南極点行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 14:25 UTC 版)
1911年9月13日、スコットが南極点行の計画を発表した。16人が、残っている2台のモーター駆動橇、ポニー、犬を使ってバリアに挑み、ベアドモア氷河に至る。この地点で犬は基地に戻し、ポニーは銃殺して食料にする。その後12人が3つの班で氷河に登り、南極台地越えを始める。物資は人間が橇を曳いて運ぶ。これら3班のうち1つのみが極点に達する。支援班は特定の緯度で戻ることになる。最後に極点に行く班は行軍の間にスコットが決める、というものだった。スコット隊が南極点に向けて出発する11日前、1911年10月20日付で、エバンス岬で、犬の御者メアーズに、南極点から迅速に戻るために次の文書による命令を渡していた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}2月第1週頃、貴方にとって3回目の南極点への旅を始められたい。その目的は第3の南極点班の帰還を早めることであり、船に乗るチャンスを与えるものである。貴方が出発する日は帰ってくる班から受けた知らせ、1トン・デポに残しておける犬の食料の量、犬の状態、などによらねばならない。今の見込みでは3月1日頃、南緯82度あるいは82度30分あたりで帰還する班と落ち合うことが期待される。 モーター隊(エバンス大尉、デイ、ラシュリー、フーパー)がエバンス岬を10月24日に2台のモーター駆動橇で出発し、その目標は南緯80度30分まで進んでそこで後続の部隊を待つことだった。11月1日までに、2台のモーター駆動橇はまだ50マイル (80 km) ほどしか進んでいない段階で故障し、この班は740ポンド (336 kg) の物資を人力で曳いて、残り150マイル (240 km) を進むことになり、目標の緯度までは2週間かかった。部隊の残りはエバンス岬を11月1日に犬とポニーを連れて出発し、先行部隊には11月21日に追いついた。 スコットの当初の計画では、犬をこの段階で基地に戻し、物資を補給して、1912年2月から3月に帰還して来る班を出迎えることになっていた。しかし、それまでの進行度合いが鈍かったので、スコットはさらに遠くまで犬を連れて行くことに決めた。デイとフーパーが、エバンス岬の留守を任されたシンプソンにこの修正に関する伝言をもって出発した。12月4日、隊はゲイトウェイに達した。その名前はシャクルトンがバリアからベアドモア氷河に至る時に名付けたものだった。この地点でブリザードが発生し、隊は12月9日までそこで宿営したので、氷河行きのための食料を消費し始めることになった。ブリザードが止むと残っていたポニーを計画通り射殺し、その肉は帰還する隊の食料として保存された。12月11日、メアーズとディミトリが犬を連れて戻り、基地への伝言を持って行った。その伝言は「事態は期待したほど良くはないが、気を落とさず、運は好転するはずだと自分たちに言い聞かせている」としていた。 隊はベアドモア氷河を上り始め、12月20日には南極台地に掛かり、そこで氷河上部補給所を置いた。この時点ではまだスコットから誰が最後の南極点班に入るか提示はなかった。12月22日、南緯85度20分で、スコットはアトキンソン、チェリー=ガラード、ライト、キーヘインを送り返した。スコットはアトキンソンに、来年3月に南極点から帰還する隊を支援するために、「メアーズが国に戻っていた場合に犬のチーム2つを率いて南に来る」ということを言い含めた。 残った8人が南行きを続け、このときの気象条件は良く、バリアで遅れた時間を幾らか取り戻すことができた。12月30日までに、シャクルトンが1908年から1909年に進んだ工程表に「追いついて」いた。1912年1月3日、南緯87度32分で、スコットは南極点行の班を5人(スコット、ウィルソン、オーツ、ボワーズ、エドガー・エバンス)と決め、エバンス大尉、ラシュリー、クリーンが戻ることにした。5人で南極点に向かうという判断は、元々4人でことを運ぶというのが基本だったので、物資の重量と食料の再計算を行なった。 南極点行の班が南極点に向かう途中で、1月9日にシャクルトンの最南端である南緯88度23分を過ぎた。その7日後、目標まで約15マイル (24 km) の地点で、アムンセンの黒い旗が視認され、隊は遅れを取ったことを知った。翌日1912年1月17日、隊は南極点に達した。「南極点。そうだ、しかし予想していたのとは大変違う環境にある。...偉大な神よ! ここは恐ろしい場所であり、最初に到達したという報償なしにここまで苦労してやってきた我々には十分恐ろしいものである。そうだ、ここで得たものがある」スコットはオーストラリアの電報局に着くまで、アムンセンと競争する望みがまだあった。「今や最初に報せを送るための絶望的な戦いがある。我々にそれができるか不安である」と言っていた。