遠征の後の経過
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キャンベルが遠征隊の中では海軍の上級士官だったので、最後の数週間はその指揮を執り、1913年1月18日にテラノバの到着を待った。最後の出発前にハットポイントを見下ろすオブザベーションヒルに、木製の大きな十字架が立てられ、それには死んだ5人の名前が彫られ、さらにアルフレッド・テニソンの詩『ユリシーズ』から「戦い、求め、見出し、そして負けない」という句が彫られた。 南極点行隊の死因として考えられるのは、飢えか脱水症状あるいはその両方であり、橇で運んだ食料の問題が興味を呼ぶ。遠征の橇の隊で運ばれ消費された食料は、1910年に理解されていた栄養学に基づいている。高タンパク成分が橇を特に人力で曳く重労働の場合に燃焼される熱量に置き換えるために必要であると強調された。実際に食料のカロリー値は非常に過大評価されたが、それはかなり後の時代に明らかになったことだった。一人当たり1日の食料は16オンス (450 g) のビスケット、12 オンス (340 g) のペミカン、3 オンス (85 g) の砂糖、2 オンス (57 g) のバター、0.7 オンス (20 g) の紅茶と0.57 オンス (16 g) のココアだった。南行きではこの食料に加えて、ポニーの橇を曳く仕事が終わった後にそれを殺して肉を補充したが、そのような補充は短期間でカロリー不足を埋め合わせる以上のものではなかった。 スコットとその隊を失ったことは、アムンセンが最初に南極点に到達したことも含め、イギリスの大衆の心にある他のもの全てに影を投げた。スコットの悲劇の英雄としてのイメージは長年、非難はおろか事実上異議を出せないものだったが、死亡した者の親戚を含め遠征隊に近い者の間には亀裂もあった。ただしこのことは大衆の中にはなかった。俳優ジョン・ミルズがスコット役を演じ、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズが音楽を担当した1948年の映画『南極のスコット』は、慎重に戦略と人為以外の問題を描いたが(あるシーンではスコットが十分な資金を集められなかったが、手に入れたばかりの壊れかけたテラノバの写真を熱心にウィルソンに見せており、ウィルソンは動かないままである)、焦点はイギリスチームの精神だった。1970年代まで大衆の受け取り方に実際の変化は無かった。その時までに遠征に直接かかわった者のほとんど全てが死んでいた。 1979年、ロランド・ハントフォードの著作『スコットとアムンセン』(1985年にも再版、同年『地球最後の場所』としてテレビドラマ化)の出版で議論が始まった。ハントフォードはスコットの権威主義的指導スタイルとされるもの、および人に付いての判断がまずいことに批判的であり、南極点行隊の全員を死に導いた一連の組織的失敗を非難した。スコットの個人的立場はこれらの攻撃に傷ついた。その評判を快復しようという試みには、ラナルフ・フィーネスによる証言(ハントフォードの著作に対する直接の反論)、スーザン・ソロモンによる最終的にスコットを倒した気象条件の分析、デイビッド・クレーンによるスコットの伝記(2005年)、カレン・メイによる犬のチームが帰還する隊を速やかにベースキャンプまで運ぶことを指定した(従われなかった)スコットの命令の再発見があった。 スコットとアムンセンの業績を比較すると、極圏歴史家の大半は概して、アムンセンのスキーと犬に関する技量、氷の状態に関する総合的知悉度合、および科学という目的の無い遠征にはっきり集中したことで、極点への競争ではかなりの利点があったことを認めている。スコットの隊を倒した災難に関する判断は、死に臨んで書かれたもので、ポニーと言う輸送手段を当初に失ったこと、気象条件、「私が計算できなかった貯蔵所での燃料の不足」、エバンスとオーツの病気が挙げられているが、最終的に「我々の遭難はバリアの上で厳しい天候に突然変わったことであり、日中で−30 °F (−34 °C)、夜間で−47 °F (−44 °C) となったことだった」と結論付けている。1912年3月1日に犬ぞりチームと出逢うことに失敗したことについて、スコットは「誰も非難できない、我々に支援が無かったと示唆させるような試みが無いことを期待する」と記していた。チェリー=ガラードは、アトキンソンから犬橇チームを任されて遅く出発したが、スコットに出会えず、疲れ果てて基地に戻った。「やったことの全体は単純に『もしも』に苛立つことになる。」と言い、異なった決断や状況の集積が最終的に惨事につながったのであるが、「この事件の前に誰もが賢明であったように、我々は賢明である」と語った。 遠征から31年後、テラノバはグリーンランドの基地に物資を運んでいる時に、回復できないような損傷を受け、火を放たれた上に、その後の1943年9月13日、グリーンランド南岸沖からの砲撃で沈められた。北緯60度15分15秒、西経45度55分45秒に沈んだ。2012年に水中の残骸が発見された。 2017年8月、ニュージーランドの団体Antarctic Heritage Trustは、ケープ・アデアにおいてテラノバ遠征隊が残したとみられるフルーツケーキを発見したと発表した。
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