スコットの悲劇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 14:25 UTC 版)
「アムンセンの南極点遠征」の記事における「スコットの悲劇」の解説
アムンセンはホバートを離れ、オーストラリアとニュージーランドを講演して回った。それからブエノスアイレスに行き、其処で遠征の報告書を書き上げた。ノルウェーに戻ると、報告書発表の監修を行い、つぎにイギリスを訪れて、さらにアメリカにおける長期の講演巡業を開始した。ウィスコンシン州マディソンに滞在中の1913年2月に、スコットと4人の隊員が1912年1月17日に極点に達したものの、その帰途において3月29日までに全員が死亡したとの知らせを受けた。スコット、ウィルソン、バウワーズの各遺体は南極の冬季が過ぎた1912年11月に発見された。第一声において、彼はその知らせを「恐ろしい、恐ろしい」と表現した。より改まった賛辞は次のようなものであった:「スコット隊長は、正直さ、誠実さ、勇敢さ、男を男たらしめるすべてに対して、記録を残した」。 ハントフォードによれば、スコット死亡の知らせは「勝者アムンセンが…犠牲者スコットにより影が薄くなった」ことを意味した。イギリスではスコットが高潔にふるまい、競争を公正に戦った者と扱う神話が急速に広まった。スコットが敗北したのは、対照的にアムンセンが自身の真の動機を隠し単に栄光を追い求める者であり、愚直な人力推進に依存するよりも犬に橇を引かせ、その同じ橇犬を食料として殺したからであった。それだけではなく、当時のイギリス上流階級の理解では、アムンセンは「職業的」と捉えられ、このことにより彼の業績は何であれ低く見られた。この捉え方は、スコットの日誌と、同じく探検中に著した『一般に向けたメッセージ』の公表によって大いに補強された。「スコットの文才は彼の最後の手だ。それはまるで彼が埋もれたテントから手を伸ばし、復讐をしているようだった」とハントフォードは指摘した。それでも探検家たちの間ではアムンセンの名前は引き続き尊敬された。数年後に記されたテラノバ遠征(イギリス南極遠征)の報告書において、スコット隊の隊員であるアプスリー・チェリー=ガラードは、アムンセンの成功の第一の理由を「彼の類まれなる資質」、とりわけ既知の道のりを後追いするよりも未知のルートを見つけ出すことを選択する勇気、にあるとした。
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