補給所設置の旅
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「アーネスト・ジョイス」の記事における「補給所設置の旅」の解説
隊は1915年9月1日に2度目の旅に出た。隊員は訓練中でまだ半分しか適応しておらず、原始的な衣服に間に合わせの装備だった。残っていた犬は5頭のみであり、荷物を運ぶのは人力で曳くそりだった。南への旅を始める前に、帰りの全行程は800海里 (1,500 km; 920 マイル) あったので、約3,800ポンド (1,700 kg) の物資をミンナブラフの補給所に持っていく必要があった。任務のこの段階は12月28日まで続いた。マッキントッシュは隊を2つに分け、1つのチームはマッキントッシュ自身が、もう1つをジョイスが率いた。この2人の方法に関する意見の食い違いが続いた。最終的に文句なしに効率の良いジョイスチームの方法の証拠を見せられ、マッキントッシュが折れた。ジョイスはその日記に「人を働かせるためにこれほど愚かなことに出くわしたことは、わたしの経験ではなかった」と記していた。 隊員の中で体力の無い者はアーノルド・スペンサー・スミスとマッキントッシュ自身だった。この頃までに肉体的衰弱の兆候を示していた。南に向かう長い旅はブラフ・デポから南緯83度30分のマウントホープまでであり、そこに最後の補給所を置く予定だった。プリマス・ストーブが故障したために3人の隊員が戻るしかなくなり、隊員は6人に減った。残ったのはマッキントッシュ、ジョイスの他にスペンサー・スミス、アーネスト・ワイルド(フランク・ワイルドの弟)、ディック・リチャーズ、ビクター・ヘイワードだった。犬は4頭連れて行った。次第に凍傷、雪盲、最後は壊血病に苦しむようになった。スペンサー・スミスが倒れ、その後はそりで運ぶ必要があった。マッキントッシュもほとんど歩けなくなっていたが、最後の補給所をマウントホープに設置するまで頑張り続けた。帰路では、事実上の指揮官が次第にジョイスになっていった。マッキントッシュはスペンサー・スミスと同様にそりに乗せて運ぶようになっていった。旅は長引く戦いとなり、途中でスペンサー・スミスが死に、他の隊員も忍耐の限界に来ていた。マッキントッシュは肉体も精神も衰弱しており、ジョイスは雪盲を患っていたが、ハットポイントまでの残り行程を率いて行く間、テントの中にマッキントッシュを残していくしかなくなった。その後ジョイスとアーネスト・ワイルドがマッキントッシュを連れに戻り、残った5人全員が1916年3月18日にハットポイントまで戻った。
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補給所設置の旅
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「アムンセンの南極点遠征」の記事における「補給所設置の旅」の解説
2月初旬、アムンセンはバリアを越える補給所設置の旅の編成を始めた。これは次の夏に南極点に向かうための布石だった。補給所は計画された経路に沿って一定の間隔で前もって設置されるものであり、南極点隊が携行する燃料と食料の量が限られているのを補うためだった。補給所設置の旅は装備、犬と人を初めて試す機会でもあった。2月10日に出発する最初の旅のために、アムンセンはプレストルド、ヘルマー・ハンセン、ヨハンセンを連れて行くことにした。18頭の犬が橇を曳くことになった。アムンセンは出発前にニールセンにフラム号に関する指示を残した。この船はブエノスアイレスに再補給に向かい、その後南氷洋の海洋学的調査計画を実行し、1912年になればできるだけ早くバリアに戻ってくることとされた。 4人の隊が南への旅を始めたとき、バリアに関する知識は以前の探検家が出版した本からのものだけであり、困難な移動条件を予測していた。バリアの表面は通常の氷河表面と似ていることに驚かされた。初日には15海里 (27 km) を進んだ。アムンセンはこのような条件下で犬達が如何に頑張っているかに注目し、イギリス隊がバリア上で犬の使用を嫌っていることを不思議がった。2月14日には南緯80度に達した。そこで補給物資を置いて、帰還の途に就き、2月16日にフラムハイムに戻って来た。 第2の補給所設置の旅は2月22日にフラムハイムを発った。8人の隊員と7台の橇、42頭の犬が出発した。バリアの状態は急速に悪くなっていた。平均気温は 9 °C (16 °F) 落ちており、以前は滑らかだった氷の表面に粗い雪が浮いていた。気温は -40 °C (-40 °F) まで落ちることもある中で、3月3日には南緯81度に達し、第2の補給所を設営した。アムンセンはヘルマー・ハンセン、プレストルド、ヨハンセン、ウィスティングと、最強の犬達と共に先に進み、南緯83度まで達することを期待していたが、困難な状況下で3月8日に南緯82度で停止した。アムンセンは犬達が疲れているのが分かった。隊は帰路につき、橇が軽くなっていたので迅速に進み、3月22日にはフラムハイムまで帰還した。アムンセンは旅が不可能になる極夜が迫っていたので、その前にさらに物資を南に運びたいと思った。3月31日、ヨハンセンが率いる7人の隊がフラムハイムを発って南緯80度の補給所に向かい、このとき殺した6頭のアザラシ、2,400ポンド (1,100 kg) の肉を持って行った。この隊はクレバスの原野で迷った後、予定より3日遅い4月11日に戻って来た。 結局、補給所設置の旅で3か所の補給所を設置し、アザラシの肉3,000ポンド (1,400 kg) と、灯油40英ガロン (180 L) を含む7,500ポンド (3,400 kg) の物資を運んだ。アムンセンはこの旅から多くのことを学んだ。特に2回目の旅で、犬達があまりに重い橇に苦闘したことだった。南極点行のときは犬の数を増やすことにした。必要ならば隊員の数を減らすことも考えた。またこの旅では隊員の間の不和、特にヨハンセンとアムンセンの間のものが出てきた。2回目の旅でヨハンセンは装備の性能に満足していないことを公然と口に出しており、アムンセンは自分の権威に対して挑戦されていると考えた。
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