ケープ・クロージャーへの冬の旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 14:25 UTC 版)
「テラノバ遠征」の記事における「ケープ・クロージャーへの冬の旅」の解説
この旅はエドワード・ウィルソン博士が思いついた。ディスカバリー遠征の科学報告書の動物学の部でその必要性を提案しており、この以前の調査をフォローしたいと願っていた。その旅の科学的目的はケープ・クロージャーに近いコウテイペンギンの繁殖地から初期胚卵の段階で卵を確保することであり、それで「鳥の繁殖における特別な地点が研究できる」はずだった。このためには抱卵の初期段階である真冬に卵を取得する必要があった。2つ目の目的は次の夏の極点行に先立って食料と装置を実験しておくことだった。スコットがその案を承認し、ウィルソン、ボワーズ、チェリー=ガラードで構成された隊が1911年6月27日に出発した。 南極の冬に動くことはそれまで試みられていなかった。スコットはそれが、「大胆な冒険だが、適材がそれを試みることになる」と記していた。チェリー=ガラードは後に、ケープ・クロージャーまで60マイル (97 km) の旅に要した19日間の恐怖を語っていた。機械、衣服、寝袋は常に凍っていた。7月5日、気温は −77 °F (−60 °C) 以下に下がった。「霜の109度、闇と凍った衣服の中で誰もが耐えたいと望む寒さ」とチェリー=ガラードは記していた。1日に進める距離が1マイル (1.6 km) 以下のことも多かった。 この隊はケープ・クロージャーで、大いに苦心して石、雪のブロック、および屋根のために持っていたカンバスで岩小屋を建設した。その後にペンギンの繁殖地を訪れ、コウテイペンギンの卵数個を採集した。その後で小屋は風力11のブリザードによって屋根を吹き飛ばされた。この嵐は隊の生きて帰還するために重要となるテントを吹き飛ばしたが、幸いにも半マイル (800 m) 先で回収できた。隊はエバンス岬に向けて帰り始め、8月1日に帰って来た。この旅で3つの卵を無事持ち帰り、サウスケンジントンのロンドン自然史博物館にまず送られ、その後エディンバラ大学でコッサー・スチュワート博士の研究報告書の対象になった。しかし、その卵はウィルソンの理論を証明することはできなかった。 チェリー=ガラードはその後、この旅を「世界でも最悪の旅」と語っており、1922年にテラノバ遠征全体の記録として書いた本の題にその言葉を使った。スコットはこの冬の遠征を「大変素晴らしい功績」と呼び、食料と装置の実験には大いに満足して、「我々は経験が示すことのできる完成に近いところにいる」と語った。
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