しかし、1月18日、隊はアムンセンのテントを発見し、中には幾らかの物資とノルウェー国王ホーコン7世に宛てた手紙(アムンセンはスコットにその配達を丁重に求めていた)、さらにアムンセンが34日前の1911年12月16日(アムンセンのカレンダーが間違っており、正確には12月15日)に南極点に到着したというメモが残されていた。 スコットは自分たちの位置を確認し旗を立てた後で、その日遅くに帰還の途に就いた。その後の3週間は進度が良く、スコットの日記は何度か「素晴らしい行軍」と記されていた。それでもスコットは隊員の体調を心配し始めていた、特にエドガー・エバンスは激しい凍傷になっており、スコットの記録では、「かなり動けなくなりつつあった。」この隊がベアドモア氷河の頂部に達して、バリアに下る準備をしている頃に、オーツの足の状態も次第に心配なものになっていた。2月7日、隊は下り始め、補給所の場所を突き止めるのがかなり難しかった。天候は良かったので、スコットは半日の休憩を命じ、ウィルソンには「地質調査」と30ポンド (14 kg) の化石の入った標本を橇に載せることを認めた。これら植物の化石は現在大陸移動の仮説を証明するものとして知られている。それでも、エドガー・エバンスの体力が弱り続けた。手の損傷が治りきらず、激しい凍傷となり、何度か氷の上に倒れて頭を負傷したと考えられている。「彼はいつもの自立した人とは絶対的に変わっていた」とスコットは記した。氷河の底近くで、エバンスは倒れ、2月17日に死んだ。 一方エバンス岬では、テラノバが2月初旬に戻ってきており、この基地を指揮していたアトキンソンが、命令されていたようにスコットを出迎えるために犬とともに南に向かうのではなく、隊員と共に船から物資を降ろすことに決めた。アトキンソン(医師)がスコットと落ち合うために南に出発したとき、壊血病に罹ったエドワード("テディ")・エバンスと出逢い、至急の治療を必要としていた。 エバンス大尉はその班の帰還中に壊血病が酷くなった。1トン・デポから先は歩けなくなり、仲間の曳く橇に乗せられハットポイントの南35マイル (56 km) まで来た。2月18日、クリーンが一人で歩いてハットポイントに行き、そこでアトキンソンとディミトリ、それに犬橇のチームがスコットを出迎える旅の準備をしているのを見つけた。アトキンソンは救援隊を形成し、何とか生きていたエバンスをハットポイントまで2月22日に連れ帰った。ラシュリーとクリーンは後にこの人命救助の功績でアルバート・メダルを受けた。 エバンス救援に時間を取られたアトキンソンは経験を積んだナビゲーターであるライトを南に送ってスコットを迎えようとしたが、気象学者主任のシンプソンが、ライトは科学的作業に必要であると宣言した。アトキンソンは続いて2月25日に近視のチェリー=ガラードを送る運命的な決断をした。しかしチェリー=ガラードはナビゲートができず、エレバス山から見える範囲にある1トン・デポまでしか行けなかったので、スコットの命令である3月1日に南緯82度あるいは82度30分で落ち合うことには合わせられなかった。 スコットと残っていた3人の隊員は帰路のバリアまで来た段階で、この地域では記録されたことも無いような悪天候に曝されてしまった。この天候と大変な氷面(「砂漠の砂の上を曳くようだ」スコットの2月19日日記)のために進行が遅れ、オーツの足の状態がさらに悪くなった。スコットは天候が変わることを期待したが、2月終わり近くなると、気温もさらに下降した。3月2日、バリア中央の貯蔵所で、スコットは明らかに缶の蓋に使われた革パッキンの収縮のため蒸発して水作りと調理と暖をとるための燃料である灯油が足りなくなっていることが分かった。「どんなに節約したとしても、71マイル (114 km) 先にある次の貯蔵所までもたない」と記した。3月9日に到着した次の貯蔵所でも同じように不足が生じており、「我々を救出に来てくれるであろう犬達」の兆候は無かった。1日当たりの行程は5マイル (8 km) 以下まで落ちており、この隊には絶望的なほど食料と燃料が不足していた。3月17日頃、オーツは明らかに頭が冴えたままテントの外に出て行き、スコットの証言に拠れば、「ちょっと外に出て来る。少し経ったら戻る」と言っていた。オーツの犠牲的精神も他の者を救えなかった。スコット、ウィルソン、ボワーズの3人は1トン・デポから11マイル (18 km) 南まで辿り着いたが、3月20日に激しいブリザードによって止められた。彼らは毎日前進しようとしたが、それが出来ず、物資も底をついた。スコットの最後の日記は1912年3月29日になっており、その死の日を仮定して、次の言葉で終わっていた 毎日我々は11マイル先の貯蔵所に向かって進もうとしたが、テントの外は雪が暴れまくる景色ばかりだ。今は何か良いことを期待できるとは思えない。我々は最後まで耐え抜くが、我々の体は衰弱しつつあり、もちろん最期は遠くないだろう。残念だがこれ以上は書けそうにない。R・スコット、最後の日記、どうか我々の家族の面倒を見てやってくれ
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