遠征の後の経過とは? わかりやすく解説

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遠征の後の経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 14:25 UTC 版)

テラノバ遠征」の記事における「遠征の後の経過」の解説

キャンベル遠征隊の中では海軍の上士官だったので、最後の数週間はその指揮執り1913年1月18日テラノバ到着待った最後出発前にハットポイントを見下ろすオブザベーションヒルに、木製大きな十字架立てられ、それには死んだ5人の名前彫られ、さらにアルフレッド・テニソンの詩『ユリシーズ』から「戦い求め見出し、そして負けない」という句が彫られた。 南極点行隊の死因として考えられるのは、飢え脱水症状あるいはその両方であり、運んだ食料問題興味を呼ぶ。遠征の隊で運ばれ消費され食料は、1910年理解されていた栄養学基づいている。高タンパク成分を特に人力曳く重労働場合燃焼される熱量置き換えるために必要であると強調された。実際に食料カロリー値は非常に過大評価されたが、それはかなり後の時代明らかになったことだった。一人当たり1日食料16オンス (450 g) のビスケット12 オンス (340 g) のペミカン、3 オンス (85 g) の砂糖、2 オンス (57 g) のバター0.7 オンス (20 g) の紅茶と0.57 オンス (16 g) のココアだった。南行きではこの食料加えてポニー曳く仕事終わった後にそれを殺して肉を補充したが、そのような補充短期間カロリー不足を埋め合わせる上のものではなかった。 スコットとその隊を失ったことは、アムンセン最初に南極点到達したことも含めイギリス大衆の心にある他のもの全てに影を投げたスコットの悲劇英雄としてイメージ長年非難はおろか事実上異議出せないものだったが、死亡した者の親戚含め遠征隊に近い者の間には亀裂もあった。ただしこのことは大衆中にはなかった。俳優ジョン・ミルズスコット役を演じレイフ・ヴォーン・ウィリアムズ音楽担当した1948年の映画南極スコット』は、慎重に戦略人為以外の問題描いたが(あるシーンではスコット十分な資金集められなかったが、手に入れたばかりの壊れかけたテラノバ写真熱心にウィルソン見せており、ウィルソン動かないまである)、焦点はイギリスチームの精神だった。1970年代まで大衆受け取り方に実際変化無かったその時まで遠征直接かかわった者のほとんど全て死んでいた。 1979年、ロランド・ハントフォードの著作スコットアムンセン』(1985年にも再版同年地球最後の場所』としてテレビドラマ化)の出版議論始まった。ハントフォードはスコット権威主義的指導スタイルとされるもの、および人に付いて判断がまずいことに批判的であり、南極点行隊の全員死に導いた一連の組織的失敗非難したスコット個人的立場はこれらの攻撃に傷ついた。その評判快復しようという試みには、ラナルフ・フィーネスによる証言(ハントフォードの著作対す直接反論)、スーザン・ソロモンによる最終的にスコット倒した気象条件分析、デイビッド・クレーンによるスコット伝記2005年)、カレン・メイによるチーム帰還する隊を速やかにベースキャンプまで運ぶことを指定した従われなかった)スコット命令再発見があった。 スコットアムンセン業績比較すると、極圏歴史家大半概してアムンセンスキーに関する技量、氷の状態に関する総合的知悉度合、および科学という目的の無い遠征にはっきり集中したことで、極点への競争ではかなりの利点があったことを認めている。スコットの隊を倒した災難に関する判断は、死に臨んで書かれたもので、ポニーと言う輸送手段当初失ったこと、気象条件、「私が計算できなかった貯蔵所での燃料の不足」、エバンスオーツ病気挙げられているが、最終的に「我々の遭難バリアの上厳し天候に突然変わったことであり、日中で−30 °F (−34 °C)、夜間で−47 °F (−44 °C) となったことだった」と結論付けている。1912年3月1日犬ぞりチーム出逢うことに失敗したことについて、スコットは「誰も非難できない、我々に支援無かった示唆させるような試みが無いことを期待する」と記していた。チェリーガラードは、アトキンソンから犬橇チーム任され遅く出発したが、スコット出会えず、疲れ果てて基地戻った。「やったことの全体単純に『もしも』に苛立つことになる。」と言い異なった決断状況集積最終的に惨事つながったのであるが、「この事件前に誰もが賢明であったように、我々は賢明である」と語った遠征から31年後、テラノバグリーンランド基地物資運んでいる時に回復できないような損傷を受け、火を放たれた上に、その後1943年9月13日グリーンランド南岸沖からの砲撃沈められた。北緯6015分15秒、西経45度5545秒沈んだ2012年水中残骸発見された。 2017年8月ニュージーランド団体Antarctic Heritage Trustは、ケープ・アデアにおいてテラノバ遠征隊が残したとみられるフルーツケーキ発見した発表した

※この「遠征の後の経過」の解説は、「テラノバ遠征」の解説の一部です。
「遠征の後の経過」を含む「テラノバ遠征」の記事については、「テラノバ遠征」の概要を参照ください。

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