南極の冬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 16:35 UTC 版)
「カルステン・ボルクグレヴィンク」の記事における「南極の冬」の解説
ボルクグレヴィンクは資金を確保できたので、捕鯨船ポーラックスを購入し、SSサザンクロスと改名し、南極のための艤装を行わせた。サザンクロスは1898年8月22日にロンドンを出港し、タスマニアのホバートで3週間停泊した後、1899年2月17日にケープ・アデアに到着した。ボルクグレヴィンクが地理学会議で説明したこの場所、ペンギンの生息地の真ん中で、遠征隊は南極大陸で初の陸の基地を設立した。基地はボルクグレヴィンクの母の旧姓から「キャンプ・リドリー」と命名された。3月2日、船はニュージーランドで冬をすごすためにそこに向けて出港し、岸には10人の隊とその食料と装置、および70匹の犬が残った。この犬は南極大陸に初めて連れて来られたものであり、またスウェーデンで6年前に発明されたプリムス・ストーブの利用でも初めてのことだった。犬とプリムス・ストーブは南極探検の英雄時代に続いた遠征全てで必需品となった。 隊員のオーストラリア人医師ルイ・ベルナッチが後に「多くの観点で、ボルクグレヴィンクは良い指導者ではなかった」と記していた。ボルクグレヴィンクは明らかに独裁者ではなかったが、ベルナッチに拠れば、受容された階層の枠組みが無く、「民主的無政府」状態が主であり、「汚れ、無秩序、不活発性というのが当時の秩序だった」と記している。さらに冬が訪れると、ケープ・アデアであれば、南極最悪の気象を免れるというボルクグレヴィンクの期待は外れた。実際には内陸の氷から北に吹き出す凍り着く風に特に曝される場所を選んでいた。時間の経過と共にこらえ性がなくなっていった。隊員は怒りっぽくなり、退屈が支配した。事故が起きた。寝床の中で消されずにいた蝋燭から火事になり、大きな被害を出した。また隊員数人がストーブからのガスで窒息しそうになった。ボルクグレヴィンクは日課を設定しようとし、科学作業が毎日行われたが、自身でも書いていたように概して共同体意識がなかった。「沈黙が耳を弄していた」士気がさらに落ちると、隊の動物学者ニコライ・ハンソンが病気になり、治療の効いもなく、10月14日に死んだ。 冬が終わり、橇による活動が可能になると、ボルクグレヴィンクが想定していた内陸への容易な旅も嘘であることが分かった。ケープ・アデアに隣接する氷が覆った山脈が内陸への旅を不可能にしており、ケープに直接接する地域でも探検を制限していた。しかし、ボルクグレヴィンクの基本的遠征計画は、南極大陸で越冬することであり、そこで科学的観測を行うことだったので、それらは達成された。1900年1月末にサザンクロスが戻ってくると、ボルクグレヴィンクはキャンプを放棄することに決めたが、もう一年いても十分なくらい燃料と食料が残っていた。サザンクロスは直接帰国する代わりに、グレート・アイス・バリアに達するまで南下した。このバリアは1839年から1843年のジェイムズ・クラーク・ロスによる遠征中に発見され、後にその栄誉を称えてロス棚氷と命名された。ロスは上陸しておらず、その時からだれもバリアを訪れていなかった。ボルクグレヴィンクはバリアの縁に入り江を発見し、後年、シャクルトンによって「クジラ湾」と名付けられた。1900年2月16日、ここにボルクグレヴィンク、ウィリアム・コルベック、サーミ人の犬御者ペル・サビオが、犬と橇と共に初めてバリアに登り、内陸に10マイル (16 km) 移動して、当時の最南端記録南緯78度50分を樹立した。サザンクロスはロス海の他の場所も訪れた後に帰還の途に就き、4月1日にニュージーランドに到着した。ボルクグレヴィンクはその後イングランドに向かう蒸気船に乗り換え、6月初旬に到着した。
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