ていた。マッキントッシュ肉体精神衰弱しており、ジョイス雪盲患っていたが、ハットポイントまでの残り行程率いて行く間、テント中にマッキントッシュ残していくしかなくなったその後ジョイスとアーネスト・ワイルドがマッキントッシュ連れ戻り残った5人全員1916年3月18日にハットポイントまで戻った

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補給所設置の旅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 14:25 UTC 版)

アムンセンの南極点遠征」の記事における「補給所設置の旅」の解説

2月初旬アムンセンバリア越える補給所設置の旅の編成始めた。これは次の夏に南極点に向かうための布石だった。補給所計画され経路沿って一定の間隔前もって設置されるものであり、南極点隊が携行する燃料食料の量が限られているのを補うためだった。補給所設置の旅は装備と人を初めて試す機会でもあった。2月10日出発する最初の旅のために、アムンセンはプレストルド、ヘルマー・ハンセン、ヨハンセン連れて行くことにした。18頭の曳くことになったアムンセン出発前にニールセンフラム号に関する指示残した。この船はブエノスアイレスに再補給向かいその後南氷洋海洋学調査計画実行し1912年になればできるだけ早くバリア戻ってくることとされた。 4人の隊が南への旅始めたとき、バリアに関する知識以前探検家出版した本からのものだけであり、困難な移動条件予測していた。バリア表面通常の氷河表面似ていることに驚かされた。初日には15海里 (27 km) を進んだアムンセンこのような条件下で達が如何に頑張っているかに注目しイギリス隊がバリア上で使用嫌っていることを不思議がった。2月14日には南緯80度に達した。そこで補給物資置いて帰還の途に就き2月16日フラムハイム戻って来た。 第2の補給所設置の旅は2月22日フラムハイム発った。8人の隊員と7台の42頭の出発したバリアの状態は急速に悪くなっていた。平均気温9 °C (16 °F) 落ちており、以前滑らかだった氷の表面に粗い浮いていた。気温は -40 °C (-40 °F) まで落ちることもある中で、3月3日には南緯81度に達し、第2の補給所設営したアムンセンはヘルマー・ハンセン、プレストルド、ヨハンセン、ウィスティングと、最強と共に先に進み南緯83度まで達することを期待していたが、困難な状況下で3月8日南緯82度で停止したアムンセン達が疲れているのが分かった。隊は帰路につき、軽くなっていたので迅速に進み3月22日にはフラムハイムまで帰還したアムンセンは旅が不可能になる極夜迫っていたので、その前にさらに物資を南に運びたいと思った3月31日ヨハンセン率いる7人の隊がフラムハイム発って南緯80度の補給所向かい、このとき殺した6頭のアザラシ、2,400ポンド (1,100 kg) の肉を持って行った。この隊はクレバス原野迷った後、予定より3日遅い4月11日戻って来た。 結局、補給所設置の旅で3か所の補給所設置しアザラシの肉3,000ポンド (1,400 kg) と、灯油40英ガロン (180 L) を含む7,500ポンド (3,400 kg) の物資運んだアムンセンはこの旅から多くのことを学んだ。特に2回目の旅で、達があまりに重い苦闘したことだった。南極点行のときはの数を増やすことにした。必要ならば隊員の数を減らすことも考えた。またこの旅では隊員の間の不和、特にヨハンセンアムンセンの間のものが出てきた。2回目の旅でヨハンセン装備性能満足していないことを公然と口に出しており、アムンセン自分権威に対して挑戦されていると考えた

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