イギリス南極探検 1907年-1909年
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「アーネスト・ジョイス」の記事における「イギリス南極探検 1907年-1909年」の解説
詳細は「ニムロド遠征」を参照 シャクルトンがニムロドでの南極遠征のために乗組員を選別しているとき、ジョイスはそれに早期に応募した者達の一人となった。シャクルトンはその遠征用事務所の横を通り過ぎたバスにジョイスが乗っているのを見て、人をやってジョイスを捕まえ、その時点で隊員に加えたというのが、多くの者の語る証言である。この遠征に加わるために、ジョイスは海軍からの兵役解除を金で購った。後年、シャクルトンはこの代償を払うと約束していたのにそれを払ってくれなかったと主張することになり、シャクルトンとの関係に歪をもたらす金の問題になった。ジョイス、シャクルトン、フランク・ワイルドが前の南極探検を経験していた3人となり、ジョイスはディスカバリーの時の経験に基づいて、新しい遠征隊でも物資係と犬ぞりの係になった。1907年8月の出発前、ジョイスとワイルドはハンプシャーにあるジョセフ・コーストン卿の印刷会社で印刷に関する短期集中コースを受けた。これはシャクルトンが南極にいる間に本あるいは雑誌を出版するつもりだったからだった。 ニムロドは1908年1月1日にニュージーランドを出発し、燃料を節約する手段として南極の叢氷に会うまでタグボートのクーニアに曳かれて行った。1月23日、このときは独力で動いていたニムロドはロス棚氷(当時はグレート・アイス・バリア、あるいは単純にバリアと呼ばれていた)に到着し、そこでシャクルトンは、ディスカバリーのときに発見していた入り江にその基地を作る計画だった。これは不可能だと分かった。その入り江は、1902年2月にスコットとシャクルトンが気球に乗って視察した所だったが、大きく広がって開けた湾になっていた。そこをシャクルトンが「クジラ湾」と名付けた。シャクルトンは、そこの氷が上陸に耐えるほど固まっていないと判断し、近くのエドワード7世半島にも代替となる上陸点を見つけられなかった。シャクルトンは南極に出発する前に、スコットが前の遠征で使ったマクマード・サウンドの基地あるいはその近くを自分の遠征の基地として使わないと、スコットと約束していた。しかしこの時は、交わしていた約束を破るしかなくなり、ニムロドをより安全なマクマード・サウンドに誘導した。基地として最終的に選ばれたのはケープ・ロイズであり、スコットが昔使ったハットポイントの基地からは北に20マイル (32 km) ほど離れているだけだった。船から物資を陸に揚げる長期に渡り困難さをともなった作業の間、ジョイスは陸に留まり、犬とポニーの面倒を見ながら、遠征隊の小屋の建設を応援した。3月、ジョイスはエレバス山に初めて登った隊を支援し成功させたが、自分では頂上まで行かなかった。 その後の冬の間、ジョイスはワイルドの助けを得て、シャクルトンが編集した遠征隊の本、『オーロラ・オーストラリス』を印刷した。約25ないし30部を印刷し、糸綴じと製本が行われた。それでなくてもジョイスは次のシーズンに極点を目指す旅の装置や物資の準備で忙しかった。彼の経験から考えれば、その南極点行隊には自分も加えられると考えていた。しかし、様々な事故のためにポニーの数が4頭にまで減ったので、シャクルトンは隊員の数を4人にまで減らした。落選した中にジョイスも入っており、それは隊の医師であるエリック・マーシャルが、ジョイスは肝臓に問題があり、心臓病の初期段階にあると診断したその助言に基づいて判断された。フランク・ワイルドはマーシャルやジェイムソン・アダムズと共に南極点行に選別された。この隊が南極点を寸前にして前進を断念した後、ワイルドはその日誌に、「我々の隊にこの2人の役立たずの穀潰し(マーシャルとアダムズ)の代わりにジョイスとマーストンがいさえすれば、容易にやり遂げていた(南極点に達していた)だろう」と記していた。ジョイスは自分が外されたことに特に不満を表さなかった、その準備作業を手伝い、旅の最初の7日間は南極点行に同行した。その後の数か月は、南極点行隊が戻ってくるときのために適切な物資を確保できるよう補給所の強化にあたった。ミンナブラフでは生命維持のための食料や燃料と共に特別の贅沢品も隠しており、それが見つかった時にはワイルドが直ぐに称賛の声を上げた。 シャクルトンとその隊は南極点行の旅から無事に戻り、ニムロドが母国に戻ることのできる時期に間に合った。この隊はそれまでの最南端記録を更新して南緯88度23分に達し、南極点まで残り97海里 (180 km; 112 マイル) だった。ジョイスは南極点行の隊が船に間に合わなかった場合には、隊の成果を見届けるために後衛として基地に留まる用意があった。ニムロドは最終的に1909年9月にロンドンに到着し、ジョイスの指示で極地の工芸品の船上展示の準備を行った。シャクルトンはこれに応じて年250ポンド(2008年換算で18,000ポンド)の給与を払った。当時としてはかなりの額だった。その後ジョイスは定職に付かずに次の遠征での職を探した。
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